第4章「恋をする」

第一話


 サンテール王国の社交シーズンは、十月から始まる。

 そもそも社交シーズンとは、国会の会期とされ、地方貴族たちが議会に参加するために王都に集まる時期のことだ。

 そのため本格的な冬が始まって雪のせいで来られない事態を避けるべく、秋から開会し、早春の頃に閉会するのが通例だ。

 そしてシーズン中は、議会に参加する貴族議員だけでなく、舞踏会や晩餐会などに出席するため、議員以外の貴族も忙しくなる。なにせこのシーズン中の社交界は、未婚者にとっては良縁を見つける機会であり、既婚者にとっては横の繋がりを増やす良い機会だからだ。

 一斉に貴族が集うことになる王都は、一年の中でこの時期が最も華やかとなる。

 貴族の子女が多く通うノートルワール学園が、いつもよりそわそわとした雰囲気になるのも然もありなんといったところだ。

 大半の生徒が浮かれているなか、しかし逆に浮かない顔をしている生徒もいる。アリーチェだ。

(しゃ、社交界デビューって、なにっ……)

 夏休みに無事に任務を終えて、残りの休暇は勉強と魔術と宮廷魔術師としての事務仕事に追われて、気づけば休みが明けていたアリーチェだが、登校して初日から気分はブルーだ。昼休みにお気に入りの裏庭に逃げ込むくらいには。

 原因は、朝から一年次生の教室にやって来たレイビスである。

 彼は教室の扉をがらりと開けると、室内をぐるりと見回し、アリーチェを見つけた。

 目が合った途端に彼は一歩を踏み出すと、アリーチェの机の前までずんずんとやって来た。

 クラスがこんなに静けさに包まれたのは初めてのことではないだろうか。

 男子は畏れの眼差しで、女子は彼の美貌にうっとりとした表情で、誰もがレイビスの一挙手一投足に注目する。

 あまりのことに思考が停止していたアリーチェは、自分を見下ろすレイビスを数秒間ぼけっと眺めていたが、やがて弾かれたように立ち上がった。

『ごっ、ごきげんよう、殿下』

 ここで大声で挨拶をしなかったところに、アンヌ=マリーの指導の素晴らしさが見える。

『アリーチェ、単刀直入に訊く。おまえ、社交界デビューはしてるのか』

『し、してません』

『……ならデビューさせるのが先か』

『えっ?』

 なんだか聞き捨てならないようなことを捨て置いて、レイビスはまた来たときと同じようにずんずんと去っていった。

 アリーチェだけでなく、クラスメイトも首を傾げた案件である。

 けれど、ここまでなら、まだアリーチェは疑問を残すだけで終わったのだ。

 問題はそのあとである。

 アリーチェを訪ねてきたのは、この国の第一王子。それも王太子に一番近いと言われている男。

 加えて冷艶とも言える美貌を持ち、魔術師としても優秀なことはインターンで多くの生徒を結界で守ったことからもわかる。

 ワイバーンという中級の魔物を前にしても動じなかった凜々しい姿は、もちろんすでに学園中の噂になっている。

 しかも、その美貌と勇敢な姿で、十三番目の魔女まで虜にしてしまったらしい。

 クラスメイトがそう話しているのを耳にしたとき、アリーチェは自分の机に額をぶつけた。なぜだ。何がどうなってそんなデタラメな噂が広まっているのか、ちっともわからなかった。

 ただ、「十三番目の魔女はレイビス殿下が好きらしい」という言葉を聞いたとき、自分の胸が経験したことのないくらいの早鐘を打ち出したのには驚いた。

 そしてアリーチェは、こういう状態になることを小説と妹から学んで知っている。

 なぜなら妹の願いの中には、いつか恋をして、好きな人と結婚するというものもあったから。

 妹と恋愛小説曰く、特定の人を思うと胸が高鳴り、いつだってその人のことを考えてしまって、その人のことで一喜一憂してしまうのが〝恋〟というものらしい。いつのまにか視線でその人を追ってしまうのも、恋だと言っていたか。

 だからこの胸の高鳴りが恋かもしれないと気づいたとき、アリーチェは嬉しかった。これで妹の願いを叶えられると。

 結婚は無理だけれど、恋はこんな感じだったよと、土産話ができることを喜んだ。

 が、その喜びに水を差されたのだ。

『ね、ねぇ、フラン様。殿下とはどういうご関係なの?』

 もじもじとしながらクラスメイトの女子に話しかけられ、そのときはアリーチェも嬉しかった。初めて話しかけてもらえたからだ。

『で、でで、殿下とは、あの、えっと』

 友だちではない、まだ。友だちを申し込むには、まだまだ自分は相応しい人物になれていない。

 とすると、なんて答えればいいのだろう。

 考えた結果。

『えっと、先輩、でしょうか……?』

 それが一番に思い浮かんだ。

『まあ。ふふ、それはみんな同じよ。そうではなくて、何か特別なご関係なんじゃない?』

『特別……?』

 特別とは何か、と考える。

『えっと、勉強は、教えてもらいました、けど』

『そうなの? それはあなたがお願いして?』

『どう、でしたかね……そう、かも?』

 ちょっと思い出せなかったのは許してほしい。

『では、殿下はあなたのお願いなら聞いてくださるのかしら』

 いやあ、それはないです。と答えようとしたのに、今度は横から別の女子がやってきて、さらには男子まで集まってきて、みんながみんな自分をレイビスに紹介してくれと頼んできたのだ。

 なんでも、もうすぐ始まるシーズンでは、王宮でも舞踏会が開かれるらしい。このクラスにいる貴族子女のほぼ全員が社交界デビューを済ませており、舞踏会などでのパーティーでレイビスに近づくための口実を探しているとのことだった。

『お願いよ、フラン様。あ、そうだわ、アリーチェ様って呼んでいいかしら。だってわたしたち、もうお友だちだものね?』

『そうだ、フラン嬢は友だちが欲しいと言っていたもんな。ぜひ俺とも友だちになろう』

 女子からも男子からも急にそんなことを言われて、アリーチェはだんだん目の前のクラスメイトたちが不気味な何かに見えてきた。

 アリーチェが毎朝挨拶をして、アンヌ=マリーからマナーを習ったあと貴族令嬢らしく態度を改めてみたのに、それでも無視され続けてきた。なのに、レイビスが教室に来てアリーチェと会話を交わした――はたしてあれを会話というのかは謎だが――だけで『友だちになろう』と詰め寄ってくる。

 その瞳の奥に宿る欲望に、アリーチェは思い出したくもない男の面影を見た。

 妹を人質にしてアリーチェを利用したヴィッテ侯爵。アリーチェを見てもいないのに、その力だけを利用しようとする姿は、まさに侯爵と同じで気味が悪い。

 以前はレイビスが助けてくれた。

 でも今ここに彼はいない。そもそも、彼に助けてもらえると思うことが烏滸がましい。

 過呼吸になりそうな自分を自覚したアリーチェは、クラスメイトを振り切って教室を出ていく。

 そのまま初めて一限目をサボってしまい、罪悪感が募る。

 なんとか二限目には授業に出ると、小休憩に入った途端に教室から逃げ出した。そして三限目が始まるギリギリに席に着く。

 これを繰り返して、ようやく午前の授業が終わると、気づけばこの裏庭に来ていたというわけだ。

「怖かった……友だちって、ああいう感じでなるものなのかな……」

 誰もアリーチェを見ていなかった。アリーチェを通してレイビスを見ていた。

 でも、彼らはレイビスのことも、本当の意味では見ていないような気がした。

「なんだっけ。かっこいいと、王子と、プレゼント?」

 女子はこう言ってレイビスを褒めた――あんなにかっこよくて、しかも第一王子殿下よ? たとえ側妃でも、きっと毎日のように素敵な贈り物をくださって、贅沢させてくれるに違いないわ。

 男子はこう言ってレイビスを褒めていた――殿下の側近はまだまだ少ないし、第一王子の側近に選ばれるなんて、こんな名誉なことはない。

 誰も彼もが肩書きばかり。確かにアリーチェもレイビスの美しさに見惚れたことはある。そこは認める。

 けれど、それだけじゃないのにと思ってしまう。

 成績の悪いアリーチェを見かねて最後まで勉強を見てくれたし、今後困らないようにと勉強の仕方まで教えてくれた。

 アリーチェの友だちづくりも、レイビスは応援してくれた。そのために放課後のマナーレッスンまで手配してくれたのだ。 

 中級の魔物にみんなが混乱するなか、一番尊い身でありながら逃げることはせず、みんなの安全を確保した。

「見た目だけじゃないよ。中身も、かっこいいんだよ」

 あのときできなかった反論を今する。今にしかできない自分が情けなくて仕方ない。

「――おい、それは誰のことを言っている?」

「え?」

 ひとり言に返ってくる声があって、アリーチェは慌てて顔を上げた。

 艶めく黒髪と研ぎ澄まされた刃のように綺麗な銀の瞳が視界に映る。まさかたった今まで考えていた人が目前に現れるなんて思ってもいなかったアリーチェは、口をあんぐりと開けて絶句した。

「答えろ。人にあんな熱烈な告白をしておいて、まさかもう他の男に目移りしたのか?」

 レイビスが視線を合わせるようにしゃがみ込んできて、アリーチェのストロベリーブロンドの髪をするりと手に取った。

「休暇明けにさっそく仲良くなった男とか?」

「え、や、あの」

 そんなことより、その手はなんでしょうかと訊ねたい。

 人に優しく髪を触られるのなんて初めてで、なんだか顔が熱くなる。

 答えないアリーチェに焦れたのか、レイビスが髪を軽く引っ張った。

「アリーチェ」

「ちっ、ちちち違います! そうじゃなくてっ、じ、実は――」

 そうして全てを白状させられたアリーチェは、息も絶え絶えになる。

 話すうちに「もしやこれは恥ずかしいことを話しているのでは」と自覚し始めたのだが、アリーチェが話すのをやめようとするたび、レイビスが容赦なく瞳を覗き込んでくるのだ。まるで乞うように。

 求められることに一種のトラウマを持つアリーチェだが、不思議とレイビスがそういうときに見せる瞳は怖くない。彼の瞳には、アリーチェ自身がしっかりと映っているのがわかるからだろうか。

 全ての話を聞き終えたレイビスが、どかっと隣に座り込む。長いため息が聞こえてきた。

「俺が軽率だったか。昼まで待てば良かった。……悪かったな」

「えっ、違いますよ!? なんで殿下が謝るんですか? そりゃ驚きましたけど、殿下が来てくれたことは嬉しかったです。わたし、他クラスの人がクラスメイトのところに遊びに来てるのを見て、羨ましいなって思ってたので。わたしもいつかあんな友だちをつくるんだ! って、思ってた、んですけど、ね? あはは、うまくいかないものですね」

 ちゃんと笑えてないなと思ったので、不格好な笑みを見せないようレイビスとは反対の方へ顔を逸らした。

「なあ、アリーチェ」

「はい」

「おまえ、まだ俺の友人になるつもりはないのか?」

「えっ!? そんな、だって、畏れ多い……!」

「それは俺が王子だから?」

「それもあります」

「あるのかよ。おまえのクラスメイトには『王子』の肩書きばかり見るなと怒ってたくせに? そもそもおまえには、最初に身分は気にするなと言った覚えがあるんだがな」

「……そ、そういえば!? いえでも、それだけじゃないです」

「他の理由は?」

「それは……だって殿下、素敵なんですもん」

 レイビスが半目になる。微妙な沈黙が一瞬だけ落ちたが、彼が「続けろ」と言ったので続ける。

「後輩の勉強を見てくれるし、出来が悪くても、どんなに吃って喋ってても、最後まで見放さないでくれます。おかげでこんなにスラスラ話せるようになりました。アヴリーヌ先輩にも、最近は姿勢も良くなってきたって褒めてもらえるんです。これも殿下が取り計らってくれたおかげです。それに、ワイバーンのときも。殿下が結界を張って時間を稼いでくれたから、大きな怪我をする人もなくみんな無事でした」

「……なぜワイバーンのときのことを知ってる?」

「え? ――あっ、えっと、噂で! 聞きまして! あはは!」

 危ない。ある意味嘘は言っていないので良しとしよう。

「だから、そんなすごい人の友だちになるには、わたしももっとすごくならなきゃいけない気がして……」

 すると、レイビスがくくっと喉を震わせた。

「おまえも十分すごいと思うがな。逆に訊くが、どうなればおまえの言う『すごい』に当たるんだ?」

 そんな質問をされるとは思ってなかったので、少し悩んでからアリーチェは口を開いた。

「そうですね……たとえば、学年首席とかでしょうか……?」

 これなら目に見えて誰もがすごいと思ってくれそうだ。

 そう話したら、なるほどな、とレイビスが短く息を吐く。

「だがそれは、俺じゃない他者の評価だろ」

「え? そうです、ね? でも殿下もすごいって思いませんか?」

「思わないな」

「うっ」

 そういえば彼は、学年で首席の成績を取っているらしい。それも入学してからずっとだ。一度も成績を落としたことがないというのだから、もうすごいのレベルを超えている。

「じゃあどうすれば……」

「おまえは友だちになりたいと言ってきたクラスメイトが気持ち悪かったんだろ?」

「ま、まあ、そうですね……?」

「なぜ?」

 レイビスにどこまで話すか悩んで、でも彼なら話しても大丈夫なんじゃないかと思って理由を口にする。

「わたし、色々あって、利用されることが、たぶんトラウマになってるんです。そういう人の目が、怖いんです。誰もわたしを見てくれてないのが、わかるから」

「クラスメイトはそうだった、ってわけか」

 小さく顎を引くと、なぜかレイビスがアリーチェの頭の上に手を乗せてきて、何をされるのだろうと身体が固まった。

「アリーチェ。俺がこれから言うことは、おまえを責めるものじゃない。それは理解しておけ。いいな?」

「え? えっと、はい」

「じゃあおまえ自身は、クラスメイト一人一人を見てるか?」

 その言葉を飲み込むのに、アリーチェは少しの時間を要した。

 やがてその意味を理解し、これまでの自分を振り返って、そして自分の言葉がブーメランとなって返ってきたときは、恥ずかしさのあまりこの場から逃げ出したくなる衝動に駆られた。

 けれど、レイビスの真摯な瞳は、先ほど彼が言ったようにアリーチェを責めるものではない。

 ただ幼子にナイフとフォークの使い方を教えるような、そんな雰囲気があった。

 それに、頭に置かれた彼の手が、まるで「大丈夫だ」と宥めるように優しく動いたから、アリーチェはなんとか逃げずに済んだ。

「わたし、自分がこんなに酷い人間だったなんて、気づかなかったです」

「そうじゃない。俺が言いたいのは別のことだ。見ていないということは、おまえにとって必要のない人間だということだ。俺だって興味のない人間には時間も労力も割かない」

「そうなんですか?」

「ああ。おまえは友人をつくるのが下手すぎるんだ。まさかこの世界全ての人間と友人になりたいわけじゃないだろ?」

 それはまあ、と曖昧に返事をする。たとえばヴィッテ侯爵家の人とは友だちにはなりたくない。

「だったら、逆に考えろ。おまえは今まで出会ってきた全員を見ていないわけでもない。おまえがその瞳でしっかりと見ているのは誰だ。それこそが、おまえが本当に友人になりたい奴じゃないのか」

「わたしが、見てる人……」

 頭の中にも、視界の中にも、同じ銀色の瞳が浮かぶ。

 そしてその美しい銀の中に、自分が映っている。

「おまえが真に友人になりたいと思っている奴の瞳には、おまえは映っているか?」

「……っ、わたしの、自惚れじゃ、なければ」

 彼の瞳の中の自分が情けなく眉を垂れ下げた。

 くしゃりと髪を掻き回される。

「ああ、自惚れじゃない。俺はおまえを見てる。おまえも俺を見てる。他人の評価がいかに無駄かこれでわかっただろ? おまえに不要なものが何かってことも」

「で、でも、そんな簡単に割り切れるか、不安です……。それに」

「それに?」

「友だちって、こういうふうになるんですか? 友だちって、言っていいんですか?」

「言え。友人の成り方なんて人それぞれだ。だから最初はやりたいようにやればいいと思っていたが、あまりにも不器用でもう見ていられなくなった。おまえの友人は俺だけで十分だろ? 不要な奴を求めてそれ以上傷つく必要はない」

 ――ああ、そんな。

 そんなかっこいいことを、さらりと言わないでほしい。胸が甘く痺れて痛い。だからこの人の周りには人が集まるのだと実感した。

 この人のこういうところに、人は惹かれるのだろう。

 それは男も女も関係なく。

 一生この人のそばにいたいと思わせる。

 ――だめだ、好きだ。

 これは恋だ。

 それも、喜べない恋。

 今朝は恋を自覚して喜んだけれど、あのときと今では全然違う。

 今朝の自分は解っていなかったのだ。自分の抱く本当の感情を。

 けれど掘り起こされてしまった。できれば掘り起こさないでほしかった。

 これを土産話にするには、きっと楽しく話せないから。

 だって、こうして他の誰かのことも魅了するレイビスを想像したとき、嫌だと思ってしまったのだ。

 彼のすごいところも、優しいところも、こうして真摯に向き合ってくれるところも、他の誰にも知られたくないと思ってしまった。

 こんな感情はだめだ。妹に話せるものじゃない。

 だからこれは、恋じゃない。

 恋であってはならない。

「予鈴が鳴ったか。ほら、行くぞ」

 差し出された大きな手を見つめる。

 彼のそんな仕草すら、心臓がドキドキと鳴って苦しい。今まで感じなかった緊張が手に滲み、重ねるなんて無理だと思った。

 でも、無理だと思ったからこそ、アリーチェは意を決してそこに自分の手を重ねた。

 これは恋ではないのだから。

 なら、重ねられなければおかしいのだ。

「……殿下、ありがとうございます。これからはわたし、殿下の友だちとしてもっともっと頑張りますね!」

 フッと目を細めた彼が、いつも以上に眩しく輝いて見えたなんて、きっと何かの間違いだ。



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