怪物同士

 今は何時だろう。


「夜の21時よ」


 氷室先輩は答えた。

 いくら、田舎の学校とはいえ、ずさんな管理のせいでボクは死ぬ一歩手前だ。


 現在は、屋上で先輩と二人きり。

 誰もいなくなるまで、ずっと待っていた。

 遠くから聞こえるのは、サイレンの音。

 いくつもサイレンが重なって、ボクは時間の経過と共に立てなくなっている。


 身近で笑っていたユイさんが、動かなくなったのだ。

 吐かないのが奇跡と言えるだろう。


「山川君。ワタシ、あなたのことだけを考えていたわ」

「ご、ごめん……」

「謝らなくていいの」


 氷室先輩は嗤う。――

 ボクの踵は、宙に浮いていた。

 つま先と、フェンスを握りしめる指だけが、ボクの体を支えている。


 フェンス越しに見える先輩の顔は、スマホの明かりで照らされていた。


「用務員の鍵がすぐに壊れてよかったわ。さすがにハサミじゃ、金網は切れないもの」


 片手には、チェーンカッターが握られていた。

 さっきまで、ボクが使っていた道具だ。

 カッターで脅されて、言われるがままにフェンスの網目を切った。


「これ、……指も切れるかしら」

「氷室先輩。お願い。やめて」

「何を?」

「ボクが、悪かったから」

「山川君は何も悪くないわよ。ワタシも悪くない」


 チェーンカッターの先端が、ボクの指に近づいてくる。

 先輩は本気だった。


「ねえ。この世界ってつまらないと思わない?」


 奥歯が震えて、ボクは何も答えれない。

 一度持ち上げた先端を下ろして、氷室先輩がボクの指に自分の指を重ねてくる。


 学校の敷地内にある外灯の明かりが闇を透かし、薄っすらと氷室先輩の顔を照らす。口角の釣り上がった口元に、黒い目玉。

 フェンスに額を擦り付けて、先輩は言った。


「望んでいない事は何だって起きるくせに。ワタシが本当に望んでいることは、何一つ上手くいってくれないわ」


 網目を巻き込んで、先輩が優しくキスをしてくる。

 唇を擦り付けたまま、氷室先輩は言った。


「ワタシ、初めに言ったわよね? 自慰がしたいだけだって」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

「謝らないで。もう、……いいから」


 汗で張り付いた前髪を指で掻き分けてくれる。

 ゾッとするほど優しかった。


「本当なら、……山川君とセックスするつもりだったの」

「……はぁ……はぁ……っ」


 生唾を呑み、震える踵を必死に安定させようとする。

 だけど、力めば力むほど、踵は上下してしまう。

 さらに、膝まで震えてきた。


「子供を一人作れば、社会的に逃げられないでしょう。……本当は浮気くらいは見逃すつもりだったけれど。自分の知らなかった感情に振り回されて、……この様よ」


 氷室先輩にも想定外だったらしい。


「これ以上、山川君が生きてると、……ワタシがどうにかなる」


 再び、チェーンカッターを持ち上げると、今度はハサミの間にボクの指を巻き込む。


「……さようなら。山川君」


 氷室先輩は悲しげに微笑み、グリップに力を込めていく。


「――ねえ。氷室さん」


 指に圧力が加わった途中で、声が掛かった。

 氷室先輩は目を丸くして、後ろを振り返る。

 道具が下げられ、ボクは安堵の息を漏らした。


 薄暗くて分からないが、氷室先輩の後ろに誰かが立っていた。


「誰?」

「アタシです。柊」

「あぁ……」


 明かりの届く位置まで出てくると、姿がぼんやりと見えた。

 柊先輩だ。


「盗み聞き? 趣味が悪いわね」

「お互い様。こんな所で、何をしてるんです?」

「……痴話喧嘩よ」

「一歩間違えたら、死んじゃいますね。今すぐ、こっちに戻してあげたらどうです?」


 向こうに振り返った氷室先輩の顔が見えない。

 柊先輩は、ボクと話すときみたいに、ニコニコと笑っているだけ。


「あぁ、……のね」


 何かを悟ったように、氷室先輩が落胆した。


「柊さんは、どうして山川君を気に掛けるの?」

「好きだからです。人形みたいで、可愛いですし。それに後輩なので」


 柊先輩は、ゆっくりと近づいてくる。

 一方で、氷室先輩は何も喋らないし、動かない。


「後輩の女子、突き飛ばしましたね」

「柊先輩?」

「ごめんなさい。この人、異常者ですから。まさか、簡単に動いてくれるとは思ってなかったんですけど」


 そうじゃない。

 見てたの?

 ユイさんが押される瞬間をどこかで。

 大変な事になるって分かってたのに、見てたんだ。


「動画。撮っちゃった」


 自分のスマホをひらひらさせて、氷室先輩に見せつける。


「それで?」

「リクくんからは、手を引いてほしいかなって」

「どうして?」

「リクくんが怖がってるからです」


 氷室先輩は腕を組み、随分と余裕そうだった。


「怖い? あっはっは! あなたが、それを言うわけ?」

「はい。言っちゃいます」


 体を傾け、柊先輩がボクの方を見てきた。


「危ないので。戻ってきてください」

「あ、はい」

「気を付けて。ゆっくり」


 二人の姿を視界に収め、ボクはカニ歩きで屋上の縁を伝った。

 フェンスに空いた小さな穴を潜り、中に戻る。

 夏の蒸し暑い夜に、ボクの体はとても冷えてしまった。


 横から二人を見上げる形となり、ボクは座りながら行く末を見守る。


「さて。どうしましょう」

「どうもこうもないわ。交際している二人に対して、あなたは無関係でしょうに」

「いえいえ。さすがに屋上から飛び降りをさせようとしてたら、止めますよ」

「自分の意思であそこに立ったのよ」


 二人が見つめ合い、黒い笑みを互いにぶつける。

 ボクは交互に見ているだけ。

 先に切り出したのは、柊先輩だった。


「氷室さんは、何がしたいんですか?」

「自慰よ。この子は、ワタシのオモチャだもの」

「あはは。ひど~い」


 氷室先輩は、笑う柊先輩をジッと見つめて言った。


「あなたが見てたのは、あの女を突き飛ばした所だけではないでしょう」

「……というと?」

「生きてる価値のないクズを、この子を使って階段から突き飛ばした」

「……」

「知ってたはずよ。ワタシ、気づいていたもの。あなた、教室に戻って、しばらくボーっとしてたじゃない。あの時、何を考えていたのやら」


 氷室先輩は鼻で笑い、蔑むように言った。


「援助交際、……してたんでしょう?」


 柊先輩から笑みが消えた。


「ワタシだってコミュニケーションくらいは取るわ。だから、聞いたの。あなたが、都市部の方に行って、援助交際してたこと」


 何だか、雲行きが怪しくなってきた。

 柊先輩は何も答えない。


「……転校。してきたものね」

「ええ。してきました」


 肩を竦め、柊先輩は笑みを浮かべる。


「おじ様相手に、したのかしら」

「あはは。お人形が欲しかったので。お金を貰うついでに、そうですね。生きた人形になってもらったんですよ」


 怪物は、もう一人いた。

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