第三十二章 それぞれの今

 年が明けて二月のある日、町田家。

 「ねえみのりちゃん、ちょっと病院に付いてきてくれない? 気分が悪いの」

 「え⁉ どうかしたの? 顔色悪いじゃない。いつから?」

 「朝からなんとなく調子が悪かったの。さっき吐き気がしてもどしちゃった」

 「わかった。すぐ出られるの? 準備ができたら教えてね。タクシーを呼ぶから」


 同時刻、藤村家マンション。

 「え、じゃあみのりちゃんちの隣に家を建てるの?」

 「その予定で町田さんの家に隣接する土地を買ったんだよ」

 「そうなんだっ! うれしいー けどまたどうして?」

 「そりゃ大勢の知らない人たちと同じマンションで暮らすより、よく知っている町田さんの横で生活する方が安心だし楽しいでしょ」

 「そりゃそうだけど…… なんか唐突だね。

 ね、なんかあったんじゃない?」

 汐音が薄笑いで探りを入れてきた。

 「別にい。あの土地が手頃な価格で売りに出ていたのと、ここの大家さんからも遠回しに引っ越してほしいって言われてるし」

 「やっぱあれかなあ。わたしがセクシイなんで、ほかの入居者のおじさんたちが落ち着かないんだろうね。綺麗って時には罪なことなんだなー」


 「吉田医院までお願いします」

 「いえ、市立病院に行ってください」

 掛かり付けの医院ではなく規模の大きな市立病院に行くのか。みのりちゃんは母の病状が重いのではないかと心配でならない。

 病院に到着し外来受付に向かう。

 「初めての受診ですか。何科をご希望でしょう」

 受付の病院事務の女性がビジネスライクに訊ねてきた。

 「産科・婦人科をお願いします」

 「産科・婦人科ですね。ではこの問診票にご記入してください。

 健康保険証かマイナンバーカードはお持ちですか」

 町田さんが自分のバッグからマイナンバーカードを取り出して受付の女性に手渡した。

 「(産科・婦人科⁉ なんで産科・婦人科?)」

 みのりちゃんが心の中で疑問を呟いた。

 待合スペースの椅子に腰かけて問診票を書いている母にみのりちゃんが声をかけた。

 「なんで産科・婦人科なの? 子宮に違和感があるとか」

 「経験から言って、妊娠してるみたい」

 母親の予想外の応答にみのりちゃんは固まった。

 「に、にんしん? にんしんって妊娠よね。赤くて先が細くなってる野菜じゃないよね。赤ちゃんできたの?」

 「それは検査しないとわからないけど、結菜を身ごもった時と同じような感覚がするの」

 「だれの……」

 言いかけてみのりちゃんはさすがに言葉をフェードアウトした。

 とりあえず検査結果をみないと本当に妊娠したかわからないわ。想像妊娠ってことも人間にはあるらしいし。

 でも想定する相手があっての想像妊娠だから何かあったに違いない。

 診察の順番を待つ間、みのりちゃんは記憶領域に保存されている出来事を辿っていった。

 着床して妊娠の予兆が現れるまでだいたい三か月くらいだから、逆算すると十一月になにかあったってことよね。

 十一月と言えば温泉旅行とレイジー・ママのライヴ招待…… 相手は藤村さんかっ‼

 プロの探偵じゃなくても簡単に犯人の、いや生まれてくる赤ちゃんの父親の予想はつく。

 もしそうだったらこんな嬉しいことはないわ。

 いや、でも母の年齢からして安全な出産ができるだろうか。五十代前半だから自然分娩は無理としても、現代の医学ならかなり安心して生むことができるだろう。

 あれこれ想像して落ち着きがないみのりちゃんに町田さんが

 「落ち着きなさいよ。なんであなたがそわそわしてるのよ」

 「だって当然でしょ。わたしに実の妹だか弟ができるのよ! 落ち着いてなんかいられるわけないじゃない」

 「だからあ、検査しないとわからないじゃない。単なる体調不良かもしれないし」

 「ね、もし妊娠してたら生むよね」

 「当たり前でしょ! いくら高齢出産で危険でもわたし生みます!」

 その言葉を聞いてみのりちゃんはこみあげてくるものがあり、涙がにじんでくる。

 自分には絶対に経験できない妊娠から出産までの過程を、すぐ傍で見守ることができるのだ。しかもそれが母親と、自分の親友の父親の間に芽生えた命なのだから、それは感動以外の何物でもない。

 「あなた、相手は誰って訊かないの?」

 「藤村さんでしょ。日程的に考えたらそれしか思い当たらない」

 「ピンポ~ン。あなたと汐音ちゃんのおかげで生まれてくる命よ」

 「検査結果を聞いて、それから喜びましょう。ぬか喜びにならないように」

 「そうね。ちゃんと結果がわかったら藤村さんにも連絡します」

 「藤村さんには病院に来てること、教えてないの?」

 「連絡したわよ。彼も良い知らせを楽しみに待ってるって」

 「汐音ちゃんは知ってるの」

 「さあ、どうかしら。はっきりしたら教えるんじゃない」

 「ねえ、結婚するの?」

 「それはわからないわ。なるようになるわよ。

 生まれてくる子にとってはわたしが母で藤村さんが父なのは間違いないんだから、紙一枚でその事実が変わるわけじゃなし。

 それにもうふたりとも人生の半分以上は生きているから、今から財産相続とかなんとかややこしい問題に振り回されたくないの」

 「ふーん。まあその辺のことはむずかしそうだから、とりあえず《案ずるより産むが安し》ね」

 「ところでさ、家のとなりの平地になっている土地。あそこは藤村さんが買ったのよ。家を建てるんだって。だからもうすぐお隣さんね」

 「そうなのっ⁉ なんだか知らないうちにどんどん状況が進んでいるね。

 ねえ、いつからそんなに仲良くなってたの?」

 「それはひ・み・つ」

 「町田さーん 町田祐風貴さーん 2番の診察室へどうぞ」

 やっと町田さんの順番が回ってきた。

 「じゃあ行ってきます」

 「行ってらっしゃい。吉報を待ってるよ」



 一年後、町の教会で結婚式が挙げられた。

 花嫁がバージンロードを歩いてくる。エスコートするのは御茶水氏。

 今日は笹木マロンちゃんが花嫁になる日。お相手は……よく知らない。

 汐音が仕入れた情報では、コンピュータ関連の企業に勤めていて、月収は百万円を下らないそうだ。

 知り合ったのはあるコスプレイベントで、お互いのコスプレ姿を写真に撮りあったのがふたりの馴れ初め。その彼がマロンちゃんの家に婿養子に入ることになった。

 マロンちゃんはお母さんとおじいちゃんの三人暮らしでお父さんがいないらしい。そんな事情からの御茶水氏父親代わりというわけ。

 しかし現存のすべてのアンドロイドは御茶水氏が父親と言っても過言ではない。

 ちなみに相手の男性はアンドロイドではなく人間である。アンドロイドが人類と法的に認められた際、婚姻法も改正されて人間とアンドロイドは結婚できるようになっている。

 ふたりがどんな家庭を築くのか楽しみだ。各地のコスプレイベントを荒らしまわるに違いない。

 なおマロンちゃんは結婚を機にアンドロイド・ラボを退社。彼女の後任には父親がフランス人、母親が日本人のアンドロイド女性、レイラちゃんと言う子がマロンちゃんから事務を引き継いで勤務している。



 みずほちゃんは現在、ボストンのM・I・Tに留学中で、素粒子と理論物理の博士課程を勉強している。

 将来は理論物理学者となって、宇宙のはじまりを解く理論を構築する夢を叶えたい。

 数十年、数百年先には宇宙の観測技術がかなり進歩しているだろうから、彼女の夢はいつか現実となるだろう。

 留学と言っても議論や研究はネットを通して自宅でもできるので、実際に現地にいるのは年間三か月程度。

 日御碕灯台見学がきっかけで、有名どころでは犬吠埼灯台や竜飛崎灯台、近場で博多港中央航路第一号及び第六号灯標等々、全国各地の灯台巡りも研究の合間、と言うより灯台巡りの合間に研究する日々を続けている。



 ファイヴ・カラーズは相変わらずの人気を維持しつつ、今度はレイジー・ママのヨーロッパツアーに帯同して欧州進出を狙っている。

 これまでもフランスなど、日本のサブカルチャーが受け入れられている国ではある程度ファンを獲得していたが、今回はあまりなじみのない東欧にも足を運び、名前だけでも覚えてもらって長期的な戦略を考えているのだそうだ。

 そういえば、彼らは楽器も得意なので、急造のヘヴィメタ・バンドを別名で立ち上げて動画と楽曲を配信しCDも発売した。

 一部の熱狂的ファンには好評だったが、ロックファンからは白眼視され、結局は一曲だけで企画倒れとなった。

 発売されたCDの初回限定盤と通常盤はどちらも売れ行きは芳しくなかったらしく、当然ながらプレス増は見送られた。

 今のうちに両種とも手に入れておけばプレミアがつくのは間違いないだろう。



 代表取締役兼マネージャーの国分氏には意外な人生の転機があった。

 あるライヴの日、いつものように開演前の物販会場内を、グッズの売れ具合調査と出禁者の警戒を兼ねて歩きまわっていると、二十歳台後半と思しき女性が国分氏に手紙を差し出し

 「あの、これを……」

 「あ、ファンレターはあそこにプレゼント・ボックスを設置しているから、そちらに入れておいてください。後で回収してメンバーに届けますので」

 するとその女性はちょっと戸惑った表情になって言った。

 「いえ、これはファイヴ・カラーズのメンバー宛てじゃなくて、マネージャーさんに書いたものです」

 「……わたしにですか? あ、じゃあお預かりします。なにか苦情や要望があればいま直接言っていただいてもよろしいですよ」

 「いえ、そんなのじゃありません。とにかく後で読んでみてください」

 そう言って女性は足早に立ち去った。

 女性が遠ざかっていくのをしばらく目で追っていたら『国分マネージャー、控室にお帰りください。国分マネージャー、控室にお帰りください』と、場内アナウンスの彼を呼ぶ声が聞こえたので、手渡された手紙を内ポケットに入れて仕事に戻った。

 ライヴはいつものように大盛況で終了し、メンバーもスタッフも出待ちが待つ通用口からではなく、秘密のトンネル通路からホテルに戻った。

 ツアー中は打ち上げなどなく、各自が勝手に食事を摂るのがこの事務所のルールだ。

 国分氏は自室に入り、着ていた服をベッドに脱ぎ捨て、素っ裸でシャワー室に入っていく。

 十分後には心も体もリフレッシュした状態で、再び全裸のままシャワー室から出てきた。

 ベッド上に脱ぎ散らかしている服や下着を片付けていると、会場で渡された手紙の事を思い出し、上着の内ポケットを探ってあの時の女性からもらった封筒を取り出した。

 念のため、中に剃刀の刃や粉状の物質が入っていないか手触りで確認するが、それらしい感触はない。一応匂いも嗅いでみると、石鹸のような清潔感のある香りがした。多分封筒か便せんに直接刷り込まれている香料のせいだろう。

 どうせ物販グッズの種類を多くしてとか、個別握手会のはがしまでの時間をもう少し長くとってなんてことだろうと思い読み始めた。

 ところがなんと、手紙の内容は全編に渡って国分氏に対する熱い思いを綴ったラブレターであった。

 マネージャーとお近づきになってメンバーとの仲を取り持ってもらう魂胆で、国分氏に近づいてくるファイヴ・カラーズファンがこれまでに何人かいたが、文面を読む限りそういう手合いではなさそうである。

 手紙の女性は可能な限りファイヴ・カラーズのライヴに来場しているそうで、いつも会場で忙しそうに駆けずり回っている国分氏の姿を目で追いかけているのだという。

 できるなら結婚を前提に真剣なお付き合いをしてほしいと恋文は結ばれており、連絡先として住所・氏名・年齢・携帯電話番号・メルアドが記載されている。

 国分氏はその晩のうちに手紙を百回は読み返した。

 どう対応したものか、ああでもないそれはまずいと一晩中考えた末、一週間後の次回ライヴに彼女がいたら直接声をかけることに決めた。

 そもそもどういう素性の女性か文面だけではわからないし、実際のところ、はっきりと彼女の顔も思い出せない。しかし大勢の中でもあの子を見つける自信はある。

 彼女は自分からの何らかの返事を期待して住所など個人情報を記入したのだろう。無防備で世間の怖さを知らないと言えなくもないが、自分を信頼してのことと肯定的に受け止めることにした。


 そして一週間後のライヴの日、例によって国分氏が会場内を見回っていると、会場の隅に例の女性がいるのを見つけた。彼女もこちらを見ている。

 国分氏はまっすぐ女性に向かって歩いて行った。彼女は国分氏が五メートルほどの距離まで近づくとお辞儀をして挨拶をした。

 国分氏も立ち止まって軽く頭を下げ『こんにちは』と挨拶。

 「お手紙、読みました。どうもありがとう。わたしみたいな男にあんな暖かい思いを持っていただくなんて、なんかすごく恐縮してしまった」

 「すみません。ご迷惑でしたか。ごめんなさい」

 「ととんでもない。すごく嬉しかったです。

 でも自分はあなたの事をほとんど何も知らないから、ご都合のいい日にお食事にでも行きませんか? 水族館か動物園か遊園地か映画でもいいけど。なんならフルセットでも」

 「はい。ご都合のいい日に単体でもフルセットでも」

 これ以降はだいたい想像できる展開だし、興味もないので端折るが、ふたりは目出度くゴールインとなった。

 以来、国分氏は代表取締役に専念するようになり、事務所から出ることが少なくなる。

 そのかわりスタッフを増員して会社内は賑やかさを増した。

 ファイヴ・カラーズとしてのグループ活動以外に、メンバーそれぞれに単独の仕事が入ることも多くなったので、少し前からメンバー一人ひとりに個別マネージャーをつける計画になっていたのだ。

 新しいマネージャー五人が採用され、その五人をまとめるマネージャー・リーダーに笹木マロンちゃんが抜擢された。

 彼女が結婚を機にアンドロイド・ラボを退社したのは主婦業に専念するからではなく、彼女の人心掌握術、あらゆる状況でも明るく打破する突破力を国分氏が見抜き、御茶水氏に引き抜きを打診したところ、御茶水氏もマロンちゃんも快諾したのだ。

 マロンちゃんにとっては願ってもないヘッド・ハンティングで、これからプロのファイヴ・カラーズ・ファンとして一緒に仕事ができるのであるから、究極のファン到達点に達したのである。

 しかし意外と言っては失礼だが、彼女は家庭第一主義なので絶対に一線を越えることはしない。夫が一番、メンバー二番、三時のおやつはマロンケーキと決めていて絶対に譲らない。

 ついでながら、アンドロイド・ラボに入社したマロンちゃんの後任のレイラちゃんは初めての会社勤め。これはマロンちゃんが雇用された経緯と同じで、ようするにアンドロイド・ラボは生まれて間もないアンドロイドたちの、社会への第一歩を踏み出す働き場所でもあるのだ。



 御茶水氏は販売事業から完全に離れ、研究開発に専念するようになった。

 アンドロイド・ラボは御茶水氏個人の研究室兼事務所となり、新人のレイラちゃんの肩書は事務のほかに研究スタッフの役目も担っている。

 彼女の思考は独特な面があり、常識にとらわれないアイデアをその場の思いつきで早口・擬音語・擬態語を交えて表現する。日本語とフランス語をごっちゃに話す家庭で生活しているから仕方ない。

 研究者としての御茶水氏も一目置くような考え方を披露することもあるので、あとは経験を積んで誰にも理解される表現力を身に着けるのがこれからの課題だ。

 御茶水氏自身は海外への出張も多くなり、年間三か月ほどは妻の瑤子さんとともに世界各地を周る旅に出ている。

 ノーベル賞候補として毎年、御茶水氏と彼の共同研究者たちの名前が挙がるものの、今のところ受賞はしていない。

 受賞者発表の中継で彼の名前が出てこず、日本全体がかっかりする中、瑤子さんだけはホッと胸をなでおろすのである。

 双子姉妹は中学三年生となり、受験勉強に明け暮れる毎日でファイヴ・カラーズを追っかけているヒマなどないはず、と両親は思い込んでいるようだ。

 実際に勉強してはいるが、深夜はマロンちゃんから送られてくるファイヴ・カラーズの高画質写真や動画を見てあーだこーだとヒソヒソ騒いでいる。

 所属タレントの画像や映像資料の事務所からの門外持ち出しは無論禁止だが、御茶水家は門内なので問題ない、とマロンちゃんも国分氏も気にしていない。



 今やアメリカではジャズ歌手としてのしっかりした地位を確立しつつあるはやぶさ君。

 一・二月はレコーディング、三~六月は休暇とやっつけ仕事をちょこちょこ。七・八月は日本のジャズ・フェス出演、九・十月はヨーロッパのフェスとライヴ・ハウス巡演。十一月休暇、十二月は渡米してレコーディングの準備とクラブへの出演。これが年間スケジュールのおおよその流れ。

 レイジー・ママとの交流は、私的なパーティーへ招待されたり、ライヴのゲストとして共演する関係が続いている。

 《地位が人を育てる》と言うが、はやぶさ君の性格は以前とそれほど変わらない。

 もちろん人前商売だから営業話術はそれなりに上手になったが、通常モードでは昔と変わらず自信なさげなお人よしのお兄さんにもどる。

 みのりちゃんとは休暇中に実家に戻ってきている間、よく会っているようだし、国外滞在中もSNSで頻繁にやりとりしている。

 みのりちゃんにお姉さん意識があるのか、はやぶさ君が弟的立ち位置を無意識に受け入れているのかわからないが、見ていて恋人感は乏しい。

 が、ふたりにとってはそれが自然な付き合い方なのだろうから、いつか良いことがあるかもしれない。アンドロイドの人生は長いのだ。

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