第一話 dizzy②

 あてもなく三十分ほど歩いただろうか。以前なんのめども立っていない僕がこれからどうしたものかと思っていると、電話の着信音が鳴った。

「伊瀬っ! アンタ、バイトやめるってほんと?!」

 電話越しの声のあまりの大きさに耳鳴りがする。電話をかけてきたのはサツキ先輩だった。サツキ先輩は僕がついさっきやめたアルバイト先で働いていて、僕が最もお世話になった恩人だ。


「はい。やめるっていうか、ついさっきやめてきたところです」

「なんで事前に私に連絡しないのよ!」

 そうするのが当たり前であるかのような物言いをするサツキ先輩に思わず僕は笑みがこぼれる。

「いや、引き留められると思ったんで」

「そりゃそうでしょ!」

電話越しでも普段の表情豊かに話すサツキ先輩の様子が手に取るようにわかる。

「はは、すみません」


「……なんか、バイト先で嫌なことでもあったの?」

 サツキ先輩は声のトーンをいくつも落とす。

「何もないですよ」

「ほんとに……?」

「ほんとです。僕が嘘つくわけないじゃないですか」

 僕は冗談めかして言う。

「……そ。なら良かった」

 声の大きさと、その豪胆さから勘違いされやすいが、サツキ先輩は人一倍、他人のことを気遣える人物だ。だからこそ今回も、僕を心配して電話をかけてきてくれたのだろう。それを見越した上で、僕もアルバイトをやめることをサツキ先輩に伝えていなかったわけだが、彼女の優しさの前では逆効果だったようだ。


「なんでもいいけどさ、スタッフルームに財布置きっぱなしだったよ」

「え、ほんとですか」

僕は服のポケットをまさぐるが、財布らしきものは見つからなかった。

「すみません、取りに行きます」

「あー、いいわよ。私、バイト終わりに届けに行くから」

「いやいや、それは申し訳ないです」

「いいの。少し話したいこともあるし」

「そうですか……。じゃあ折衷案で向かいの公園で待ちあわせしましょう」

「それじゃあ伊瀬が直接取りに来るのと変わんないじゃない。まぁいいや。じゃあ三時間後にそこで」

「了解です。それじゃあ」

 そう言って電話を切る。スマートフォンの画面に表示された時刻は正午ちょうどだ。


「あれ、どこだここ……」

 人と話をしている最中は案外他の事への注意が散漫になるようで、僕はいつのまにか市街地から離れた人気の少ない場所へ来ていた。

「しまったなぁ……」

 感傷に浸っているのではなく、素直にまっすぐ家に帰るベきだったと後悔していると、十メートルほど先の曲がり角から人の話し声が聞こえる。

 そちらへ歩いて行こうとすると、後ろから肩を掴まれる。見ると、大柄の男性警官二人が立っていた。


「ごめんね、この先は近寄らないで貰えるかな」

 見た目とは裏腹に物腰が柔らかい。

僕が小さく、すみません、と言うと、会釈をして曲がり角の方へ歩いて行った。

「まったく、哲学者にやられたホトケさんは見るに堪えねぇんだよなぁ……」

「やつら、派手にやりますからね……」

「今回も同一犯の犯行で確定したんだよな?」

「えぇ、被害の深刻さから捜査の範囲も広域に拡大するそうです」

 去り際に、彼らの会話が少し聞こえた。


「哲学者、か……」

 哲学者、それは人ならざる超常的な力を持つ者達の総称。ある者は火を自在に操り、ある者は民衆を傀儡のように洗脳し、ある者は国家を転覆させるまでの強大な力があるという。しかし、僕は二十年生きてきてその存在をニュースで知ることはあれど、実際に見たことは一度もなかった。そのため、都市伝説に近いもののように感じている。

「そんな力があるなら、わけてほしいもんだよ……」

 独り言をぼそぼそと呟いていると、向かいから歩いてきた人とぶつかってしまった。そのはずみで、ぶつかった人物が抱えていた何冊もの本が道路に音をたてて散らばる。


「す、すみません!」

 僕は急いでそれらを拾う。

「あぁ、いえこちらこそ不注意でした」

むき身で大量の本を抱えていた人物はぼさぼさの髪の男性だった。身長は高くなく、体系のわかりにくい服装をしていて、二十代半ばのようにも見えるし、小学生のように若々しくも見える、不思議な雰囲気の人物だった。

「いやはや、失礼しました。……おや、あなた……」

 そう言って彼は僕の顔をじっと見つめた。

「な、なにか……?」


 彼の目は大木にできた洞のようだった。ずっと見つめていると、深い井戸の中を覗くような不安感を覚える。彼のつけている香水だろうか。どこからか葡萄の香りが漂ってきたのを感じたところで、男性が口を開く。

「あなた、今日ついてないなーって思ってません?」

「……は?」

「良いことないなーっていうか、なんでこんなに人生上手くいかないんだろーって思ってません?」

「あ、あはは、そんなことないですよ」

 タチの悪い押し売りか、そうでなくとも何かしらの怪しげな勧誘をされるに違いない、と思った僕はすっくと立ち上がり、いち早くその場を去ろうとした。


「蛇」

 背中越しに男性が呟く。

「え?」

「蛇に注意って暗示が出てますね。私、ちょっとした占いめいたものができるんですよ」

 『ちょっとした』占い『めいたもの』はもはや怪しさしかないと思い、僕は、

「そうですか、気をつけます」

と会釈をして、早足で歩き出す。そんな僕に構わず、男性はこう続けた。

「そういえば、旧約聖書において、原初の人類をそそのかしたのも蛇でしたねぇ」

意味深長な発言が気にかかり、振り返ると、そこにはもう彼の姿はなかった。

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