第7話

 「まあ英語教師の君がそう言うなら、たぶんそうなんだろう」

惣吉郎そうきちろうさんは言い、そのあと、その「彼女」の話題に触れることはなかった。

 惣吉郎さんの家を辞去したのはもうあたりが暗くなってからだ。片づけ、手伝いましょう、と言っても、

「それぐらい僕がやる」

と惣吉郎さんは譲らなかったから、食器そのほかはそのままにして惣吉郎さんの家を出た。

 家の前の急な坂道を少し上ると自動車の通る道に出るので、その道を歩いて帰る。

 あとで、坂道を下ってその檜谷ひやさんという人の家を見てみてもよかったな、と思ったけど、またその機会はあるだろう。

 自分の家まで帰ってみると、もう娘たちは帰っていた。母親のかおるの帰りが遅いことはわかっていたので、三人で夕食にする。

 ノンアルコールのスパークリングワインに、スパイスの効いたとりの唐揚げ、というよりフライドチキン。あとはタマネギをごく薄く切ったのが入っているオニオンサラダというもので、これは下の娘のももが作ったらしい。

 お正月というよりクリスマスのような晩ご飯だ。まあ娘らにはこのほうが合っているだろう。僕だって嫌いではない。

 上の娘の実葉みははいまも機嫌がいいときと悪いときの起伏が激しいけれど、今日はとくに上機嫌だ。たぶんそのオーケストラの仕事が巧く行ったのだろう。

 それに、最近は、発作的に機嫌が悪くなっても、しばらくするとすぐにもとに戻るようになった。

 海外に行く前にはケンカばかりしていた妹の桃とも、最近は仲がいい。

 実葉が今日のオーケストラの演奏会の話をして、桃が蒲沢でのイベントの話をして、それで、その下の娘の桃が

「で、お父さんは、おじいちゃんのところ、どうだったの?」

と訊く。

 「いや」

と反応したところで、ふと、思い出した。

 上の娘の実葉は、ヨーロッパにいて、しかもクラシック音楽の勉強をしてきたということで、ヨーロッパのことばがわかる。

 ボンとウィーンにいたのだからドイツ語はもちろん、フランス語とイタリア語も知っているらしい。

 たいした娘だ。

 英語が、英語教師の父よりも流暢りゅうちょう、とかいう、僕にとって都合の悪い事実は別にしても。

 「あ、そうだ」

と、あまりわざとらしく聞こえないように言って、僕は、ソファのところに置いてあった鞄のところまで行き、あの箸袋のメモを取り出した。

 「おじいちゃんから、これ、英語だろ、と言われたんだけどな、父さんにはわからなくて。たぶん英語じゃないと思うんだよな。で、ヨーロッパのことばだとしたら、実葉、これ、わかるか?」

 わかればもうけものだ。

 わからないとすれば、やはり、英語やどこかのことばではなくて、惣吉郎さんの聞きまちがい、または覚えまちがいだろう。

 メモは実葉に渡したが、横から桃も

「なぁに?」

と言って無遠慮にのぞき込む。

 ほんとうに仲よくなったな、この姉妹。

 実葉は、しばらく眉を寄せて見ていた。

 しかし、その眉を寄せている時間は、一秒は超えていたけれど、五秒は行かなかっただろう。

 三秒ぐらい?

 実葉は、僕に向かって顔を上げた。

 「これ、「グローリア」の歌い出しのところでしょ?」

 「は?」

 あんぐりと開いた口がふさがらない、とはこのことだ。

 「なんだ、それ?」

 「だからさ」

 実葉は真顔で言う。

 「ミサ曲に「グローリア」ってあって、その最初の部分。「グローリア、イン、エクチェルシス、デーオ、エット、イン、テッラ、パックス、ホミニブス、ボーネ、ヴォルンターツィス」って。えっと、「いと高きところに神に栄光あれ、大地にはよき心の人びとに平和あれ」だったかな」

 「はい」

 目をぱちくりさせるしかない、情けない父親。

 しかも、何度も言うが、英語教師。

 「それ、なに語?」

 「ラテン語」

 実葉はとても平坦に言った。

 出来の悪い生徒が「このwhoって何ですか?」と訊いたときに、自分が「関係代名詞」と答えるのと同じように、とても平坦に言った。

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