第二十八章 ハービーへの至急電
午前三時を過ぎた頃、はやぶさ君の携帯電話が鳴った。
鳴ったと言ってもバイブレーションの振動音だけだが、彼には誰の携帯のバイブ音か判別できる。
ディスプレイを見ると彼のニューヨークのマネージャーからだった。
「ふゎい もひもひ」
「おいハービー、おまえ何やらかしたんだっ⁉」
はやぶさ君はあちらで《HAYABUSA》を短縮して《HARBY》と呼ばれている。
「ホワット? ぼく何もしてないよ。風呂に入って神社にお参りに行っただけ」
「いまジョージ・フォーカスから電話があって、おまえに出演依頼があった」
「そのジョージなんとかさんって誰」
「おまえ知らないのか? レイジー・ママのマネージャー兼プロデューサーだよ。
とにかくジョージがあさって…… いやもうそっちじゃ明日か。明日と明後日のライヴに期待の新人として出てほしいんだとさ。一曲をソロで、あと一曲はデュオで歌ってほしいとオファーがあった」
「あの、それもしかしてレイジー・ママの、日本ツアーラストのTOKYOドーム・ライヴのこと?」
「そうだよ! やったなこのクソッタレ野郎め! 成り行きはジョージからだいたい聞いたけど、詳しいことはあとで直接聞かせてもらうから、とりあえずおまえはすぐにヒロシマへ行け。
ママたちは朝九時にヒロシマ・エアポートから離陸する自家用ジェットに、おまえを一緒に乗せて行きたいそうだ」
「今すぐ広島へ⁉ こっちは朝の三時だよ。いなかだからタクシーなんてないし、朝一のバスだか電車で行っても二~三時間はかかるから無理だよ」
「なんとかしろ! おまえのこれからの人生がかかってるんだぞ。オレの老後もな。
とにかくベッドから出てなにか方法を探すんだ。いいな! 今すぐ行動するんだぞ!」
「わかったよ、なんとかしてみる。
でもレコーディングはどうするの。スケジュールが……」
「そんなこたどうでもいい! オレがなんとかするから、おまえはとにかく動け。いいな、今からすぐにだぞ! 車に乗れたらメールで知らせてくれ。空港に着いたら電話しろよ。何かあった時もな」
「オーケー、それじゃあね」
はやぶさ君は布団から抜け出して、取り合えず顔を洗い、部屋を出て一階の自販機でコーヒーを買って飲みながら考えた。
知らない土地なので、どんな交通機関があってどれくらいの時間間隔で動いているのか全くわからない。
持っていた時刻表で調べると、一番列車に乗ったとしても九時の離陸には間に合いそうにない。
タクシーをひろって直行するのが確実なのだが、この時間にこんな山の中でタクシーが走っているわけがないし、タクシー会社も営業していないだろう。そもそもタクシー会社があるのかどうか……
どうしたものかとCPUをフル稼働していると、フロントの明かりが目に入った。
行ってみると受付には誰もいないが『御用の方はベルボタンを押してください』と印字されたプレートの横に黒いボタンが設置されていた。
はやぶさ君は一縷の望みにすがる思いでベルを鳴らした。
ベルの音は聞こえなかったが、中から当直の男性社員が出てきた。全体写真でカメラマン役を押し付けられた人だ。
「あの、夜分にすみません。今からタクシーを呼んでも来てくれないですよね」
「タクシーですか? なにか急用でございますか」
「ええ、あの、朝の九時までに広島空港まで行かなきゃならない用事ができちゃったもんで」
「広島空港までですか! ちょっと待ってくださいよ。今日は木曜の深夜だから呑み屋街はお客さんが少ないだろうな。
週末や休みの日の前だと、三時か四時くらいまではタクシーが待機してるんですけどね。平日は二時前後に仕事をあがることが多いんですよ。
ダメ元で配車センターに電話してみましょう」
フロント係が電話をかけるが、呼び出し音が繰り返されるだけで応答はない。
「やっぱり出ないですね。六時以降なら出社して来るんですが、朝は朝で予約やなんかで結構出払っていることが多いんですよ」
「そうですよねー 無茶ですよね今からすぐに空港に行けなんて」
「あ、ちょっと待てよ、留守電に切り替わってなかったな。
いま電話したタクシー会社、夜間は一人で配車係が手配しているんですが、時々トイレで席を外すことがあるんです。もしかしたらそれで出なかったのかもしれない。
もう一度かけてみましょう」
フロント係がリダイヤルボタンを押してリトライしてみた。すると今度は呼び出し音一回で相手が受信ボタンを押して応答した。
「やった、やっぱり出ましたよ! あ、いやこっちの話しです。
温千旅館ですが一台廻してもらえますか」
フロント係がスピーカーに切り替えてはやぶさ君にも聞こえるようにしてくれた。
「一台だけ貸車中で、お客さんが降車したらあがる予定なんですが、行き先はどこまでですか」
「広島空港です。九時の便に乗らなきゃならないので、なんとしても一時間前までには行きたいんです!」
はやぶさ君が横からシャウト気味に行き先を告げた。
「広島空港ですかあ。少し待っていただけますか、無線で訊いてみます」
保留に切り替わって《もしもし亀よ 亀さんよ》のメロディーが流れてきた。
「パロディーですかね、この選曲」
とフロント係の男性が微笑んではやぶさ君の気を紛らわそうとしてくれる。
「え? ああ、そうですね。安全運転ですってアピールじゃないですか」
はやぶさ君は気のない返事で返す。
「なるほどね。広島空港までなら結構な距離だから、きっと運転手さんも受けてくれますよ」
「そうですね」
保留が長く感じるがまだ三十秒くらいしかたっていない。
「もしもし、ああ、行けるそうです。今のお客さんを降ろしてから伺うので、あと三十分はみとってください」
「は! ありがとうございます! よろしくお願いします!」
はやぶさ君が大声で礼を言った。
電話を切り、フロント係とハイタッチをしてはやぶさ君は残りのコーヒーを飲み干し、準備をしに二階に上がっていった。
階段を上りきり、まっすぐの廊下を部屋に向かって歩き始めた。視覚感度を通常モードにしていたので暗さに目が順応していない。
ふと廊下の先を見ると髪の長い女性らしい影が立っていた。はやぶさ君へ向かっておいでおいでと手招きをしている。
「どわっっっ‼ でたあ!」
「なにが『出た』のよ。感度を上げなさい」
腰を抜かさんばかりに後ずさりしているはやぶさ君だが、聞き覚えのある声の言う通り光感度をアップすると、そこにいたのはみのりちゃんだった。
「な何してるんだよ! あーびっくりした。曰くありげな旅館だから幽霊かと思ったよ。
で、どうしたの、こんな時間に」
「今から広島空港まで行くんだって?」
「げ、どうして知ってるの⁉」
「そりゃあんなおっきな声で電話してたら、いやでも聞こえるわよ」
「そ、そうか。そうだよね。ごめんごめん。起こしちゃった?」
「本を読んでたから寝てはいなかったけど、でもわたし達の部屋には丸聞こえだったわ」
「汐音ちゃんやお母さんたちは? 起きちゃった?」
「汐音ちゃんは爆睡モードだし、母も藤村さんもお酒呑んでるから熟睡してる」
「そう、とりあえず良かった。
これからタクシーで広島空港まで行かなきゃならなくなったんだよ」
「何か悪いことがあったんじゃないの? 言えなかったら言わなくてもいいけど」
「別に口止めされてないから大丈夫だと思うけど、レイジー・ママの自家用機で一緒に東京に飛んで、土・日の彼女のライヴにゲスト出演することに急遽きまったらしいんだ」
「ほんと⁉ 凄いじゃない! じゃあ急いで用意しないと」
「部屋に戻ってみんなにも説明しなきゃいけないし、起こすのが大変だ」
「いいよ起こさなくても。わたしが明日の朝いちばんに理由をお話しするから、簡単なメモだけ書いてテーブルの上にでも置いておけばいいわ。ほら、早くはやくっ!」
旅支度と言ってもすでに旅に来ている訳で、ヘアドライヤーや洗面道具をバッグにしまうだけで準備は整った。
「あ、メモを書いとかないと。
えーと『急な仕事が決まったので先に出発します。はやぶさ』、よし!」
階下に下りてフロント係の男性に礼を言い、玄関を出た。するとみのりちゃんがどてらを羽織って待っていた。
「わざわざ見送りに出てきてくれたの?」
「一人っきりで出発するのはさすがにみじめで寂しいだろうと思って下りてきたの」
「ありがとう。みのりちゃんは言葉のキツさとは逆に優しいね」
「もうちょっと気の利いた褒め方あるんじゃない? まあいいけど。
はい、これ。出雲大社でいただいたお守り。帰る時に渡そうと思ってたけど、これをいつもカバンに入れておくと神様がついてくれてる気がするでしょ」
「うわっ、ありがとう。どこに行くにも肌身離さず持っていきます。
ぼくからは何もプレゼントするものはないけど、CDのサンプル盤ができたら真っ先にみのりちゃんに贈るからね。サイン入りで」
「ああ、ありがとう。忙しくなりそうだから、時間があればエネルギー補給するのよ」
「わかった。アンドロイドと言えども《腹が減っては戦ができぬ》だからね」
と言って無邪気に微笑んだ。
実はみのりちゃんは、このはやぶさ君のあどけない笑顔がたまらなく好きなのだ。
道路の先でヘッドライトの筋がチラチラ見え始めた。タクシーが到着したようだ。
白色にグリーンのラインをあしらったタクシーは玄関前で止まり、オートドアが開いた。
「じゃあお先に」
「気を付けて行くのよ。レイジー・ママさんにみんなが『ありがとう』と言っていたと伝えてね」
「うん、わかった」
そう言ってはやぶさ君がみのりちゃんをじっと見つめている。
「どうしたの、早く乗りなさいよ」
「いや、こんなシチュエーションの時は見つめあったあとハグしてキス……」
「いいから乗りなさい、運転手さんが待ってるでしょ!」
「あー、ごゆっくりどうぞ。広島空港までなら充分間に合うから」
運転手さんが気を使って別れを惜しむカップルに声をかけてくれた。
「すいません。そんなんじゃないんです。この人CPUがいつも小春日和なんで妄想が激しいんです」
はやぶさ君が名残惜しそうにみのりちゃんの手を握って
「行ってきます。ありがとう」
と、内気な彼としては精いっぱいの愛情表現をして後部座席に乗り込んだ。
「もういいの?」
運転手が訊ねたので
「はい」
とはやぶさ君が答えた。
ドアが閉まり運転手がサイドブレーキを外してギアを入れようとした瞬間、みのりちゃんが車の窓を叩いた。動きかけた車が停車し、はやぶさ君が窓を開けた。
「どうしたの? 何か言い忘れた?」
訊ねるはやぶさ君の両頬を両の掌にはさんで固定し、みのりちゃんがはやぶさ君の唇に自分の唇を重ねた。ほんの0・5秒ほどの瞬間的口づけだったが、はやぶさ君はフリーズしたようだ。
「もういいです。出してください。ご安全に!」
みのりちゃんの出発進行の合図で今度は本当にタクシーが動き出した。
開けたままの窓からはやぶさ君は、フリーズ顔のまま自動追尾装置で追うようにみのりちゃんの方向へ首だけ動かしているが、タクシーはかまわず速度を上げながら去って行った。
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