第一話 dizzy③

「はい、これ」

 数時間後、約束した場所で僕は先輩に財布を手渡されていた。

「ありがとうございます」

「忘れてったのがスタッフルームで良かったね。駅とかで無くしてたらみつかってなかったかもよ」

「ですね、気をつけるようにします」

 日も落ちかけ、さらに肌寒くなった。腰掛けているベンチは最初こそ冷たかったが、座り続けてやっと体温程度に温かくなった。

「……で、なんでやめたの?」

 サツキ先輩は缶コーヒーをすすりながらこちらに問いかける。

「……それを言いたくないから黙ってバイトやめたってこと、知ってて言ってます?」


「うん」

「敵わないなぁ」

 僕は苦笑いする。

「言いたくないなら、いいけど」

「いや、大したことじゃないんですよ。若気の至り、みたいな」

 僕がお茶を濁そうとしているのを見抜いているとでも言うかのように、先輩は何も言わない。

「……みんな、どうして夢とか目標をあんなに堂々と掲げられるんでしょう」

 僕は俯きがちに話し出す。


「昔から、自己紹介が苦手だったんです。人見知りだったわけじゃないけど、将来の夢とか、自分の特技とか、そういったものを考えたときに、一つも思いつかないんです」

 自分で言っていながら、情けなくなる。

「それで、最近気がついたんです。あぁ、僕って空っぽだったんだなぁって。これまで二十年間生きてきて、なにも、なにもないんだなぁって……」

 目頭と喉元に熱いものがこみ上げる。

「『あなたはどうしたいの』なんて、『どうなりたいの』なんて、どうやって簡単に答えられるんでしょうね。僕は、もう、わからないです」

 静寂が辺りに響き渡る。遠くで子供達の別れの挨拶が聞こえる。


 黙って僕の話を聞いていた先輩は、僕の独白が終わるとゆっくりと立ち上がった。

「焦りすぎ」

 そう言って先輩は僕の額を指で小突いた。

「そんなの、これからゆっくり見つけていけば良いことでしょうが。大人ぶりすぎよ」


 先輩は豪快に笑った。それが気遣いゆえの行動であることは僕にもわかった。しかし、不思議と彼女の笑顔に吊られて僕の口角もあがっていた。今まで僕の心をむしばんでいたものが、今だけは妙にちんけなものに思えた。

「少なくとも、私は伊瀬の良いところ、沢山知ってるよ」

 先輩の笑顔は優しい微笑みに変わっていた。

「そういうところをさ、自分でも愛せるようになると良いね」

「……善処します」

「こりゃ先は長そうだ」

 僕たちは再度、破顔一笑した。

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