悲しみは仄めいて④
清爽としたベランダには、穏やかな時間が流れていた。
小林先生は手すりに手をかけ、空を見上げる。透き通るような青空を見つめるその横顔は微笑んでいるが、憂いを帯びている。
「今日は、とてもいい天気ですね。まるで、あの日のように」
「……ええ、そうですね」サトルにはそれしか言えなかった。
「あっ、足元のほう、気をつけてください」
ベランダに出るときに、小林は素早く足元を指さした。その先に視線をやると、白い花々があえかに咲いている植木鉢が置かれていた。日向に当たっていても体育座りをしているようだ。
「この花は?」
今度は、サトルが指をさして小林に尋ねた。
「これはアネモネという花です。ご存知ですか?」
「ええと、その、花はバラとタンポポくらいしか……」
「気を使わなくて大丈夫ですよ。……では、そろそろお話しましょう」
遠い眼差しの果て、空に映る夢のあと。哀切なる死が生んだ一人の孤独。小林先生が何年もの間、話すコトの出来なかった悲劇が紡がれるのだ。
サトルは思った。小林先生は離せなかった、忘れられなかった。教え子の自殺という残酷な現実を。己の無力さを。そして、それでも先生を続けたいという意志を。
押しつぶされそうなまでに重い話になるのは、想像に難くない。だからこそ勇気が欲しい。心のキズを共有できる勇気が。
うつむいて思う。すると、下がった目線に大きく映るものがあった。
アネモネの花だ。小さな花弁は弱々しい印象を受ける。だが、それでも生きている。
そうだ、生きているのだ。あのアネモネを見ていると、不思議と勇気が湧いてきた。
「あっ、少しだけすみません。聞くのがひとりだけじゃさびしいので」
サトルはそう言うと、身を屈めて植木鉢を手にとった。
「せっかくいい天気ですし、このアネモネにも聞いてもらいましょう。太陽を浴びながら……」
サトルは植木鉢を抱え、話を聞く姿勢をとった。花の名前を知ると身近に感じ、弱々しく感じた咲きっぷりも、どこか誇らしく見えてきた。
「……ふふっ」
それを見た小林先生は微笑んだ。まるで、デパートでたまに行われるヒーローショーを純粋に応援している子供を見て微笑ましいな、と思っているような大人の表情だ。
なんだか子供扱いされているような気もしたが、笑ってくれたから悪い気はしない。そう思っている間もやさしい眼差しを向けていた。流石に恥ずかしくなる頃合いだ。
「あの、そろそろ……」
「あっ……そうですね。それでは、今度こそ――」
サトルが促そうとすると、小林はハッとして眼鏡の奥を鋭く輝かせ、ゆっくりと語り始めた。
「――これが、
語り終えると、小林先生は大きくため息をついた。
サトルにとっても苦しく、胸糞悪くなる話であった。が、小林は時が流れると共に膨らむ毒が少し抜けたようで、胸をなで下ろした様子だ。
「つらいコトを話していただき、ありがとうございました」
サトルは頭を下げ、抱えていた植木鉢も下ろした。
他人事ながら、逸森をいじめた――いや、殺害した人間には、憤りしか感じられない。いじめられた友達を救おうとしただけで標的になり、そしてこの始末なのか。
怒りを通り越した先には、無力感だけが図々しく居座っていた。
「……思い返す度に、私は今でも後悔しています。もっと声をかければよかったと」
小林先生はそう言うと、内ポケットから小さな本を取り出し、サトルに見せた。
その本のタイトルは、『霊界への交信――それは宇宙の奇跡』という、いかにもなオカルト本であった。
「こんなものまで読み漁って……ずっと、ずっと後悔し続けました。もう一度だけでも、いっしょに話したかった」
自嘲気味に笑う小林先生。
バッグの中に入っていた――盗み見は好ましくないが――同系統の本とも照らし合わせると、自分なりに研究していたのだろう。
「先生、オレは――」
言いかけた途端、サトルの背後からわざとらしい咳払い。バクのものだ。
「サトル、回れ右だ」
「おいバク、なにする気だ」
「ワタシも言いたいコトがある。化け物側としての意見さ」
「……失言はナシだぞ」
言われるがままに後ろを向き、
「センセイは、もし逢えたらなにを話したい?」
「それは……」
「どんなに言っても詭弁になる、とでも考えているんじゃないか?」
「……ええ、話せたとしても、なんの慰めにもならないのではと、そう思います」
背中越しからそれを聞いて、確かにそうかもしれないと、サトルは思った。けれど、本当にそうだろうか、うれしいが先に来るんじゃないかという思いもあった。
小林とバクの問答は続く。
「世の中に強い恨みを持っているワケだからな……。だがそうかなぁ、ワタシはそう思わないが」
「え?」
「慕っている人から声をかけられたりしたら、嬉しいモンじゃないのか? ニンゲンってやつは」
小林は黙り込んでしまった。それにしても、あのナリで人間臭いことをよく言えるなと、サトルは感心した。
少し間をおいて、喋りだしたのはバクだ。またもわざとらしさを感じる唸りと共に。
「うん、わかったぞ、きっとこうだ。アナタは怖いんだろう、カノジョに逢うのが」
図星、といった息づかいが小さく聞こえた。怖がっているその理由、サトルにもなんとなくわかる気がした。
幽霊が怖いとか、子供じみたものではない。思うに、それは「作り上げた信頼関係の崩壊」ではないか。
話を聞くに、小林先生は逸森の相談によく乗っていた。おそらく、両者とも信頼し合っていたのだろう。でないと、デスクの二人の笑顔の写真の説明が付かない。
しかし、いじめに耐えられず、結果的に逸森は自殺を図った。
それから、小林先生は救えなかった後悔に駆られ、慰霊の花壇を設け、極め付きはあんな本まで買い込みオカルトに傾倒した。
幽霊となった逸森に逢えたところでなんと言おう。なにを言われるだろう。
もしも、あの冷たい眼差しを向けられ『相談したって無駄だった』とでも言われようものならば、その心情は計り知れない。
写真の笑顔も、親身な相談も、なにもなかったコトになる。残るものは、後悔だけだ。
「私には、何も言えません」
死んだ人に逢いたい。そのために研究して逢おうとしていた。でも、逢いたくない。救えなかったことに対して、きっと恨んでいるだろうから。
なんて悲しい矛盾なのだろう。
「救えなかった。言葉をかける資格すら、ありません」
でも、もしそうだとしても、やはり違う、とサトルは思った。
主観的だが、味方が他にいない状況で、小林先生の存在は頼りになったハズだ。嫌うわけがない。でも、別れすら告げずに……そこまで追い詰められていた。
「そんなコトないですよ」
サトルは向き直って、堂々と言った。
「小林先生といっしょのときは、逸森さんだって救われていたはずです。だから、お願いです。自分を責めないで下さい」
「そうそう、ウチの大将の言う通りだ。カノジョはきっと感謝しているさ。そんなに自分を卑下するのは健康によくない」
「大将!?」
そんな言い回しはどこで覚えたのだろう。
「おふたりとも……ありがとうございます。私がしっかりしなきゃいけないのに」
「ふたりだって? フフッ、ワタシもそこに入っているのか?」
「ええ、もちろんです」
背後でバクが嬉しそうに笑った。
「……そろそろHRが始まりますね。あの、渡したいものがあるので、少し待っていてください」
腕時計で時刻を確認すると、職員室のデスクに戻った。
「……ん?」
それと、ほぼ同時だった。
心を鋭く突き刺すような感覚。背後から。額に冷や汗を垂らしながら、咄嗟に振り向いた。
中庭を挟んだ向こう側の校舎に、影に塗りつぶされた人影、離れても感じる冷視線。
間違えようがない。あの悪霊――逸森曄花だ。
「あの、これを逸森さんに」
ジッと視ていると急に手を差し出された。思わずサトルは跳びあがりそうになった。
「もし、もしも逢えたら、この時計を……」
小林が言うには、逸森は誕生日が近かった。誕生日プレゼントとして贈るものだったのだろう。その腕時計は時を刻んでいなくても、新品同様の状態であった。
「はい、わかりました」
サトルが受け取ると、見計らったかのように丁度チャイムが鳴った。
もう視線は感じない。どうやら、小林を避けているようだ。
「一通り話しましたが、よろしいでしょうか」
「はい、本当にありがとうございました」
「では、私はこれで失礼します。……他力本願で申し訳ありません。逸森さんを、頼みます」
サトルは大きく頷いて誓った。小林先生のために、なによりも明璃を救うために。あとは託された腕時計が切り札になるのを期待するしかなかった。
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