第八章 汐音のお出掛け/予想外の来客

 みのりちゃんと映画に行く約束をした月曜日。

 汐音は早くから起き出して、化粧や着ていく服のコーディネートに余念がない。洋服箪笥に付属している鏡に自分の姿を映して、お出かけ用の衣装をとっかえひっかえ、次々に試し着していた。

 大きめのドレッサーが必要だなー、と漠然と考えながら私はキッチンのテーブルで朝のコーヒーを飲んでいる。

 それにしてもだ、服を着替える間は下着だけの姿になるので目のやり場に困る。

 汐音の無頓着な一面であり、普段も平気で私の存在など気にせず着替えたりする。

 「年頃の女の子は男性の前で下着姿のまま着替えたりウロウロしたりしませんっ!」

 と一度ならず注意をしたことがあるが

 「父娘なんだからいいじゃない、別に」

 とまったく気にする様子はない。

 娘を持つ知り合いの男性に聞いてみると、やはり同じような状況はあるらしい。

 そんなものかと納得するが、生まれた時からずっと同じ屋根の下で暮らしてきた娘と、三か月前に立派なおとなの女の姿で現れた娘ではかなり事情が異なる。

 私にとっては《ヴィーナスの誕生》が現実に起きたようなものだ。

 別に娘を男目線で見ているわけではないし、妙な気分などには毛頭ならないが、女性の下着姿自体がオトコに邪念を催させる効果があるのは事実。

 これはもう慣れるしかない。私のオトコの部分に湧き上がる劣情を無理に振り払う。


 時計が午前十時を告げると

 「やばい! 遅れちゃうおくれちゃう。いってきまーす」

 と言いながら慌てて出て行った。

 ベランダに立って駅へ急ぐ汐音を見送る。何度もバッグの中を見て忘れ物がないかを確認しているようだ。

 友達と映画を観に行くくらいで別に心配する必要はないのだろうが、姿が見えなくなるまで見届け、心の中で無事を祈っている。これが親心なのだろう。



 汐音が出ていくと部屋の中ががらんとして妙に広く感じる。彼女が来て以来、私が在宅中はいつもふたりなので、久しぶりのホーム・アローンは漫然と寂しい。

 さて昼飯はどうするか、午後は何をしようか、晩飯は? と色々考える。

 汐音たちは映画を観てショッピングをした後に、汐音の歓迎会で町田さんたちと行った居酒屋に寄って夕食もとってくるとのこと。あの店の味と雰囲気が気に入ったんだそうだ。


 このままひとりで家に居ても時間の経つのが長く感じそうなので、効率よく暇をつぶせるショッピングモールへ直行バスに乗って向かうことにする。

 レストランに入り、メニューを見てさんざん迷った挙句、結局いつもの《チーズハンバーグの洋食セット》を注文。

 食後は書店、CDショップなどを覗く。売れ残った希少本や希少盤がないか探索。

 一通り見てまわったところで、ちょうど三時を知らせる館内時計の鐘の音が聞えた。

 目の前のカフェに入り一息入れた後、帰ることにする。


 それにしてもひとり歩きのなんと退屈なことか。

 私は一人っ子なので子どもの頃から一人遊びが得意である。

 物心がついてからも友達と遊ぶより、家でひとり、ラジオを聞いていることの方が多かった。

 大人になって以降も、仕事や付き合い以外で誰かと酒席を共にしたり、レクリエーションやイベントに参加することは皆無である。

 とにかく無理に誰かと一緒に行動をするのが面倒くさいのだ。

 ところが汐音の降臨以降、仕事以外で外出する際はかならず彼女と一緒であり、彼女が初めて見る建物や物に対してみせる反応と質問が、私にとっては見慣れた風景を汐音の目線から改めて見直すこととなり、私自身が新たな発見をする機会も増えた。

 今ではどこに行くにも汐音が横を歩き、彼女の声が聞えていないと街並みが殺風景に見えてしまう。

 きっと今ごろはショッピングをしながら、みのりちゃんを質問攻めに合せているのかもしれない。


 今日はずっと汐音の事しか考えていないことに気付き、自分自身に失笑した。

 再びバスに乗り街に戻ってきた。最後にいつものスーパーでおかずの食材を買って帰ろう。



平日の夕方なので店内は主婦や主夫、連れられてきた子供らで賑わっていた。

 入り口でショッピングカートを借り、生鮮野菜から精肉、鮮魚、総菜と一通り見て回り、鮮魚部に戻って刺身を物色する。

 サバ、〆サバ、フグ、フグチャンポンと好物が並んでおり、その中からサバとフグチャンポンを取り上げてカートに入れた。

 ふと刺身パックが並んでいる横を見ると《カツオまるごと一本(タタキに)六九八〇円》と書かれた札があり、下にカツオの本体が横たわっていた。

 汐音のカツオの一本買い騒動を思い出し、口を開けずに思い出し笑いをしていると、隣で

 「ぷっ」

 と吹きだす声が聞えた。見ると町田さんが口を押さえて笑いを堪えている。

 「町田さんっ!」

 「あら! 汐音ちゃんのおとうさん」

 「どうしたんですか? なんでこんな所に」

 「見ての通りお夕食の買い物をしてるんですよ。このカツオを見てたら、みのりから聞いた汐音ちゃんの一本丸ごと買いのエピソードを思い出したの。

 汐音ちゃんがカツオを持ってレジに並んでいる情景が浮かんじゃって、思わず吹き出しちゃった」

 町田さんも私と同じツボで笑っていたらしい。

 それにしても、なんで町田さんが自宅からこんなに離れたスーパーで夕食の買い物をしているのだろう。

 「さっき電話したけど、お出にならなかったわね」

 「え、携帯にですか?」

 「そうよ。一時間くらい前に」

 あわてて着信履歴を調べようとするが、ポケットを探っても携帯電話の感触がない。どうやら持ってくるのを忘れたらしい。

 「家に置き忘れてきたみたいです。午後はずっと歩きまわっていたので気がつきませんでした。何かご用だったんですか」

 「今日はほら、みのりも汐音ちゃんもいないでしょ。ごはんも食べてくるみたいだし。

 だから『晩ごはんどうしようかなー』て言ったの。そしたらみのりが『汐音ちゃんのおとうさんも今日はひとりだから、食材を持って行って、一緒に夕ご飯を作って食べればいいじゃない』って言ったの。

 それもいいわねって思ったから、お買い物して藤村さんのお宅にお邪魔してお料理します、って言うご連絡だったんです。

 でも電話にお出にならないから、汐音ちゃんにかけてみたら『多分、本屋さんかレコード屋さんに行っていると思う。夕方には帰ってきます』とのことだったんで、取りあえず先にお買い物して、その後もう一度電話して出なければそのまま伺っちゃおう、と。

 そしたらこのカツオが藤村さんに引き合わせてくれたわけ」

 それだけ言いうとあのはにわ目でにっこり微笑んだ。

 「え、うちへ来ていただけるんですか⁉ 独身貴族の巣窟へ町田さん単身直々に?」

 「あらあ、久しぶりに聞いたわ『独身貴族』! でもお邪魔じゃありません? 今夜はご予定がおありなじゃないの?」

 「いやいやいや、予定なんてありません。あったとしても全部キャンセルです! もう喜んでお迎えいたします。今夜は刺身パックと弁当で済ます予定だったのに、こんなステキな展開になるなんて」

 「じゃあその独身貴族の巣窟に連れてってくださいな。その前におかずの材料を探さなくちゃ。何か食べたい物はお有りになる?」

 「いえ、町田さんが選ぶものならなんでもいただきます。役には立たないと思うけど、調理は私も手伝います」

 「あら良かった。料理が早く出来ればたくさんお話しができるものね」



 食材は簡単に調理できる物、皿に盛るだけの出来あいが中心になった。

 冷凍フライドチキン、刺身のパック、温めるだけのビーフシチュー。そして帰り際に漂ってきた、香ばしい香りに釣られて買った、いつもスーパーの駐車場に小屋みたいな店舗を構えて営業している、意外といい味と評判の焼き鳥屋の串物五種類をそれぞれ二本ずつ。

 帰宅してさっそく調理に取りかかる。調理と言っても冷凍食品をチンするくらいで、あとは袋やパックから出して盛り付けるだけだ。

 皿をテーブルに並べ、ふたりとも椅子に落ち着いた。

 冷蔵庫で冷えていた缶ビールを出して、リングプルを開けコップには注がずそのまま乾杯。ささやかな呑み会が始まった。


 ふたりの共通の話題と言えば、当然ながらそれぞれの娘のこと。

 みのりちゃんが料理の時に見せる求道者的探究心を感心しつつ、それでいてどこか滑稽に見える姿を面白おかしく描写して聞かせてくれる町田さんの話しに悶絶寸前となって笑い転げた。

 汐音についてはみのりちゃんほどエピソードがないものの、そそっかしい性格や、私の前で気にすることなく下着姿になって着替える習慣などを披露する。

 「誰の前でも構わず着替えると言う訳じゃなくて、家族なら恥ずかしいって思うことの方がおかしいと彼女自身は考えているみたいです。恥ずかしがっているのは私の方なんですけどね。

 でも彼女が家にやってきたことで、この部屋がずい分賑やかになりました。

 以前は仕事のない日は一日中この部屋にいて、音楽を聴いたり映像ソフトを鑑賞することで充分楽しかった。

 ひとりで過ごすのが当たり前の毎日だったのに、今では汐音が、在宅中はもちろん外出する時も仕事関係以外はほとんど一緒なので、今日みたいに汐音がいないとこの部屋がとても空虚に感じられて……。

 だから今日はその空虚感を紛らわすために、特に目的もなくショッピングモールをほっつき歩いていたんです。

 実は今朝、汐音が外出して以降、ずーっと彼女のことを考えていたんですよ。

 みのりちゃんが一緒だから大丈夫なんだろうけれど、それでも心配で」

 「初めてのお子さんなんですよね。だったら当然ですよ。亡くなった主人も結菜が小学生になって友達の家に遊びに行ったりするともう心配で心配で、夕方になると玄関の前でうろうろしてましたわ」

 そうだった。町田さんは未亡人なのだ。

 私と同世代なのにこの華凜さと誰からも好かれそうな相手との接し方。十代二十代の頃はきっとまわりの男性達から注目されたことだろう。

 私も先日の居酒屋以来、町田さんがちょっと気になる存在になっている。

 今は誰か特定の相手がいるのだろうか。わざわざ拙宅まで料理を作りに来てくれるのは、もしかすると私に好意を持っているから?

 町田さんの話し声を聞きながら、ビールを呑んだ勢いもあって希望的妄想を展開していると、携帯電話のコールが鳴り出した。汐音からだ。

 「もしもし藤村さん? あたし! あのね、いま二次会でカラオケに来てるの。あ、もちろんみのりちゃんとふたりよ。だからもうちょっとして帰ります。心配しなくていいよ。 じゃあねっ!」

 言うだけ言って電話は切れた。

 「汐音からです。ふたりでカラオケに来てるからもう少しして帰ります、だそうです」

 「わたしにもみのりからメールが届いてました。『汐音ちゃんとカラオケに来てます。ちょっと遅くなるかも。タクシーで帰ります。ごゆっくり♥』ですって。何か勘違いしてるわね、あの子」

 勘違い? ♥が? やっぱり私の思い過ごしか。まあ世の中そんなにうまくいかんよね。

 恋の駆け引きをしなくても良くなったので、逆に気持ちが楽になった。口も軽くなり会話が弾みだす。


 「それで、ジャズの評論家ってどんなことをするお仕事なんですの?」

 食事が終わってリヴィングでコーヒーを飲みながら町田さんが訊ねてきた。

 「ジャズ雑誌にCDやレコードの寸評を書くことが多いですね。あとはアルバムの中に入っているライナーノーツの原稿とか、たまにジャズ番組への出演など。以前はライヴの司会もやってましたが今は皆無です」

 「まあ、クリエイティヴなご職業」

 「でも最近はジャズへの関心が薄れて、出版関係や音楽・映像ソフトのマーケットが縮小しているんです。

 元々マニアックなジャンルなのに、少子高齢化でそのマニア自体が少なくなっているから仕方ないですが。

 数年前に老舗のジャズ専門雑誌が休刊に追い込まれて、CD売上げの減少に拍車がかかってしまいました。正に負の連鎖ですね」

 「そうなんですの。でもわたしはジャズって好きよ。雰囲気とか非妥協的なところとか」

 「お聴きになるんですか」

 「たまーにね。ローランド・カークとか」

 ローランド・カークっ⁉ 町田さんの口からこのジャズマンの名前を聞くとは想像だにしなかった。


 普通の音楽ファンならオスカー・ピーターソンやマイルス・デイヴィス、それにせいぜいビル・エヴァンスの名前くらいは知っているだろう。彼らの音楽うんぬんではなくただ名前を聞いたことがある程度に。

 ローランド・カークは盲目のマルチ・リード奏者で、同時に3~4本の楽器をくわえて演奏する稀有な演奏スタイルを持つジャズマンだ。

 ジャズ・ファンの間では好き嫌いが別れるミュージシャンだが、音楽性はわりとオーソドックスである。


 「ろ、ローランド・カークを聴くんですか?」

 「そうよ。実はわたし、ジャズ・マニアなんです……なんて、うそうそ! 主人の遺品にあったんですよ、ローランドさんのレコードが。

 亡くなって一周忌が終わった時に彼の遺品整理をしたんです。

 大学の講師をしていた関係でお仕事関連の本をたくさん持っていたのね。今もコレクションはとってあるんだけど、その書棚の一角にレコードのブロックがあったの。100枚くらい入っててほとんどクラシックだったかな。

 彼は家で授業の準備をする時、ひとりで書斎に籠ってたのね。籠っている間中ずっとレコードをかけていたの。

 わたしは興味がなかったのもあるけれど、彼がどんなレコードを持っていたのか知らなかったし、聴いたこともなかったのね。

 だから遺品整理で見つけたレコードを、その日から毎日一枚ずつ聴いていったんです。彼がどんな音楽を聴きながら資料整理をしていたんだろうと思って。

ベートーヴェンやモーツァルトのレコードには知っている曲が多いから、今もたまに聴くことがあるけど、シェーンベルクやバルトークはわたしには敷居が高くて、聴いたのはその時一回限り。

 ひとりレコード観賞会を始めて一か月目くらいだったかな。

 その日聴くレコードを取り出してジャケットを見たの。そしたら〝DOMINO*ROLAND KIRK〟って大きく書かれてて、それがローランドさんとの出会い。

 すごく奇抜な演奏をされる方だって、あとで聞いてわかったんだけど、でもわたしにはとても新鮮な演奏に聴こえたのね。それ以来、思い出したら取り出して聴いてます。

 CDに切り替えて聴く頻度が多くなったかな」

 「へえ。じゃあご主人さんは音楽好きだったんですね」

 「好きでレコードをかけていたのかはわからないけど、とにかく音がしてないと寂しかったみたい。

 視もしないのにテレビをつけっぱなしにしたり、寝る時も聞こえるか聞こえないかわからないくらい小さな音で、ラジオのスイッチを入れっぱなしにしてたり……レコードもその延長だったのかも。

 あ、いま思い出したんだけど、クラシックのレコードは新品みたいに盤がきれいだったのね。バルトークなんか鏡みたいに顔が映るくらい。

 でもローランドさんのは針を下ろすとチリチリプチプチと雑音が多くて、盤もちょっと白っぽい感じで使用感があったの。だからあのレコードは好きでよく聴いていたんじゃないかなーって思ったわ」

 朧気ながら町田さんのご主人が私の中で実体化してきた。

 表情はまだ見えてこないが、和服姿で眼鏡をかけており、書斎で歩きまわる姿やレコードに針を置く仕草が想像できる。

 私とそんなに年齢が離れているとは思えないが、『書斎に籠る』と言う表現から、どこか文豪のようなイメージがあるのだろう。

 「ご主人さんとは大恋愛の末に結ばれたんでしょうね、きっと」

 「それがね、恋愛期間なんてほとんどなかったのよ。

 元々は近所に住んでいた知り合いの家のおにいちゃんで、時々勉強を見てもらっていたんだけど、彼が中学生の時に引っ越しちゃったの。

 それから十年くらいして友達と北海道へ卒業旅行に行ったのね。函館山の展望台で夜景を観ていたら声をかけてくる男性がいたの。

 ナンパだろうと思って無視したら『あの、中賀井さんの娘さんですよね』ってわたしの苗字で呼ぶじゃない。あ、わたし旧姓は中賀井っていいます。

 それでびっくりして振り返ったら、引っ越して行った近所のあのおにいちゃんだったの。

 わたしも向こうも十歳ずつ年をとっているのに、どっちもほとんど顔が変わってなくて、だから彼はわたしを見てすぐ気がついたし、わたしも彼ってすぐわかったわ」

 「へー、それって運命的出逢いですよね」

 「そうなのかな。わたしは単なる偶然って思ったんだけど、彼はそれこそ運命を感じたみたいで『これは偶然じゃなくて必然だ』なんて真顔で言ってたわ。

 その時はお互いの住所と電話番号を教え合って別れたんだけど、彼がその時住んでいたのはわたしの町の隣の市だったのね。

 距離も近かったから、旅行から帰って三回、ドライブや食事に行って、その三回目の食事の帰りに車の中で『結婚を前提に付き合おう』ってぶっきらぼうに言われたの。

 それが実はプロポーズだったって結婚したあと気付いたわ」

 「その時、まさかそれがプロポーズとは夢にも思わなかった町田さんはなんて返事をしたんですか」

 「あ、はい」

 「それだけ⁉」

 「そう。彼ね、とっても美男子だったのよ。でも口下手で女の子と付き合うのは苦手だったみたい。そんな人から『付き合おう』って言われたら、そりゃあ女なら悪い気はしないわ。

 それから三か月して結婚したの」

 話していて当時の情景を思い出しているのか、町田さんは遠い目をしてテーブルの先にあるコンセントの辺りを見つめている。

 町田さんは思い出、私は想像に浸り、二人とも無言となって時計の秒針だけが小さな音を打ち出している。

 姿勢を変えるために私が身体を動かしたのをきっかけに、町田さんの視点が今のこの部屋に戻ってきた。

 「評論のほかになにか文書をお書きになってるの?」

 「そうですね。昔は仕事を選べたんですが、今はそんな贅沢は言えないのでCDのコピーや広告文も引き受けています」

 「そうなのね。ちゃんとした文書が書ける人って憧れます。わたしには無理だから」

 「そんなことないですよ。思ったことや感じたことを普段しゃべる言葉と同じ感覚で文字にすればいいんです」

 「でもわたし、年賀状を一枚書くのも三十分くらいかかっちゃうんですよ。あんな小さい紙なのに」

 「書こうって力んじゃうとなかなか言葉が出てこないんですよね。

 誰かに話して聞かせるような、知っている相手と会話しているような気持ちで紙に向かうと勝手にペンが動いてくれます」

 「そうなんだ。わたし、日記は書かないしメールも必要最小限なのね。やっぱり苦手意識があるから文字から遠ざかっちゃうのかな。

 でも今のアドバイスを聞いたら、紙の前でペンを持つとわたしにも文書の神が降りてきそうな気がする。紙だけに……なんちゃって!」

 そう言っておどける町田さんの悪戯っぽい笑顔が眩しい。この人と話していると本当に幸せな気持ちになれる。

 幸せに浸りつつ、私の部屋のデスクに置いた携帯電話に目をやると、着信を知らせるライトが点滅していた。

 「ちょっとごめんなさい」

 と言って着信履歴を確認しにいくと、御茶水氏からメールが届いていた。

 内容は『明日改めてお電話します』だった。

 履歴を遡っていくと、今日の十三時〇五分に御茶水氏から電話の着信記録が残っていた。思い当たる用件がないので何か急な用事だったのだろうか。

 ソファーに戻り町田さんに

 「御茶水さんからメールが届いていました。昼に電話をいただいていたみたいで、明日またかけてくるそうです」

 そう言って携帯電話をテーブルに置きかけると町田さんが

 「忘れてたっ! わたしにも御茶水さんから電話があったんです。

 藤村さんにもかけたけど出られなかったっておっしゃったんで、これから藤村さんのお宅に伺うから、電話があったことをお伝えしておきますって言ってたんだけど、わたしすっかり忘れてた」

 「町田さんにもお電話があったんですか。どんなご用件だったのかな」

 「それがね、みのりたちのことでご提案したいことがあって、できるだけ早いうちにみのりとふたりでアンドロイド・ラボに来ていただけないでしょうかって」

 「そうなんですね。じゃあ私にも同じ要件だったんでしょう。なにか重要なことなのかな」

 「話が込み入っているので、詳しいことは来ていただいた時にご説明します、っておっしゃってたわ」

 「そうですか。私も明日電話をかけて訊いてみます。町田さんはいつ行かれるんですか?」

 「それがね、アンドロイド・ラボからアンドロイドを迎えたご家族にまとめて説明したいらしいの。

 五家族いらっしゃるそうなんだけど、わたしはみのりの予定を聞いて、明日こちらの都合の良い日をお伝えしようと思っています」

 「だったら私も町田さんに合わせます。仕事のスケジュールはなんとでもなるし、汐音にも今夜確認しますが、恐らく大丈夫でしょう」

 「じゃあ明日、朝一番で日にちのご連絡をメールに入れときますね。

 さ、それじゃそろそろお暇しないと」

 時計を見ると十時を過ぎていた。

 「こんなむさ苦しい部屋に来ていただいてありがとうございました。とても楽しい時間が過ごせました。

 何もお構いできませんが、うちでよろしければまた遊びに来てください。みのりちゃんもぜひご一緒に」

 「ありがとうございます。わたしもとっても楽しかったわ。

 なんだかすごく居心地が良くて。長いこと居座っちゃってごめんなさい。

 藤村さんもわたしの所に遊びにいらしてね。大したおもてなしはできないけど、みのりの料理を試食できますわ」

 またまた町田さんがあの笑顔を見せてくれた。

 こちらの心も身体も融かしてしまう魅力的、いや魔力的効果がある。

 やっぱり私にちょっとは好意を持ってい……ないだろうな。


 駅までゆっくり歩いて見送った。久しぶりに味わったデート気分が、温かいお風呂のように心地よい。

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