第七話


 アリーチェが黒の魔導書を使うのは久々だった。

 一番目の魔女に修行をつけてもらったとき以来なので、正直、少しだけ緊張した。

 けれど数多くいたワイバーンを全て撃ち落とすことに成功して、空の上で一人ほっと胸を撫で下ろす。

(よ、良かった……! なんとか成功した……! 数が多くて焦った……!)

 アリーチェ的にはいっぱいいっぱいだったが、もちろんそれに気づく者はいない。

 とにかくワイバーンを倒すことに集中していたので、展開した魔術を解いたアリーチェは、誰かが落ちていったワイバーンの下敷きになっていないか慌てて確認しようとした。

 そのとき地上にいるレイビスと目が合った気がして、心臓がドキッと跳ねる。

 たったそれだけの動揺だったはずなのに、自分で思う以上に心が狼狽えたのか、別で展開し続けていた飛行魔術の計算をミスしてしまう。他の多くの魔術式とは違って、飛行魔術は一度展開すれば終わりではない。展開したあとも座標位置や風の抵抗などの計算が必要で、自由に飛ぶためには無意識下においてもその計算ができるほど修練を積む必要がある。

 だからアリーチェは、黒の魔導書を展開してからはずっとだった。

 しかし心の乱れは魔術の乱れに直結すると教えられたとおり、アリーチェは浮くだけの計算すらミスった。

 そうなるとどうなるか。落ちるだけである。

「え、あっ、うそぉぉぉぉおおお!」

 早く式を立て直さないとと思っても、アリーチェは突発的な対応に弱い。試験でも一度躓くと芋づる式に他の問題も間違えるような人間だ。

 パニックに陥った頭では簡単な魔術式すら展開できず、自由落下のなすがまま、だんだんと地上が近づいてくる。

 ここまで来ると恐慌は頂点に達し、声すら出なくなった。

 重力の関係で服の中から飛び出てきたネックレスが視界に映って、アリーチェはレイビスを思う。

 ――最後に彼を守れたなら、本望かもしれない……。

 諦めるようにフードを目深に被って目を閉じたとき、柔らかな風が自分を包み込むように魔術が展開されたのを感じとって、アリーチェは目を瞬いた。

「おまえ……いきなり落ちる奴があるか。焦っただろ」

 ぽすんと収まった先は、誰かの腕の中だった。横抱きにされていると気づいて、恐る恐るフードの隙間から見上げると、そこにはレイビスの整った顔がある。

「……っ!?」

 助かった安堵もなく、アリーチェは身体を硬直させた。

「なんであんなすごい魔術式を展開できるくせに、初歩的な風も起こせないんだ。勘弁してくれ」

 謝りたくても、状況が状況なだけに口を無駄に開け閉めする。

 これはどうすればいいのだろう。いや離れるべきなのは解っているけれど、身体が言うことを聞いてくれないのだ。心臓がばくばくとうるさいほどに鳴っている。

 レイビスの額から流れ落ちた汗がやけに色っぽいのもよろしくない。

「レイビスー! 大丈夫!?」

 遠くからアランの声が聞こえてくる。

「ああ、問題ない。受け止めた」

「それは良かった……けど、いきなり走らないでよ! びっくりしたでしょっ」

「仕方ないだろ。急に落ちたこいつが悪い」

「ひえっ」

 指を差す代わりなのか、背中に回っていた彼の腕に突然身体を押し上げられて変な声が出た。

 慌てて自分の口を押さえたが、アリーチェは脳裏に浮かんだ「もしかして」に顔が熱くなっていくのを止められない。

 もしかして、先ほどから流れ落ちている彼の汗は、落ちた自分を助けるために走ってくれたからなのだろうか、と。

 アランとレイビス自身の言葉を都合良く解釈するなら、そんな気がして、胸がきゅんと高鳴った。

「おい、十三番目。このまま下ろすが……――!」

 どんどん人が集まりだして、周囲が騒がしくなる。

 惚けていたのと、そのせいで、アリーチェはレイビスの言葉を聞き逃した。

 けれど彼のほうも何か衝撃的なことでも見てしまったように表情を強張らせて、続きを言わない。目を瞠ったまま凝視されると、自分が何かしたのかと不安になるのでやめてほしいのだが。

「殿下! ご無事ですか!?」

 そのとき第三騎士団長率いる護衛隊が追いついてきて、気づいたレイビスがそっとアリーチェを下ろしてくれた。彼はそのまま騎士団長に怪我人の確認とワイバーンの亡骸の処理を指示する。

 やっと地面に足をつけたアリーチェは、フードの下でほっと息を吐いた。

 ――ちゃり。

 そのとき胸元で鳴った微かな金属音に、アリーチェは慌てる。落下のときに服の中から飛び出してしまったネックレスが、未だに飛び出たままだったようだ。

(まずいまずいまずい……っ。見られてない、よね?)

 横目で窺ったレイビスは、特にこちらを気にしている様子はない。

 第三騎士団長と、そしてさらに遅れて到着した教師も合わせて今後の対応について話し合っているようだ。

(良かった……)

 これはレイビスから贈られたネックレスである。これを見られたら、たとえ顔を隠していても正体がバレてしまう危険性が高い。

 アリーチェはネックレスを服の中にそっと仕舞った。仕舞ったあとにレイビスと目が合ったような気がして、心臓が思いきり跳ねる。

 思わず逃げるように後ろを振り返ったら、すぐそばに人がいて変な声が喉から出た。

 しかも相手は片膝を地面に立てて、まるで忠誠を誓う騎士のように恭しくアリーチェの手を取ってくるではないか。

「あ、ああああのっ、なに、なんでっ……」

「感服した、十三番目の魔女よ」

 相手――ブルクハルトが、目をキラキラさせながら見上げてくる。下から覗かれると顔を見られそうで、アリーチェは空いているもう片方の手でフードの先をぐっと引っ張る。

 正体を知られたくないアリーチェは、そうして顔のことばかり気にしていた。だから他への注意が散漫になってしまったのだ。

「このブルクハルト・レヒナー、あなたの実力を疑ったことを真摯に謝罪する。やはりあなたは素晴らしい。ぜひあなたが欲しい。頼む、俺と共に隣国――ノディリス王国へ来てくれないか」

「え、はぇっ!?」

 手の甲へ落とされる口づけ。初めて感じた人の唇の感触は、想像よりずっと柔らかい。

「なっ、なんっ、なん、なん……!?」

 顔から火が出る。脳がショートした。おかげで自分でも意味のわからない言葉しか出てこない。むしろ言葉になっていない。

 手を引っ込めようとするけれど、ブルクハルトが強く握ってきて放してくれないせいで逃げることもできない。

 最初はブルクハルトの行動に呆然としていた周囲も、今は興味津々にこちらに注目しているのがわかる。

 だからこそ、アリーチェはパニックになりながらも思い出せた。自分がアランに切った啖呵を。彼に宣言したことを。

「わた、わたしはっ、レイビス殿下のものですからぁー!」

 らぁー、と木霊のように自分の声が森の中に響いていく。

 アリーチェとしては、「レイビス殿下の護衛ですから」という意味で叫んだのだが、少々言葉が足りなかった。いや、言葉を間違えた。

 そのせいで野次馬化していた生徒たちが妙に高揚した様子で騒ぎ出す。

 教師たちがそんな生徒を諫めるなか、さらに燃料を投下したのは、レイビス本人だ。

 それまで大人たちと真剣に話し合っていた彼が、ブルクハルトからアリーチェの手を取り返すと。

「そういうことだ。だからこいつを勝手に連れて行くことも、触ることも許さない。大人しく国に帰るんだな、ブルクハルト殿」

 えぇーー!! と生徒の好奇心に満ちた声が耳をつんざく。さっきまであんなに魔物に怯えていたというのに、今はもう元気なものである。その立ち直りの早さにアリーチェは口元を引きつらせた。自分の言葉の選択ミスに気づいていないアリーチェは、なぜ彼らがこれほど盛り上がっているのか理解できていないのだ。

「レイビス殿下、どうしてもだめか」

「だめだ。それかそうだな……あんたがこいつのなら、考えてやらないこともないが」

 腰に腕を回され引き寄せられる。近すぎるレイビスとの距離に慌てながらも、アリーチェは首を横に振った。

 彼がいるので、宙に文字を描く。

『わたし、友だちいないです』

 自分で申告する虚しさに耐えつつ、でもここで主張しておかないと、万が一にでも隣国に行けと命令されては困るからだ。

 レイビスがフッと笑った。

「ああ、知ってる」

(『知ってる』!?)

 それはどういうことだろう。十三番目の魔女としてレイビスに会ったのは、このインターンが初めてだ。彼に十三番目の魔女の友だち事情なんてわかるはずもない。

 それともまさか、そんなに友だちがいなさそうに見えるのだろうか。だったら虚しいどころの話ではない。

「はるばる隣の国から出向いたというのに、残念だったな」

 少しの間睨み合っていた二人だったが、やがてブルクハルトが視線を逸らしたことで決着がついたようだ。

「仕方ない。今回は諦めよう。だが、また別の手を考える」

「無駄な努力だと思うけどな」

 こうして、途中で問題は起きたものの、これ以降もなんとか重症者や死者を出すことなくインターンは無事に終わりを迎えた。

 自分がとんでもない失敗をしてしまったことに気づかない、アリーチェを除いて。



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