第8話

 しかし。

 「わあ。お姉ちゃん、ラテン語なんか知ってるの?」

 ももが目を輝かせて姉に訊いてくれたので、父親は上の娘に恥ずかしい質問をせずにすんだ。

 「ラテン語知ってるっていうより」

 実葉みはは当惑気味だ。

 しかし、すぐにその当惑から回復した。

 「ミサ曲ってね、カトリックの典礼に使う曲があるんだよ。モーツァルトもベートーヴェンも、クラシックの作曲家はだいたいミサ曲を作っててさ。ベートーヴェンは交響曲の九番ばっかり有名だけど、同じ時期に、「ミサ・ソレムニス」って凄い曲作ってるんだよね」

 熱をこめて話し始める。

 この上の娘は、暗くて乱暴で、というところが影をひそめたかわりに、自分の専門のことになると饒舌じょうぜつにしゃべるようになった。

 交響曲の九番というのは、合唱つきの「第九」のことだろうけど。

 ベートーヴェンの曲の話なんかになったら、僕ではついて行けなくなる。

 そこに

「それが、ラテン語?」

と、またも下の娘が父の訊きたかったことを訊いてくれる。

 「うん」

 実葉はあたりまえのことのように答えた。

 「二十世紀まで、カトリック教会は典礼言語にラテン語しか認めなかったんだよね。だから、カトリックのミサ曲もラテン語で歌うんだ」

 あ、と思った。

 「そのころ、浜見はまみちょうのところに天主堂というのがあってね。いまは蒲沢の大通りのほうに移転して、カトリックなんとか教会とかいう、小さい教会になってるらしいが」

 惣吉郎そうきちろうさんはそう言った。

 小学生のころの惣吉郎さんはその天主堂の近くでその「彼女」に何度も会った。

 最後に、爆撃で大やけどを負った「彼女」に会ったのも、その天主堂の前の階段だった。

 「ミサ曲っていうのは、そのぅ」

 また父親が娘の前で無知をさらけ出すことになるのだが。

 相手は三大陸制覇のクラシックの音楽家なのだと思えば、こちらの矜恃きょうじもそれほどは傷つかない。

 「教会で歌ったりするのか?」

 「ミサって、カトリックのたいせつな典礼だからね」

 実葉はとても活き活きとそう答える。

 「まあ、「ミサ・ソレムニス」とか、モーツァルトの大ミサ曲とかは、規模が大きすぎて普通の教会では演奏できないけど」

 ということは、そうでない曲は歌ったりするのだろう。

 話がつながった。

 たぶん、その「彼女」は、教会で仕事をしていたか何かだろう。「聖歌隊」というのの隊員だったのかも知れない。

 だから、惣吉郎さんは、教会の近くで何度も会った。

 最後に二人が会った日も、教会で砲撃にったのか、それとも救いを求めて、または何かやらなければと思って教会まで来て、力尽きたのだろう。

 自分を助けようとしている惣吉郎さんに「いと高きところに神に栄光あれ」と伝えたかったのか、それとも、もう気も確かではなくて、教会の儀式で聖歌を歌っているつもりでいたのか。

 もし、死を覚悟していたなら、この世に最後に「神に栄光あれ」のことばを残したかったのか。

 「実葉」

 ぼくの言いかたは命令調だったかも知れない。

 実葉も、桃も、驚いたように顔を上げた。

 「食事が終わったら、おじいちゃんに電話して、そのことを教えてあげなさい」

 「えーっ?」

 二十五にもなって、甘えた声を立てる実葉。

 いや。

 そんな声を立てるのがふさわしい年ごろには、実葉はいつもつんつんしていて、こんな甘い声を立てることはなかった。

 「お父さんから言えばいいじゃん? わたし、おじいちゃんと話なんかしたこと、ほとんどないんだから」

 「だからだよ」

と、その甘えた声の実葉に僕は切り返す。

 「それに、前にお祝いをもらったときに電話で話してるだろう?」

 十万円の「金一封」のことだが。

 「ふん」

 軽蔑するように、実葉は鼻を鳴らした。

 いや。

 それは、あのかおるの「ふん♪ ふん♪」とか「るん♪ るん♪」とかの鼻歌のたぐいだったのだろうか?

 「じゃ、ご飯が終わるのまで待つなんて性分しょうぶんじゃないから、いま電話するね」

 「あ、こら!」

 止めた僕にコケティッシュな笑みを返して、実葉は立ち上がり、ごていねいにもノンアルコールのスパークリングワインで唇を湿らせてから、スマホを取り上げた。

 桃もその姉の姿に目を輝かせている。

 父も、妹も、文句をつけることのできないその立ち姿。

 それは、たしかに、三大陸で賞を取ったスター音楽家の英姿だった。

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