悲しみは仄めいて⑤

「ふうー、やっと一週間おしまいだな。長く苦しい戦いだったぜ……」

 

「ああ……」

 

 放課後。長い一週間からの解放を喜ぶ真島は浮かれた顔つきでサトルに話かけるが、サトルは険しい顔をしていた。


 悪霊と化した逸森曄香いつもりはるかがいつ動き出すか、わからないからである。

 

 こうして、一日は終わろうとしているが、これまでに動く気配は無かった。いつもの日常そのものであった。


 このまま平穏に時が過ぎればいいのに。そう思えど、払拭できない違和感があった。ふとなんとなく、小林先生が言ったコトを思い出す。『まるで、あの日のよう』と。

 

 小林先生の話を照らし合わせると、まるで状況を再現しているように思えた。聞いた話だと逸森が自殺したのは放課後だった。そうなると逸森が明璃に取り憑くのは、今しかない。

 

「眉間にシワ寄せちゃって。もう帰る時間だぞ?」

 

 そんな警戒心が顔に出ていたようで、真島はサトルの顔をみて気にかけた。いつも笑っているのに、珍しく真顔で。

 

「そうだな、帰るよ」

 

「そっか。んじゃ、とっとと帰ろうぜ。帰宅部らしく!」

 

 早々に帰宅する支度を済ませ、HRから廊下に出た。


 玄関に向かうため階段がある方へ向かうと、そこには俯きながら、片手でなにかを持って歩く明璃の姿があった。明璃はサトル達を見向きもせずに、下り階段と隣り合わせになっている階段を上がる。


 サトルは、その不可解な行動を一瞬で理解できた。

 

「なあ、あの階段上がったトコって、屋上があるだけだよな」

 

「そうだけど鍵がかかってるだろ。屋上で昼飯食べるのが、あこがれの高校生活だったんだけどなあ。……さっきからヘンだぞ?」

 

 握っていたもの、あれは恐らく屋上への鍵だ。ついに悪霊が動き始めた。

 

「先に帰っててくれ!」

 

「えっ、おい――」

 

 サトルはそれだけ告げると、全速力で階段を駆け上る。その先に僅かな隙間が空いている扉があった。そのままの勢いで、力いっぱいに蹴破る。


 初めて踏み入れる屋上の真ん中に、明璃は虚ろな目を向けながら、じっと立っていた。

 

「どうしたんだ、明璃」

 

 息を切らしながら、明璃の暗い目を真っ直ぐに見つめながら問いかける。

 

「……あんたには関係ない」

 

「オレだってアンタには聞いていない。明璃に訊いてるんだ」

 

 声は明璃本人のものだが、信じられないほどの冷たい口調であった。サトルはその違和感をすぐに察知し、逸森が明璃の体を借り、喋っていると予想した。

 

「あーあ、バレちゃうか。この子が小さな頃から、可愛いがっていたネコちゃんが死んだんだって」


 明璃は小さな頃からネコを飼っていた。名前は『しゃもじ』だった。

 

「……そうだったのか、かわいがってたもんな。だから、あんたに取り憑く隙ができたってコトかよ」

 

「家族が死んだ。ああ、かわいそうに。だからアタシがネコちゃんの元に逝く手助けをするの。可哀そうなこの娘とアタシのためにね!」

 

「させてたまるかッ!」


 彼女が不幸の死を遂げたのは同情する。しかし、恨みの向け方が納得いかなかった。虚ろな目のまま嘲笑いながら話す姿が起爆剤となり、募っていた怒りと悲しみが一気に爆発した。


 サトルは取り憑かれた明璃の目の前に駆け寄り、両肩を力強く掴み、悲痛な面持ちで声を荒げる。

 

「明璃、聞こえるか。そんな目してないで、とっとと目醒ましてくれよ!」

 

「なに言ってもムダよ。支配権はアタシにある」

 

 明璃の意識を取り戻す精一杯の努力を、悪霊は鼻で笑いながら否定する。そのせせら笑いに耳を傾けずに、明璃の名を呼びかける。何度も、何度も。


 やがて、収まりきらない感情は純粋な悲しみへと変化し、声が小さくなると共に膝から崩れ落ちる。それでも、明璃の名を呼びかけるのを止めない。

 

「なんで諦めないの。しつこい男は嫌われるわよ?」

 

「……オレの大事な友達だからだ。もう、なにも失いたくない」

 

 膝をつき俯きながら、震える声を絞り出し、真っ直ぐに言う。


 その必死の小さな叫びに、悪霊の心に変化が現れた。

 

「……アタシにも、近くにあんたみたいな人がいたらよかった」

 

 サトルはその言葉を聞き逃さなかった。

 

「小林先生が、あんなに近くにいたじゃないか……」

 

「あ?」

 

「そうだろう。仲よくなって、楽しくなかったか?」

 

「……それは」

 

「朝、経緯を聞いた。あんな陰湿なコト、オレだって耐えられないと思う。でも、頼りにならなかったか? 少しでも楽にならなかったか?」

 

「このアタシを視ろ。わからないのか? 結果がコレだ」

 

「それでも怒りを治めてほしいんだ。頼む、頼むよ……」

 

 サトルは焦る気持ちでいっぱいだった。早口で何を言っても、こうして頭を下げても、全く落ち着かなかった。


 やがて、逸森が口を開いた。


 


「この期に及んで綺麗ゴトは聞きたくない、ムリだッ!」

 

 今までで一番大きな声で否定した。

 

「アタシは不当に殺された。納得できない。だから、こいつを殺す」

 

 狂気の形相で、顔に爪を立てて引っ掻く。他人の身体を傷つけようがお構いなしにそれを続ける。

 

「ああウザいウザい、ウザすぎる! どいつもこいつも興味本位でヘラヘラ笑いやがって! 人の死を簡単に洗い流しやがって! すぐに忘れてネタのタネにしやがってッ!」

 

「やめろ。やめてくれ。明璃を傷つけるな……」


「いじめられた子を助けたアタシを誰も助けない不条理ッ! まかり通る世の中が憎いんだよッ!」

 

 サトルは、彼女の怒りにただ圧倒させられた。こんなまでに、形のある負の感情を目の当たりにしたことが無かったからだ。座り込んだまま、金縛りにあったように身動きが取れずにいた。

 

 ピタリと急に動きが止まった。あまりにも不気味。だがそれ以上に、彼女の瞳は禍々しく吊り上がっていた。

 

「だから決めた。こんな汚い世界に相応の爪痕を残すと。おまえがなにを言おうが、この娘を殺す」

 

「……なにも罪はない」懸命に絞り出す声は震える。

 

「綺麗事を垂れるな! それはアタシも同じだったッ!」

 

 サトルは何も返せなかった。まだ、逸森を気の毒と思う心がある。それでも、明璃を殺させる訳にはいかない。諦める訳にはいかない。

 

「オレだって納得できない!」


「じゃあ、納得できればいいのか?」

 

 逸森は背を向け、真っ直ぐ歩き始めた。眼前の先は金網フェンスが設けられている。もう、なにをするかは明白だ。

 

「……おい、待て、待てよ!」

 

 力を振り絞って立ち上がり、腕を掴んだ――はずだった。


 すり抜けた。錯覚ではない。腕は確かに掴めなかった。

 

「なんでだよッ! くそッ!」

 

 肩を引こうとしても、後ろ髪を引っ張ろうとしても、掴もうとする拳は虚空を扇ぎ、何も触れられない。


 サトルを見向きもせず逸森はただ歩き、フェンス際に着いたところで、くるりと振り向いた。

 

「手を伸ばしたところでムダだったな。今の私は幽霊なんだから、当然だろう?」

 

 そう言うと、一歩踏み出した。常識で考えるならば、フェンスに阻まれて進めないはずである。


 しかし、幽霊は違った。そのフェンスさえも擦り抜け、僅かな空地にただ凝然と立ち、サトルの方を向いた。

 

「今の私はこいつ――明璃だ」

 

 金網フェンスに指を重ねた。今度はすり抜けなかった。しっかりと握っている。

 

「この手を離すと、どうなると思う? 想像してみなよ、結果はすぐに見せてやる……。まあ、3日もすれば悲しみも忘れる。話のネタくらいにはなるだろうよ」

 

「こんなコトをして何になる!」

 

「アタシがスカッとする。……だからこいつを『自殺させる』んだろ! このアタシの手で!」

 

「そんなの誰も喜ばない! 人が泣くだけだ……」


「それはいい気味ね。おまえをこの悲劇の立会人にしてやる。特等席を用意してあげるから」

 

「聞け、聞いてくれ! おまえもあいつらと、人殺しといっしょになるんだぞッ!」

 

「うるさいなァァ〜ッ。人の潰れた音を脳裏を刻めッ!」

 

 一触即発。今にも全てが崩れ落ちそうであった。両者とも強く主張を譲らない。


 だが事態が動き出すのは、突然だった。

 

 確かに聞こえる軽快な足音。両者とも反射的に入口を見る。


 開ききった扉の傍に、息を切らす女性がいた。

 

「小林先生……?」

 

 口調がまるで違う。恨みつらみに染まった囚われ人から、白馬の王子様を待ち焦がれるお姫様になったようであった。

 

「そういうあなたは、まさか、逸森さん……?」

 

「……そうだよ」

 

 逸森の眼が光にあてられたように輝いた。


 フェンスをすり抜け、二歩、三歩と進んだところで小林のもとへ駆けていき、力強く抱きしめた。小林もそれに応えた。


 サトルは呆気にとられた。今しがたまで悪意を炸裂させていた彼女がまるで、母親の胸に飛び込む子供のように写った。

 

「会いたかった。こうやって、また話たかった」

 

「それは私もです、私もですよ、逸森さん」

 

 嗚咽まじりに、ふたりは声を震わせていた。死者と生者、元来ありえない再会を果たしたふたりの世界は、朝露のように幻想的で儚い。そこに口を挟む余地はなかった。

 

「これで一件落着だな、サトル」

 

 これまで口を閉ざしていたバクが話かけてきた。サトルは力不足を痛感した。固い絆の前では、他人がなにをほざこうがムダだった。

 

「そうだな……小林先生が来てくれなかったら、今頃どうなっていたか」

 

 フェンスに寄りかかって、ふたりを見つめる。明璃の身体とはいえ、涙を流しながら、しかし笑顔のふたりを見て思った。

 

「なあバク。逸森は自分の本意で自殺したと思うか?」


「そうは見えない。もしかしたら、カノジョも先住の悪霊の影響をモロに受けていたのかもな。いじめで弱った心にスッとつけ込まれて」


「……悪霊も死ねば仏か」


「まあ、キミは呪われた輪廻を断ち切ったんだ。それは誇っていいコトだ」


「そりゃ小林先生がやったんだ。オレじゃない」

 

 二人の会話は終わったようで、サトルの方に向かってきた。

 

「本当にごめんなさい」

 

 逸森は深々と頭を下げた。その目は申し訳なさで一杯だった。

 

「謝るならオレよりも明璃にしてくれよな。……で、もう言いたいことは言い終わったのか? 別れの挨拶は?」

 

「ええ。これ以上はもう離れたくなくなっちゃうから」

 

「……きっと、そうだな」

 

「だから返すね。この身体、ちゃんと支えていて」

 

 頷いたのを見ると、逸森は目をつぶった。


 すると明璃の身体の頭上に黒いもやが浮かんだ。それは徐々に人の形作り、やがて写真で見た逸森曄香そのものとなった。違う部分は、幽霊らしく足が透いてて視えないくらいのものだ。


 取り憑かれていた明璃の身体は、糸の切れた操り人形のように力無く前のめりに倒れ込んだ。

 

「明璃、大丈夫か!」

 

 サトルは肩を支えて身を案じた。返事は微かな呼吸だけだが、それでも胸をなで下ろした。生きている。今はそれだけで充分だった。


 サトルは明璃をゆっくりと下ろしてから学ランを脱ぎ、それを枕にして横に寝かせた。

 

「……あたしはこれからどこへ行けばいいんだろう」


 逸森は肩を落として言った。

 

「ここにずっといればいい」

 

「でも、許されないコトをしたし、そういう言葉もたくさん言った」

 

「もう過ぎたコトだ。許すとか許されないは明璃が決めることだと思うし。というか、この外から出られるのかな?」

 

「……試したことなかった」

 

「あははっ、結構抜けてるとこあるんだな。小林先生の言った通りだ」

 

「えっ! 他に何か言ってないよね、先生!」

 

「もう先生には視えてないよ。オレだって根掘り葉掘り訊けないし、マナー的に」

 

「あぁ、そっか……」

 

 残念そうにしていると、逸森の幽体から淡い光が発生した。

 

「なんだろコレ、温かいな。すごく安心する」

 

 光が増すにつれ、逸森の幽体は空へ遠ざかっていく。

 

「ああ、そっか。やっと休めるんだ。疲れたから、ちょうどよかった」

 

「憑いてた側が疲れたなんて、よく言うよ」


「……ねえ、貴方」


「オレ?」


「反面教師として、あたしを忘れないでほしい。憎しみが、怒りがこの世に留まる理由になったあたしを」


「ああ、忘れないよ。そんなコトよりも、あんたは人を助けたヒーローなんだから。ずっと覚えておく」


「……ありがとう。最期に先生とも話せたし、貴方のような人と会えて本当に嬉しかった」

 

「じゃあな、元気でな」

 

 サトルは手を振り、逸森もそれを返すと、光は逸森を包んで消えた。



 

「逸森さんは、成仏したのでしょうか」


 小林が遠慮がちに言った。

 

「ええ、笑顔を浮かべて」

 

「そうですか。……あの、私からもお礼を言わせて下さい。本当にありがとうございました」

 

「感謝されるコトはしてませんよ」

 

「本当に救われました。亡くなった人と互いに胸の内を明かせるなんて、夢のようでした」

 

「救われたのはオレの方ですよ。小林先生が来てくれなかったら、今頃明璃は――」

 

 出しかけた言葉を飲み込んで、示すようにフェンス越しに下を向いた。

 

「そうでしたか……。そうだ、紫城さんのことは私に任せて下さい。親御さんのほうに説明しなければならないので」

 

「すみません。お願いします」

 

「私にはこれくらいしか出来ないので……では」

 

 明璃は小林に抱えられ、屋上を後にした。


 ここに残る者はサトルだけになった。疲弊した心に孤独が張り付き、鬱屈した思考が脳を駆け巡る。

 

――これが、これこそが禅院ぜいんの呪いなのか? こんなに怖い思いをしなければならないのか?


 心なしか風が冷たく感じる。空を見上げると、赤い空に散り散りと黒い雲がかかっていた。

 

「一雨降りそうだな」


 呑気に言うのはバクだ。


「バク。そうか、お前がいたな。素で忘れてた」


 半笑いで言った。もちろん冗談だ。


「むっ、失礼だな、このワタシを忘れるなんて」


「いやあ悪い悪い」


「ワタシはキミのそばにいる。だからキミは独りじゃないってコトを忘れるな」


「……けっこうマジメなトーンで言ってくれるんだな。びっくりしたよ」


「不服だったか?」


「いや、心強く感じた。ありがとう」


「全く、手が掛かるな」


「手なんか無いくせに」

 

 ふたりは笑いあった。

 

「……陽が落ちる。とっとと帰ろう」


 夕暮れの風は、まだ冷たかった。

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