やまない雨①
平日の退屈な6時間目、サトルは教室の窓際の自席から窓の向こうを見ていた。
季節はそろそろ梅雨を迎える。灰色の空は雨を降らせたくてウズウズしているようだった。教室内ではこの天気に対する反応は万別だ。
トイレに行くときまでつるんでるような仲のいい女子グループは遊びに行けないと嘆き、またボウズ頭の野球部は先生に怒られ周りから笑われながらも、仏を拝むように雨乞いをしていた。
雨雲に対する思いはサトルにとっても他人事ではない。特に今日という日は。サトルは空を見つめる。まばたきすると、視線の先に一閃走った。そして終業のチャイムが鳴った。
「結局雨か、ついてないな。傘を持つべきだったな」
学校から出ると、バクがぼやいた。
「こんな日もいいんじゃないか、濡れて帰るのも」
「濡れるのは風呂だけで十分だ。ワタシはな」
「まあ、付き合ってくれよ。オレとバクの縁だ」
「雨風が骨身に堪えるな」
「おまえに骨も身もないクセに」
サトルは校門を抜け、早足で歩いた。
「ん? そっちは家と逆方向だぞ」
「言ってなかったな、今日は寄り道するぞ」
「こんな日にか……」
「こんな日だからさ」
「ふうん?」
バクはそれ以上訊かなかった。
降りしきる雨の中を進む。かつて歩き慣れた道を歩くと、頼んでもいないのに思い出が蘇る。過去という地盤から緩んで現れた、決して消失しない記憶たち。辺りにはイヤなにおいがする。雨のにおいだけだろうか。
「どこへ向かっているんだ?」
「いい機会だな。言っておくよ。霊園だ。台地にあるんだぜ」
「誰かの命日なのか?」
「そう、オレの友達のな。毎年行ってるんだよ」
「友達の、か」
街を歩くと、車通りの多い交差点に差し当たった。
この交差点には歩道橋が掛けられている。ここはかつて、事故が多く発生していたため、魔の交差点と歩行者からも運転手からも恐れられていたが、ある犠牲によって信号と歩道橋が建てられた。その経緯をサトルは痛いほど知っていた。
「サトル? キミ、息が荒いぞ」
「そうかな……」
一段一段登る度に胸が疼く。あの事故を思い出してしまう。かつての友人が犠牲になった悲しみを。
――その出会いは5年前、サトルが小学生の頃だった。クラス替えにより周りの人がことごとく変わったため、友達を作れるかが不安だった。孤立するのは嫌だった。
そんな人見知りのサトルに声を掛けたのは、前のクラスでは人気者の倉入コウであった。互いに話したことはなかったが、すぐ意気投合し、共に認める一番の親友となった。きっかけだって覚えている。それはマンガの趣味が一致したのだ。
コウは環境が変わろうとも、常に楽しげに物事に取り組む姿勢や、やさしく面倒見のいい性格により、ここでも人気者になるのは時間がかからなかった。サトルはそんな友にあこがれすら覚えた。
コウと共に過ごした時間は忘れられない。なぜならそれは、サトルにとって楽しい時間だったからだ。
これが後に絡みつく足枷になるとは思いもしなかった。
転機はコウとの出会いから、一年と一カ月経った頃のことだった。
サトルとコウは初めて喧嘩をした。きっかけはコウに借りた消しゴムを無くしたコトだった。激しい喧嘩ではなかったコトは覚えている。そして、その際に「もう会いたくない」と言われたコトも後悔として記憶にこびりついている。
顔も合わせずに家に帰ったサトルは、明日になったら謝ろう、そう思っていた。だが、それは叶わなかった。
その夜、一本の電話がサトル宛にきた。固定電話の受話器を耳に当てると相手はコウの母親だった。嗚咽混じりだった。なにを言いたいのかわからなかったが、ただ事ではないということだけははっきりした。しばらくすると、男の声に変わった。
男は医者であると名乗ったうえで冷静にこう言った。「倉入コウ君は交通事故で亡くなった」と。
医者は他にもなにか言っていたが、それ以外は何も入ってこなかった。ただただ茫然とした。到底信じられなかった。
上の空で母の久美子に電話の旨を伝えると、すぐに病院に駆け付けた。天気は雨、心なしか普段よりずっと暗い空だった。
看護師から案内された病室からは、すすり泣く声が聞こえた。それを聞いたら胸の鼓動が早くなった。中に入ると、人々に囲まれたベッドの上で白い布を被った人があった。背は大人のものではない。現実がどんどん近づき、胸が痛くなった。
震える手で布を退けると、サトルは血の気が引いた音だけを聞いた。
それはやはり、コウだった。全く動かず、なにも言わない。呼吸すらしていなかった。額がパックリと開いた傷のある顔を触ると、もう冷たくなっていた。『死』だ。そこにあるのは明確な『死』だった。
その事故以来、サトルは人との関係を恐れるようになった。
『出会わなければ別れもない』と心から理解した瞬間、孤立するよりもいずれ訪れる親しき者の別れの方が恐ろしいと、そう考えたのだ。この考えは今なお変わらない――
「――おい、大丈夫か?」
バクの心配そうな声で、サトルは現実に戻った。まだ登り切っていなかった。たったの数十段なのに、年月が流れるにつれ、前に進むべき足は重さを増していく。
「重いな。痛くて怖い思いをしたのはコウなのに……。オレが進めないんじゃあ」
サトルは自分の不甲斐なさにため息をつきながらも、登り切った。
「霊園ってあそこか。ねむりの丘って書いた板が見える」
「そう、それ。日の出がな、きれいなんだ」
サトルにはかつて深夜に家を飛び出し、コウとふたりで見たコトがあった。またいつか見たいと思っても、なにもかもが遅いのだが。
濡れた手すりを掴み、目線を下げた。雨空の下に無表情の光の羅列がどこまでも続く。鉄の体躯は水たまりをものともせずに跳ね飛ばしている。
降って湧いてきた思い出たちを噛み締めると、ほとんどがありふれていた日常だ。その中には楽しいコトもあればつらいコトもあった。二度と戻れない日々を懐かしみ、慈しむ。そして、最終的にはその思い出に微笑みかけられればと思っているが、それにはまだ時間がかかるようだ。
「つらいコトを思い出したのか?」
バクが訊いてきた。
「ちょっとな」
「過去に友人を失っていたとはな。なにも考え無しに煽ってすまなかった」
「殊勝だな。雨のついでに槍も降ってくるかもな」
「ワタシをなんだと思っているんだ、まったく。……なあ、サトル」
「どうした?」
「しんどいなら、その思い出は忘れたくないのか?」
「忘れられないよ。どんなに時間が経っても」
こうして、自分のしまっている胸中を少しでもさらけ出すと楽になった。
余裕ができて目をつむると、雨の冷たさが身に沁みる。清められた気分になるが、帰ったら母に怒られるのだろうと、そう思った。
また小学生の頃を思い出した。あの頃はなにを思ったのか、雨空の下でコウと泥団子合戦をしたコトを。コウの母親にもこっぴどく怒られたのを覚えている。
振り返ってみれば、かわいらしい話にも思う。その思い出に微笑んであげたいが、しかし心が許してくれない。本当の笑い話になるまで、あとどれくらいかかるのだろう。
「――あっサトルだ! また来てくれてるんだな。いやあ、うれしいなあ」
コウの嬉しそうな幻聴まで聞こえてきた。やはり、まだあの頃に縛られたままだ。
「ははっ、いや笑えないな。そうとう参ってる」
「また背高くなって羨ましいな。20センチくらい差あるよなあ。おれも生きてたら、どれくらい伸びたかなあ」
「……ん!?」
いくらなんでもこの声は近すぎる。驚いて振り返った。
「うお、びっくりするなあもう。おれが視えてるみたいだな。ンなこたないだろうけどさ」
目線を少し下げたそこには確かにいた。当時と変わらない姿のコウが。違う点はといえば全身が透明になっているコトくらいだ。
サトルは啞然として喜んだが、心の奥底では喚いた、まだ成仏していない現実に。
「コウ……視える。オレ、おまえが視える」
「へ? まじに?」
「あの頃となにも変わってないなぁ。背、追い越しちゃったな!」
「なっ……なんで視えること黙ってたんだよ、おめーはよお!」
「ンなコト言ったって、オレも突然視えるようになったんだよ!」
「そうだったのか。なあ、積もる話もあることだろうし、どっかの屋根の下で話そうぜ! ドラレコに映ったら困るしさ、なあなあ、いいだろ!」
「もちろん!」
サトルは快諾して歩道橋を降りた。
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