第三十三章 藤村家と町田家
私と汐音、それに小さな家族たちが新居に越してきて三日目。
昨日まではお隣の町田母娘を巻き込んで、荷ほどきや家具の配置で大忙しだったが、今日までになんとかここに棲む生き物たちが食べて眠れるスペースを整備することができた。
窓を開ければおかずのやり取りができるほど、近接して新居を建てることはできなかったが、これは風通しが悪くなり、湿気で外壁の劣化が早まる恐れがあるのでやむを得ない。
そのかわり二メートルほどの両家の間を渡り廊下で繋ぎ、簡単に行き来することができるようにした。
渡り廊下と言っても吹きさらしの校舎と校舎の間にあるようなお粗末なものではなく、鉄骨で防音断熱効果を施した、建物の一部と言っていい立派な廊下である。
廊下の両端にはそれぞれドアが設置されているが、通常は開けっ放し。人間も動物も自由に行き来することができるようになっている。
両方の家族とも家族構成に若干の変動があった。
私の家にはボストンテリアの女の子、リニーが家族の一員に加わり、先住猫のあしる、先住犬アクアと付かず離れず上手に付き合っている。
町田家では、みのりちゃんがボストンテリアの魅力にとらわれ、男の子のマイルス君と妹のハナちゃんを町田家に迎えた。
今のところ両家のボステリたちは無事にファースト・コンタクトを終え、遊んだり一緒に寝たりしている。
猫のあしるだけは超然として、高所からボステリらの行動を観察している。
時折下りてきてボステリの横をすり抜けるように通り過ぎ、何か所かみつけたお気に入りの場所に移動して、いちばん日当たりのよい所でお昼寝するのが日課。気が向けばいちばん取っつき易そうなハナちゃんに軽くハイタッチ気味の猫パンチをしたり、寝ているハナちゃんに添い寝してあしるなりのコンタクトをとろうとしている。
そしてもうひとり、私と祐風貴さんの間に生まれた女の子が家族の仲間入りをした。
名前は《逢詩/あいか》。去年の九月二十日に三千二百グラムで生まれた。
生後一か月は私が町田家に泊まり込みで祐風貴さん、みのりちゃんと交代で育児。汐音も昼はほとんど毎日、町田家にやってきて逢詩の世話や、家族の食事を作って自宅に戻る生活を続けた。
私は主に深夜番を担当し、たまにお腹をすかして目を覚ました時は、抱っこして哺乳瓶でミルクを飲ませて寝付かせる。
彼女は夜泣きすることがほとんどなく、九時か十時に就寝したら翌朝七時くらいまではぐっすり寝ていた。それは生後六か月経った今も変わっていない。
二か月目からは汐音と日替わりで町田家に泊まり、変則四人体制で逢詩の育児に関わった。
四人の中で育児経験のあるのは当然ながら祐風貴さんだけなので、他の三人は祐風貴さんの指導を仰ぎながら逢詩の面倒をみるのである。
それぞれが仕事のスケジュールを調整しつつ、子育てを直に体験をすることができたことは私や汐音、みのりちゃんにとって貴重な経験だ。
引っ越しが完了し、四人でシフトを決めて共同育児していく体制が整った。
今の時間帯は祐風貴ママが育児部屋、と言っても祐風貴さんの寝室に育児ベッドを置いただけだが、そこで逢詩をみている。
わが新居にも子供部屋を用意しているが、まだ新建材のにおいが鼻をつくので、しばらくは祐風貴ママの部屋が逢詩の寝所だ。
汐音とみのりちゃんは夕飯の食材を買いに出かけている。
昨日と一昨日の夕食は出前で済ませていた。今夜初めて新居の方で料理を作って食事をするのだ。
ふたりとも運転免許証をとったばかりなのでとにかく運転したいばかり。
祐風貴さんの出産や私たちの引っ越しで、まだどちらの初心者ドライバーとも自分の車をみつけるまで手が回らない。
今日も買い物は私の古いセダン・タイプの車を運転し、のたのたガックンさせながら家の前の公道に出て行った。
何度か私もふたりのどちらかが運転する助手席に座って習熟度をチェックしたが、まあ安全運転であるのは認めるのにやぶさかではない。
しかしブレーキの踏み具合や車線変更、右折のタイミングなどでスリルを味わうことも多かった。
学習能力は我々よりはるかに高いのだから、運転時間が増すごとにスムーズなハンドリング、フットペダルさばきを身に着けることだろう。
締め切りが迫っていた原稿を書き上げてデータを送り、自室を出て祐風貴さんの育児部屋を見に行く。
渡り廊下から町田家に入るとマイルス君とハナちゃんが、地味だが歓迎しに出てきてくれた。
育児部屋のドアが開いていたのでそっと覗いてみると、母娘とも寝ているようだ。
足音を立てないようにそろっと歩いてゆっくりしゃがみ、逢詩の寝顔を見る。
無垢で純真な逢詩の表情をじっと見ていると、なんとも表現しがたい幸福感に満たされ、静かにほっぺたにチュッとキスをした。
となりで同じく幸せそうにうたた寝をしている祐風貴さんにも頬に軽く口づけすると
「起きてますよ。お仕事終わりました?」
「なんだ気づいてたんですか。終わりましたよ」
「じゃ、ご褒美」
と、少し頭を上げて私の口にキスを返してくれた。
「ミルクは飲んでしまいました?」
「全部飲んじゃった。飲み終わったらすぐ寝入っちゃって。大物になるわよ、この子」
気配がして振り返ると、マイルス君とハナちゃんがドアの外にお座りしてこちらを見ている。
人間と暮らす動物は空気が読めるようになる。
誰も言い聞かせたりしていないが、逢詩の育児部屋はなんとなく聖域意識があり、勝手に入ってはいけない場所と感じているのだろう。
「おいで、マイルス君、ハナちゃん」
そう言って手を差し出すと、遠慮するように頭を低くして近づいてきた。そして逢詩の手のにおいを嗅いだり、小さな足を舐めたりしている。
くすぐったいのか、逢詩が足を動かしている。
逢詩が育児ベッドに寝ている時、ちょっとその場を離れなければならない際に
「ハナちゃん、ちょっと逢詩ちゃんを見ていてね。すぐ戻るから」
そう言って部屋から出ていくと、誰かが部屋に戻ってくるまでベッドの傍でじっと見守っている。動物家族も子育てに一役買ってくれているのだ。
「今夜はどんなご馳走が食べられるのかなあ」
「一応、新築引っ越し祝いと銘打っているから、汐音とみのりちゃんが上達した料理の腕前を披露してくれるでしょう。
どんなメニューになるかは秘密だそうです」
「秘密って言うか、店に行って何があるかで決めるのよ。
でもみのりも汐音ちゃんも随分と料理が上手になったと思うわ。
みのりが来た頃に何度もあの子の作ったものを味見させられた御茶水さんは災難だったでしょうね」
「汐音もそう。初めてのひとりお買い物でカツオまるごと一本とツナ缶ひと箱を抱えて帰ってきて、ツナ缶はともかく、魚のさばき方なんて私は知らないし、当然汐音もわからないから、ネットを見ながら一応料理らしきものをでっちあげたけど、あの時から比べれば隔世の感はある」
「そうそう、そうだった。汐音ちゃんのカツオ一本買いは伝説ね」
そう言って祐風貴さんはくすくす笑った。
しばらく二人とも無言でほんの二年前のいろんな出来事を思い出していた。
「じゃあ私はふたりが戻るまで、台所の準備と居間の掃除をしておきます。ふたりで大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。あのふたりもいるし」
見るとマイルス君とハナちゃんは逢詩の横でスフィンクスのように佇んでいる。
「またあとで様子を見にきますね」
ずっと逢詩と祐風貴さんの近くに居たいが準備もせねばならない。
来た時と同じように、逢詩を起こさないよう静かに部屋を出た。
キッチンで調理道具や食器を準備していると、車をガレージに入れる音が響いてきた。
キッチンの勝手口を出るとガレージなので車の出入りがすぐにわかるのだ。
ゆっくり慎重にバックしているのだろう、響く音が徐々に大きくなって最後に『ゴンッ』と鈍い音がした。
「(またやったな)」
ルームミラーとサイドミラーを見ながら後進する感覚が未熟なのだ。古い車だからナビや後退モニターは付いていない。今の音は多分、汐音の運転だ。みのりちゃんの場合は軽い『コン』みたいな感じ。接触音にも個性が出ている。
車のドアを開け閉めする音がし、続いて勝手口が開いて両手にいっぱいの食材やその他の商品を抱え或いは手に提げてふたりが入ってきた。
「これはまたいっぱい買い込んできたね」
「そう。今日は特売日でいろいろ安かったから明日の分も買ってきちゃった」
言いながらパンパンに膨れたエコバッグをテーブルの上に置いて、汐音がまた車に戻っていく。
「藤村さん、ここの水道水、きれいでしょ。そのまんま飲んでも変な味しないのよ」
みのりちゃんが自慢げに水質の良さを教えてくれた。
彼女が最近やっとタメ口で会話してくれるようになってきている。書類上はともかく、事実上、汐音と同じ私の娘でもあるから言葉使いで気遣う必要はない。
汐音が再び勝手口から入ってきて
「藤村さん、ほらこれ。新居での初めての料理だからその記念日と言うことで買ってきたよ」
汐音が抱えている縦長の箱、見覚えのあるデザインと光景だ。
ついさっき祐風貴さんとの会話でも話題に上った、あの伝説のカツオまるごと一本箱だ。
「あっっっそう。記念日はカツオ一本食べることになってるんだ。で、誰がさばくの」
「それは料理の上手なみのりちゃん。勉強もしてるし」
いきなり振られたみのりちゃんが反論する。
「だからさあ、わたしはパティシエの勉強してるの。和食は専門じゃないって」
「スウィーツもお魚も料理に変わりはないから大丈夫だよ。自分の腕を信じて!」
「なんでわたしが励まされてるの。
あのね、山と海は違うでしょ」
「そりゃそうだよ。当たり前じゃん」
「パティシエと和食職人も比較の対象にならないくらい違うものなの!」
「でもさ、山も海も自然じゃん」
「だから?」
「だからスウィーツも和食も料理の範疇で言えば同じ仲間だよね」
「あのさあ……もういいや。とにかく汐音ちゃんも手伝ってよ。前に経験があるんでしょ、カツオのタタキ」
「そう、わからないことがあったらわたしに訊いて。ネットで調べるから」
「……ネットでね。じゃあカツオは後回しにするから、うちの冷凍庫に入れといて。
先に下準備の必要なものから取り掛からなきゃ」
「私も手伝えることがあれば手伝うよ」
「藤村さんはワンちゃんたちの散歩をお願いします。台所は修羅場になるからふたりで充分」
「あ、はい。散歩コースは決まってるの?」
「だいたいいつも同じ道を歩いているけど、藤村さんにお任せします」
そんな訳で私は厄介払いされた。
先に祐風貴さんとこのマイルス君とハナちゃんを散歩に連れて行こうと玄関でスニーカーを履いていると、祐風貴さんが逢詩をおんぶして育児部屋から出てきた。
「わたしも一緒に行きます。今日は暖かいしこの子もそろそろ散歩デビューしないと」
「あれ、目を覚ましたんですか。でも大丈夫ですか? 重たくないです? 私がおぶって祐風貴さんがこの子たちをリードしたら?」
「いいの。逢詩の重みと温もりを背中で感じながら歩くのも悪くないでしょ」
「そうか。もし疲れたら交代するから言ってください。
そろそろベビーカーも用意しないといけないな」
交通量の少ない住宅街を一キロほど歩き、途中の公園のベンチに腰かけて一休み。同じコースを戻って帰ってきた。
散歩中、逢詩は目をぱっちり開いて初めて見る風景をめずらしそうに眺めているようだった。最近やっとママの顔を認識できるようになったばかりの彼女の目に、流れる外の光景がどう映ったか興味深い。
祐風貴さんと逢詩は育児部屋に戻っておむつの交換、私は次の散歩に出かけた。
アクアとリニー、それにあしると私の四人で引っ越して来て以来、三回目のコースを歩く。今日はあしるが先頭を切って進んでいくリード役のようだ。アクアはリニーが発する女の子の匂いが気になって仕方がないらしい。家に着いたら犬用おむつをリニーに装着せねば。
散歩を終え家に入るとキッチンの方がにぎやかだ。それに美味しそうな香りも漂っている。
アクアたちの手足を拭い、私も手を洗ってキッチンに行ってみると汐音とみのりちゃん、それに祐風貴さんまでがキッチン内をあっちこっちしながら、三人で忙しそうにご馳走をこしらえている。
「私も何かしようか?」
そう言うと祐風貴さんが
「あらお帰りなさい。じゃあちょっとこの鍋の中のスープをかき混ぜてくださいな。
ゆっくりと沸騰しないように火加減を調節しながら」
「了解。あれ、逢詩は?」
「あそこよ」
祐風貴さんが顔を向けた方を見ると、キッチンの邪魔にならない場所へ部屋から育児ベッドを移動させて、そこに逢詩がいた。
のぞき込むと手足を動かし、なぜか楽しそうにしている。表情も笑っているようだ。
おとな達が大騒ぎしながら動き回っている状況を面白がっているのかもしれない。
となりの居間では両家の小さな家族たちが、ソファーやカーペットの上で食事ができあがってくるのを待っていた。
主食のペットフードとは別に、私たちの晩酌に付き合うのが彼ら彼女らの楽しみでもある。
祐風貴さんに任された鍋の世話をしにキッチンへ戻った。
「かんぱーい」
新しい《わが家》での初めての食事が始まった。十二畳ほどのリヴィングにこの家の住人、それに町田家の全員が集まってとてもにぎやかである。もちろん動物家族も一緒だ。
逢詩はママに抱っこされての参加。今夜のママはノンアルコールでがまんしているが、お酒要素なくしても充分楽しそう。
メインはすき焼き、それにみのりちゃん企画・監修で私が火加減の面倒をみた和洋折衷、いや和印折衷のカレー鍋。それとカツオのタタキ一本まるごと。
さて、いよいよ鍋に箸を入れようとするとみのりちゃんが
「ちょっと待って!」
と言って部屋から出て行った。汐音も『わたしもちょっと』と言って自室に入っていく。
しばらくするとみのりちゃんが
「ハッピバースデートゥーユー」
と歌いながら、直径三十五センチはあるケーキを持って入ってきた。
汐音はコバルトブルーっぽい色のサイリウムを五本持ってきて、全員に一本ずつ配った。
逢詩の分は祐風貴さんが代わりに持ち、みのりちゃんの歌に合わせて振っている。
どうやら私の誕生祭らしい。
ちなみにコバルトブルーは私の好きな色である。
実際は十日前に誕生日を向かえていたが、引っ越しの準備や育児で忙しかったため、誕生日当日は汐音が買ってきてくれたショートケーキとシャンパンで簡単にお祝いをしただけだった。
祐風貴さん、みのりちゃん、汐音がそれぞれプレゼントを私に贈呈してくれた。
ケーキの上には長い五本のローソクと短い五本のローソクが立てられ、それぞれのてっぺんで柔らかい火が揺れている。もちろん私の年齢を表しての長さと本数だ。
部屋のライトが消され、歌い終わると同時に私がその火を一気に吹き消し拍手が起こった。
ライトが点いてセレモニーが終わり、改めてみんなに礼を言う。こんな風に自分の誕生日を祝ってもらうのは遥か記憶の彼方以来だ。
ケーキはみのりちゃんの手作りだそうで、デコレーションの綺麗さは流石にパティシエをめざしているだけの見事さ。
ファースト・カットのナイフを入れ、四人分がカットされてそれぞれに配られた。
味はとろけるような甘さの生クリームと、スポンジの間に挟まれたマーマレードが絶妙なコンチェルトを醸し出している。
それにしてもちょっとケーキが大きすぎやしないかと思い
「かなりの大きさだね、このケーキ。四人で食べるにしても三日はかかりそう」
すると汐音が
「大丈夫だよ。わたしとみのりちゃんが明日中に食べてしまうから」
そう言って大事そうに冷蔵庫へ戻しに行った。
これからようやくメインコース。
すき焼きは甘口のオーソドックスな日本古来の味付け。溶いた生たまごに浸ける派・浸けない派が分かれた。私と汐音は浸ける派、町田母娘は浸けない派だ。こんなところは各家庭の個性が表れておもしろい。
汐音がいつものように、すき焼き鍋に油を引く用の脂の塊を箸で持ち上げ自分の皿に移して美味しそうにほおばった。
私はいつも見ている光景だからなんともないが、祐風貴さんとみのりちゃんは目をまるくして汐音の顔を見ている。
「それ、食べるんだ」
祐風貴さんが感心と言うかちょっと恐れ入った風で汐音に訊ねた。
「食べるよ。甘くてふにゃふにゃしてて大好き」
「わたし、それ無理」
と今度はみのりちゃんが信じられないという風に首を振ってつぶやいた。
「どうして? 食べず嫌いはもったいないよ。一度食べてみたら? やみつきになるから。今度すき焼きした時はみのりちゃんに譲るよ」
「いえ、結構です。わたし、あのぐにゃぐにゃした食感がだめ」
「祐風貴ママは? 食べたことある?」
「あるわよ、子どもの頃に。確かに甘くておいしいと思ったけど、今はちょっと……」
「今はなんで食べないの? おいしいのに」
そこで私が助け舟を出した。
「私も子どもの時はいちばんにあの白い塊を食べてたけど、今食べるといろいろ身体的に問題が起こる可能性がある」
「あ、コレステロールとかそんなことでしょ。美食を摂るか長生きを選ぶか、ハムレットの心境よね。ハムレットと言えばオムレット食べたくない?」
話題がアメフトのボールのように予想外の方向へ転がっていく汐音の思考過程には慣れているが、今日はまた一段とギアが上がっているようだ。
カレー鍋の具は海鮮を主体にしたもの。カレーの味で魚自体の風味をなくさないよう、カレースープ自体は薄味だ。
中にはフグ、鯛、牡蠣が入る豪華版。口の中でプチッと弾けるのはイクラらしい。
カレー鍋は牛肉中心かと思っていたが、こんな海鮮をメインにおいた作り方もあるのかと感心した。
汐音が『スウィーツも和食も料理だから同じだよ』と言っていたが、料理のセンスがあれば和食だの洋食だの中華だの和菓子だの洋菓子だのの垣根は、調理する本人が意識しなくても簡単に超えられるのかもしれない。
カツオのタタキは、切り身の形はともかく、新鮮で生姜やネギの薬味とのコラボが絶妙であった。
ボステリたちは家人の誰かひとりにくっついて、主に小さくちぎったすき焼きの赤身の部分をもらってパーティー気分を味わっている。
あしるは肉より魚身に惹かれるようで、しきりと汐音におねだり。
汐音が猫には刺激の強いカレーを水で落として鯛の身を口元に持っていくと、ペロリと舌ですくってちょっと噛み、飲み込んで満足そうな目をしている。
「ママの顔と声はもうわかるみたいよね。パパはどうなの」
「私が抱っこすると目をまんまるにして一生懸命見ているけど、しばらくすると普通の表情に戻るから『この人知ってる』くらいの認識はあるかもね」
「そうなんだ。みのりちゃんは?」
「わたしはまだはっきり見分けがつかないんじゃないかな。ほら、髪を普通にしてたりポニーテールでまとめてたりするじゃない。それに風呂上りだったらタオルをターバンみたいに巻いてるから、髪の形で別々の人と思ってるかもしれない。汐音ちゃんは?」
「わたしが抱っこするとすぐ寝ちゃうんだよね。だからまだ見つめ合ったことない。わたしの抱っこは睡眠作用があるのかな」
すると祐風貴ママが逢詩を右腕から左腕に抱き替えながら
「そうそう、汐音ちゃんが抱っこするとすぐ寝付くのよね。でも育児ベッドの横で汐音ちゃんもぐっすり寝込んじゃってるから、逢詩とお互いに睡眠作用を分けあってるんじゃない」
「そう! 赤ちゃんって抱っこしてるとほんとうに温かくて気持ちいいんだよね。
だから逢詩が寝付いたらそっとベッドに寝かせて、わたしも心地良くなってベッドの横で寝ちゃう。
わたしが抱っこしようか?」
祐風貴さんが抱き疲れたようだったので汐音が交代を促した。
「待って、わたしが抱っこする。早く顔を覚えてもらわないと」
そう言ってみのりちゃんが祐風貴さんから逢詩を抱き受けた。
「ほら、わたしの顔をじーっと見てる。みのりママでちゅよー」
「みのりママって覚えにくいんじゃない?」
「そうかなあ。汐音ちゃんは自分のことをなんて言ってるの」
「しーママ」
「しーママ⁉ それなんか語感が変じゃない。じゃあわたしはみーママ?」
「ね、ふたりともママが付いたらわたしと区別つけにくくない?」
「じゃあ祐風貴ママは大ママ」
「おーママ! いやよそんなの」
「ママは《ママ》、みのりちゃんは《みのねえちゃん》、汐音は《しおねえ》ではどう?」
私が横から余計な口出しをすると
「みのねえちゃん? なんかセンスないなあ」
「しおねえは如何なものかと思うよ。藤村さん、一応物書きなんだから気の利いたアイデア思いついてよ」
即座に却下された。
「パパとママはそのままで、あなたたちは自分で逢詩が覚えやすいような名前を考えてちょうだい。《きれいなみのりおねえちゃん》とか《かわいい汐音ねえちゃん》なんて修飾語はつけないように」
大ママ、じゃなかった、祐風貴ママからそう言い渡されて、この件はそれぞれが持ち帰って検討することとなった。
「ところでさあ、藤村さんはパパになってお母さんを『町田さん』から『祐風貴さん』と呼ぶようになったよね。どうしてお母さんは藤村さんが『藤村さん』のままなの?」
みのりちゃんが母親に質問した。どうやら以前から訊きたかったことのようだ。
「それは…… 言い慣れてるからよ。今さらパパとか丈彦さんとか言い替えづらいじゃない。あなたたちだってそうでしょう。汐音ちゃんも本来は《お父さん》とか《パパ》って呼ぶはずなのに、今もこれからもずっと藤村さんで通すはずよ。今日から《ダディ》って呼ぶ?」
「無理。藤村さんは藤村さん。別に呼び方変えたって父と娘の関係が変わるわけじゃないし。ねえダディ」
「《ダディ》はやめてくれ。いいよ藤村さんで。まあみんなが呼びやすい言い方で呼んでください」
「ほーらね。藤村さんは心が広~い人なの。だからこれからもわたしにとって藤村さんは藤村さん。ね、それでいいでしょ、みのねえちゃん」
「大ママがそれでいいならいいんじゃない。じゃあわたしも藤村さんで」
みんな大満足の食事が終わり、私と汐音が食器洗い、みのりちゃんはコーヒーを点てている。
私と祐風貴さんはコーヒーを飲んでも眠れなくなることはなく、むしろリラックス効果で寝つきが良くなるタイプだ。
汐音とみのりちゃんはカフェイン成分に無反応なので、どちらの家族も深夜コーヒーは日常的によくある。
もう十一時を過ぎているのに、今夜はおとなたち同様テンションが上がっているのか、逢詩の目は『まだこれからよ』と言わんばかりにぱっちり見開いている。
祐風貴ママは逢詩を寝かそうと家の中をおんぶして歩きまわり、リニーとハナちゃんが祐風貴さんの家屋内散歩に付き添って行った。
片付けがひと段落ついた頃、祐風貴ママがリヴィングにお供たちと戻ってきたが、逢詩はまだ寝ておらず、逆にママの背中から下りたがって自由に体を動かしたい様子だ。
ソファーに寝かせると手足をばたばたさせて何かしきりに声を出している。本人なりに何か意見を述べているのだろう。
「こりゃしばらく寝ないな」
「コーヒーを飲んだらわたしが抱っこしてあげる。そしたら一発よ」
と汐音が言うので、食後のコーヒータイムの間、そのままソファーに寝かせて自由にさせておくことにした。
「料理の感想はどうだった?」
みのりちゃんがみんなに訊いた。
「カレーの海鮮鍋にフグや鯛が入っていたのは驚いた! それに牡蠣やイクラまで。豪華版だね」
「あれはちょっと冒険だったかな。生臭くならないかと心配したけどそうでもなかったみたいだし。お母さんのアドバイスを聞いて良かった」
「白身魚を使ったのが正解だったわね」
そう祐風貴さんが言った。私が散歩から帰ってきたらキッチンが祐風貴さんも加わって三人体制になっていたのは、みのりちゃんが母親に意見を求めたからだったに違いない。
汐音とふたりではあの傑作鍋が完成していたかどうか……。やはり年長者の経験と知識がものを言うことも多々ある。
汐音もみのりちゃんも祐風貴さんや私から知識のいいとこ取りをして、これからの人生に活かしてほしい。
「ケーキ作りはプロ級だね! わたしの誕生日にも作ってくれる?」
「いいわよ。汐音ちゃんは五十センチくらいのホールじゃないと足りないよね」
「一メートルでもいいよ。作るのは得意じゃないけど食べるのは自信あるから。
あ、そうだ藤村さん、誕生プレゼント、開けてみたら?」
そうだった。私の生誕祭でみんなが贈ってくれたものの包みをまだ開いていなかった。
「いま開けてもいいの?」
すると祐風貴さんが
「どうぞ、ご遠慮なく」
と言いながら、ソファーの隅に置いていた三つのプレゼントを取って私に渡してくれた。
「えーと、これは」
「はい、わたし」
汐音が挙手をした。
「ありがとう。じゃあ開けさせていただきます」
自分で包装したらしいラッピングの紙をはがすと、中から高級ブランドの包装紙につつまれた箱が出てきた。
オレンジ色がカンパニー・カラーのそのブランド店に入ると、最初に陳列している小物類の値札の額が、すでに財布の中の手持ち現金を超えていることさえあるセレブ御用達の高級ブランド。
慎重に包装を取り、中の箱のふたを開けるとキーケースが入っていた。
三つのキーがホールドできるようになっている。さすがセンスの良さが引き立つデザインである。
「ありがとう。でもこれ高かったんじゃあ……」
「野暮なことは言わないの。鍵は三つ着けられるから、車と家と金庫の鍵をつけとくといいよ」
「あ、そうね。金庫はうちにはなかったと思うけど。でもありがとう」
そう言ってキーケースを箱に戻し、大事そうに脇に置いた。
次の箱を持ち上げると
「それはわたしでーす」
今度はみのりちゃんが軽く手を挙げた。
汐音と色違いで同じデザインのセルフ包装を開くと、またもやオレンジ色の包装。
汐音の時と同じように丁寧に包みをはがし、中の箱を取り出す。
中身は免許証などを入れるカードケースだった。全体が派手なオレンジ色で、誰が見てもあのブランドと一目でわかるもの。
買い物の際、内ポケットからこのカードケースを取り出すと、たまたま目に留まった人から『お!』『WOW』と無言の感嘆が聞こえてきそうな一品。
「どうもありがとう。大切に使わせていただきます」
「カードは二~三枚入れとくのがいいのよ。レンタルショップの券とか診察券とか図書券とか、なんでもかんでも入れると膨れ上がっちゃってかっこ悪いから」
「わかった。免許証とマイナンバーカード、それにあまり使わないけどクレジットカードを入れときます」
カードケースも箱に戻し、最後のプレゼントを取り上げた。
「それ、わたし」
祐風貴さんが高く手を挙げた。
やはり色違いで娘たちと同じ模様の包装紙でくるまれている。
包装を取ると、前のふたりと違いいきなり箱が出てきた。ブランド名やそれを思わせる表示や色合いは特にない、シンプルな外箱だ。
瞬間的に『指輪か?』と思った。
実は私も祐風貴さんもあまり装飾品を身に着けないので、これまで指輪やネックレス類をお互いにプレゼントをしたことがない。
前のふたりの時よりゆっくり静かにふたを持ち上げた。中に納まっていたのは自動車のスマートキーだった。
「これは……?」
「ほら、家族が増えたでしょ。だからちょっと大きめの車が必要かなと思って」
「車のキーですか⁉ 車がバースデープレゼントっ⁉」
「みんなが乗るから藤村さんだけってわけじゃないけど、でも主に藤村さん用です。
それにみのりが今の乗用車をあっちこっちぶつけてキズと凹みだらけだし」
「ちょっと待ってよ! わたしだけじゃないわよぶつけてるの。ね、汐音ちゃん」
「わたしに振るの? まあ、否定はしないけど」
「うわあ、なんて言えばいいか言葉がみつからない。いいんですかこんな大きなプレゼントもらって」
「だって藤村さんに汐音ちゃんにみのりにわたし、それから逢詩。みんなの命を守ってくれる頑丈な車が必要でしょ。それにあしるくん、アクアくん、リニーちゃん、マイルス、ハナまで乗れる車じゃないと、台風やなんかで避難することだってあるかもしれないから、大きな車は絶対に必要よ。なので家族のためでもあるの。遠慮なんかしないでください」
「わかりました。じゃあ遠慮なく使わせてもらいます。
これにはナビもバックモニターも付いているだろうから、初心者にも安心だ」
「このふたりはまだ今の車で充分よ。ねえ」
「充分じゃない!」
と汐音は即座に言い返したが、冷静なみのりちゃんは
「でも、今の車を練習用に運転できるからいいんじゃない」
「そうか。あのポンコツで慣れて、それから新車を攻略すればいいんだよね」
「とにかくみんな、ありがとう。大切に使わせてもらうし、みんなの温かい気持ちも心に刻みます」
どんな車がやって来るのかとか、またどこかへ車で旅行に出ようと、しばらく車の話で盛り上がった。
時計を見ると十二時を回っていたので
「じゃあそろそろお開きにして寝ましょうか」
と祐風貴さんが閉めの宣言を行った。
「逢詩ちゃーん、おねんねの時間でちゅよー。かわいい汐音おねえちゃんが抱っこちてあげまちゅねー」
「あなたわざとセリフをデフォルメしてるでしょ。普通に言って」
みのりちゃんから指摘されて汐音が言い直した。
「ほら、抱っこしてあげるからねんねしなさい」
汐音に抱かれるとなぜか逢詩は静かになり、ものの五分程度でうとうとしだす。
汐音の体温や抱き具合など、いろいろ眠気を誘う条件が重なって心地よいのだろう。
「今日はわたしが育児部屋に居るから、祐風貴ママはわたしの部屋で寝る?」
汐音が今夜の逢詩子守り担当を買って出た。
「そう? じゃあせっかくだから新居にお泊りしようかな」
「わたしの部屋じゃなくてもいいのよ。藤村さんの部屋もあるし」
「そうね。じゃあ今夜は藤村さんの部屋にお泊りしましょう。よろしいかしら?」
「い、いいですよ。だいたいお泊りとかそんなのは、夜中にこっそり訪れてドアをノックするのがよくあるシナリオだけど……」
「なによそれ。まるで夜這いじゃない」
「夜這いっ⁉ 汐音よくそんな言葉を知ってるな。
でもほら、雰囲気作りとかあるでしょーが。家族とは言えみんなに『今夜はお泊りです』とわざわざ喧伝するこっちゃない」
「いいじゃない別に。わたしもみのりちゃんも祐風貴ママもみんな大人よ。こそこそする方がおかしいわ。
藤村さんって変にロマンティストな時あるよね」
「いや、私はともかく祐風貴さんの手前……」
「わたしも平気よ。だってみのりも汐音ちゃんも、わたしたちが仲良くしていると嬉しいんじゃない」
「そうよ。だから藤村さんもお母さんもとっととあっちに行ってちょうだい。わたしはこれからこの大きなテレビで映画を視るんだから」
「はいはい。行きましょう藤村さん。ほら、恥ずかしがらずに」
そういって祐風貴さんが私の手を引いてリヴィングから連れ出そうとする。
「な、なに言ってんですか祐風貴さんまで」
女性三人を相手に男ひとりでは太刀打ちできない。
男と言えばアクアとマイルス君がいるが、彼らも女の子たちの気を惹こうと躍起である。
アクアはハナちゃんを、マイルス君はリニーとお近づきになりたい様子で、彼らも彼らなりに雰囲気づくりをしているのだろう。
夏ころにはボステリたちにベビー・ブームが到来しているかもしれない。
あしるはお姉ちゃん子なので、今夜は育児部屋で逢詩の様子を見つつ汐音とおやすみだ。
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