第9話

 ここの家では僕に娘二人も加わって食事の後かたづけをして、その娘たちが自分らの部屋に戻ってから、かおるはようやく帰って来た。

 そのフライドチキンの残りとノンアルコールのスパークリングワインで、お祝いと、お疲れ様のさかずきを上げる。

 馨は酒豪だが、元日から十時間以上働いて、また明日も仕事があるのに、もう飲もうとは思わないと言った。ぼくも、惣吉郎そうきちろうさんのところでお酒と梅酒を飲んできて、もうアルコールは十分という気分だ。

 「お父さんからわたしのスマホに、電話、あったわよ」

と馨は身を乗り出す。

 僕と同じ五十歳台だが、グレーで、胸のところに花柄の飾りの入った毛糸のカーディガンを着た馨は、昔と同じように色っぽくて、きれいだ。

 面長おもながの鼻筋の通った顔で、色は白くて、目はぱっちりしていて瞳が黒くて。

 馨は、また「るん♪ るん♪」の鼻歌を後ろにくっつけそうな浮かれぐあいで、言う。

 「何十年も謎だったことばを実葉みはに教えてもらえて、とってもうれしがっていた」

 「ああ、そのことか」

 僕はわざと平板に言った。

 「英語だろう、って言われて、僕にはわからなかったときには、冷や汗ものだったよ」

 実際には冷や汗が出るまでは行かなかったが、そういうことにしておこう。

 「それに、一度聞いたきりなんだから、まちがってるんじゃないかって、半信半疑だった」

 「半信半疑」でいいのかどうか、よくわからないけど。

 馨は、軽くノンアルコールのスパークリングワインを飲んで、グラスを顔の正面からはずし、僕に向かって柔らかくほほえみかける。

 だから!

 そんな色っぽいしぐさをしなくていいんだ、って。

 「お父さんは、わたしには今日までそんな話はしてくれなかった。それは、その人が初恋の相手だったからだね」

 「ああ」

 抵抗なく、僕も相づちを打つ。

 「お母さんは、すごく嫉妬しっと深い人だった」

 馨は、去年死んだ自分の母親のことをそんなふうに言った。

 べつにとげとげしい言いかたではなかった。

 もちろん、懐かしんでいるような言いかたでもなかったけれど。

 「いもしない女の人をでっち上げては、お父さんに、浮気したでしょ、って定期的に食ってかかる。自分の友だちがお父さんと不倫してる、なんて騒ぎ立てたこともある。それで、証拠がある、なんて大騒ぎするんだけど、じゃあ、証拠を出して、と言われたら、何もない。あんたなんかの前に手の内をさらすもんですか、ってどなるだけ。とにかく、そういうのが一か月に一回ぐらいめぐってくる。そんな人だった」

 「うん」

 ぼくは軽くうなずくだけにした。

 実葉が高校生のころ、いちいち突っ張ってみせる実葉の態度に、その自分の母親の影を見ていたのだ、ということがいまわかったのだけど、そのことは言わずにおく。

 馨は続けた。

 「だから、お父さんは、そのお母さんが死ぬまで、その人のことをだれにも言えずに来たんじゃないのかな。ずっと封印してきたから、そのことばも、かえって正確に覚えていたんだろうね」

 穏やかに言って、穏やかに笑う。

 その笑顔で、ぼくはほっとした。

 「るん♪ るん♪」とはまた違う、大人びた笑顔だった。

 自分の母親を許したのかというと、そうは思えないけど、もしかすると「許す」に一歩近づいたのかも知れない。

 ぼくは言った。

 「天には神の栄光を、だったかな」

 惣吉郎さんが覚えていたとおりを、いや、それを見て実葉が思い出した正確なラテン語を言えればよかったのだけど、どちらも覚えていない。

 「そして、地には平和を」

 馨がその続きを言った。

 言って、ノンアルコールのスパークリングワインのグラスを、ぼくに差し出す。

 いい笑顔だ。

 この人は「るん♪ るん♪」抜きでもこんなに魅力的に笑えるんだ、と思った。

 僕はこの人にもういちど恋をしてしまいそう。

 いや、訂正。

 もういちど恋をしてしまった。

 だから、僕も、同じようにワイングラスを妻に差し出す。

 僕は馨の目を見て、馨も僕の目をはっきりと見て。

 「乾杯」

 僕が言うと、馨と僕はワイングラスの縁を合わせた。

 グラスは、どんなでも出せないような清らかな音色を奏でた。

 僕と馨は、顔を見合わせて、どちらからともなく笑顔を見せた。


 (終わり)

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