第6話 異世界無能

 空は、蒼い。一〇日ばかり前にここに居た時と山頂の景色は何も変わらなかった。腹が減った。雲が流れるのを眺めながら、時間帯が違うのがダメなのかな、明け方に来なければならないのだろうかと考えている。

「あの山の向こうがナナツギでこっちの山の向こうはクキな。都は幾つも幾つも山を越えたあの方角よ」

指を指しながらサジが教えてくれるが、地図もないのでは国の大きさすら分からない。能登半島程かもしれないし、北海道位あるかもしれない。はたまたオーストラリア位かも。しばらく暮らすうちに少しずつ周囲のことが知れてきた。国の名前はヒ。日本でも大和でもなかった。王族とヒに従う地方領主が国を動かしている。都の名はトロ。地方ごとに大きな街はあるそうだ。王族や領主層あるいは国家官僚が貴族というわけだ。都には領主の正妻嫡子が住まう事を定められているが(人質ですよね、これ)、直系でなくとも都に住まう事を望む貴族が多いから、都は拡大し続けているらしい。地方領地には代官を派遣することもあるんだって。ううん…やっぱ異世界なんですね。月も二つあるし。

「道もねえのにさ、塩売りに来る人ってどうやって来るの?」

「どうって?尾根伝いにだよ」

サジは事も無げに言う。尾根って山の一番高い筋よね。確かに一番高いところを選んで行けば迷わないだろうけど。

「道もないのに?」

逆だと言われた。物や人の移動が盛んなところに道ができるのだ。都と地方を結ぶ街道整備は国家事業な訳だ。あれは要するに税を送るために必要なのね。腹が減ってる所為で思い出せない訳じゃねえぞ。受験日本史で聞かなかった(聞いてなかっただけかもしれない)豆知識だ。サジたちの村に続く道はない。生活のために入る山へだけ道がついている。

「サジの村から税を集める時に困らねえの?」

道がなければ馬に負わせるわけにも、牛車に曳かせる事もできない。人が担いで納めに行くのかしらと思ったら、

「払ってねえからな」

斜め上の答えが返ってきた。三〇年以上前の話だ。領境の水利を巡る争いに敗れたお館様とその一派が山に入って出来たのが、サジの村だった。

(ああ、平家の落人村的な?)

領土の中に統治が及ばない地域があるというのがまず不思議。ちょっと複雑なのは隣領が領境を超えて水を求める等、急速に拡大した背景に神人が居たのではないかと推測されていることで、お館様にしてみれば今更こちら側に神人が現れてもと言うところだろう。しかも僕だし。余計なことを聞かされた所為で腹の減りが増すのかもしれない。

 風が胃に沁みて膝を抱える。異世界転移で「帰りたい」とか願う登場人物に、そりゃあリアルに恵まれていたろうからねと思ったものだ。もしも、もしも自分が異世界転移したのなら望郷の念になどかられるはずがないと思ってた。腹が減った。投げ付けられた蛇が姿を消したままの竪穴住居(多分同居中)は蜂だの大百足まででたけれど屋外よりは我慢が出来る。見えちゃう屋外トイレで葉っぱで尻を拭くのもぎりぎりだが我慢できなくはない。風呂はないし自分だって臭いのだから、臭いでさえ大分慣れてきた。だけどさ、腹が減ってるんですよ!何でみんなあんなに粗食で働けるわけ?何で一日二食なのよ!焼き肉食べたい。トンカツ食べたい。すき焼き食べたい。唐揚げ食べたい。ハンバーグ食べたい。食だけは納得できん!かといって、自分で作ることもできなかった。白米なんか夢の贅沢品。稗粟麦豆芋を煮て嵩増しして食う。まず塩が少ないのだ。砂糖なんかあるはずもない。味噌はあったが、醤油はない。食用油もごく僅か。出汁の概念もない。煮た草と穀物以外のものが食べたいの!

「サジぃ、ごめんな、役立たずで」

雲に向かって呟く。まあ、この一〇日ばかりは酷かった。畑の水やりを手伝えば、水を運んでくるだけでヘタレて翌日筋肉痛。竹細工も木工細工も材料の無駄。大の男だし獣を追い立てる勢子ならばと狩りに参加すれば、包囲網に穴をあける。子供らの後について採集に出かければ毒草毒キノコを集めてくる。僕のヒエラルキーは日に日に落ちて行った。神人「ミカミ様」→お貴族様「ミカミ様…」→大人?「ミカミ」→半人前「ミカミっ」→無駄飯食いは押して知るべし。四、五歳の幼児から「ミカミぃ、行くぞお」などと声をかけられる始末。それでいて客人として朝晩に草入り粥だか、粥入り草は供されるのが肩身が狭かった。いや、肩身が狭くても食べるんですけどね。僕がこれだけ役に立たないのにコレトウは慇懃な態度を改めなかったし、サジは素のままのぞんざいさながらも僕に付き合ってくれた。これ以上迷惑かけるのも嫌だし、早いところ都とやらに行くのも手だが、毎年初夏と晩秋に来る都の伝手という人はまだ現れない。帰っちゃおうかな、と思った。腹減ったし。帰れるのかな。分からないけど腹減ったし。僕が出てきたところへ連れて行ってくれるようにサジに頼んだ。お館様には世話になったお礼に空のペットボトル一本を進呈しておいた。もしも帰れたらこれきりになっちゃうから。でもさ、

「……帰れねえのな」

山頂に元の世界へのゲートはなかった。陽が動いてゆくのが分かるほど待ったけど、腹が減るだけで雲が流れてゆくだけだった。

「帰りてえよなぁ。神世に家族もいるんだろうし、もっといいとこなんだろう」

そんなにいいとこでもないし、向こうがどうなってるのかもわからないけどね。予備校休んじゃってるけど、これはもともと。親は心配してる、かな。将来を悲観して失踪って事になっていそうで怖い。そうじゃなくてですね、単純に腹が減ったんですよ、僕は。サジがこちらを見ないで言った。

「あのな、ミカミ、俺ミカミの事ありがてぇって思ってるんだぞ」

兄さん助けてくれたし、あんな見たこともねえ杖も、と。ああ、松葉杖もどきね。トイレに立つ度にサジに支えてもらわねばならぬのを見て竹で作ってみた。不格好過ぎで杖に見えないところがすごい。

「いや、動かさなければそのうち治るもんだし」

そんなこと知らねえもん。きっと動かしちまっていたろうとサジは言う。ああ、あの雲の形はメロンパン。いや、肉まんか。

「…兄さんな、お父が死んで俺が一人になっちまったから、都から戻って来たんだ。俺一人でもやっていけるんだけどな」

コレトウは都でも文武に優れた良き男と知られていたそうだ。だから大猪に襲われた時、山を下れぬ有様になった時

「俺、どうか兄さんを助けてくれろって願ったんだ」

歩けなくなれば一生厄介者になる兄を。本当だったら都で良い暮らしができたはずだった兄を。

「だからミカミが来てくれて、兄さんの足も元通りになるって本当にありがたかった」

小汚いなりでふわりと笑った。それからどちらともなく山を下りることを決めた。


 そいつに遭遇したのは帰路のことだ。以前仕掛けた罠を見回ってから帰るというサジの後についていった。

「山羊だ!」

「嘘っ!あれがヤギ?僕が知ってるヤギと違うんですけどっ」

落とし穴にかかってるのはハイジが連れていたような可愛い奴じゃない。何か毛が長いっ。動物園にしかいないような山岳地帯のそれだった。サジが言うにはもっと高い山に生息しているヤギらしい。そいつが落ちている落とし穴も落とし穴で単なる穴ではなく擂鉢状の底に溝があり、ヤギはそこに四つ足を取られているのだ。身動きできないながらに暴れていて、怖ッ。僕らが近づくと藪に飛び込んだ影があった。

「あ、子ヤギがいる」

はまっているのは母ヤギらしい。

「もう、これでミカミも役立たずじゃねえぞ」

僕に手柄を譲る気満々でサジが槍を構える。やっぱりサジも役立たずって思ってたんじゃん…ハッとした。

「待った待った!殺しちゃだめだ!」

サジにまで役立たず呼ばわりされて不貞腐れたんじゃないですよ。そこ間違わないように。

「何で仕留めちゃダメなんだよ!」

「ふふ、神の英知とでもいってくれ」

ぷりぷりしているサジを尻目に

「チャララチャッチャチャーん、ビニール紐!」

効果音付きで取り出した紐で絡めまくり暴れるのを押さえ込んで引き上げた。怖っ!怖すぎて泣くわ。すごかったのはサジだ。母ヤギを引き上げる間も離れがたくて遠巻きにしていた子ヤギの隙をついて追い立て、これも穴に落とした。こいつも生け捕りだ。一二〇m、有能です。

これはようやく僕のターンではないのかい。

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