第七章 新しい日常生活

 汐音が家へ来て三週間。そろそろ私も家族のいる生活に慣れてきた。

 彼女はと言うと、二日目から違和感なく2LDKのマンション住まいを楽しんでいるようだ。私が仕事用に使っていた部屋を彼女のプライヴェート・ルームに充てている。

 まだ私物は少ないが、毎日、本や音楽・映像ソフト、衣料品など一~二品ずつくらいはコレクションが増えている。

 オープンな性格らしく、自室のドアはいつも開け放たれている。

 私の部屋も特に隠し立てする必要はないので同じく開いたまま。私の蔵書やCDを汐音が掘り返していることもよくある。彼女にとっては目にするもの手にするもの触るもの、全てが興味の対象となっているらしい。

 町田家との交流も初対面以来、続いている。

 みのりちゃんが私のマンションに来訪したり、汐音が町田家を伺ったりと、交互に往来をしているようだ。町田家とは電車で二駅の距離である。

 汐音が単独で行動する時間も少しずつ増えてきた。

 昼間、ひとりで近所の散歩に出かけるのは問題ない。保護者としては心配ではあるが。

 しかし人混みの中を歩くことは避けているらしい。自分に向って歩いてくる沢山の人をどうやってかわしながら前進していくかのノウハウをまだ体得していないのだ。

 近いうちに休日午後の、天神のスクランブル交差点に連れて行って、何度か渡り往復をして練習させてみよう。

 買い物は二日に一度、私のいる時間帯にふたりで近くのスーパーに行くことにしているが、今日は汐音が初めてひとりで行くことになった。

 急な仕事の依頼が入り、簡単な原稿を二時間ほどで書き上げなければならない。

 以前なら面倒くさくて断っていたやっつけ仕事だが、家族ができたのと幾ばくかの財産を残してやりたい思いから、最近はほとんどの仕事を拒まず受けている。

 汐音自身もひとりで買い物をしてみたいとのことなので、ちょっと不安ではあるが彼女の適応力を信じて行って来てもらうことにした。

 とりあえず一万円を持たせておけば、まあ足りないことはないだろう。

 出て行き際に、何か食べたいものはないかと訊かれたので

 「今日は焼肉が食べたいかな」

 と答えた。

 「焼肉ね。ほかには?」

 「あ、ツナ缶も買っといて」

 「はい、ツナ缶ね。じゃあ行ってきまあす」と足取り軽く出ていく彼女。


 小一時間ほどして汐音が戻ってきた。片手に重そうな箱を抱え、肩には目いっぱい膨らんだショッピングバッグを掛けている。

 「あれ、荷物が届いてた?」

 「あ、この箱? これはツナ缶」

 「ツナ缶⁉ まさか箱ごと買ってきたの?」

 「そうよ。いくついるのか判らなかったから一箱買ってきちゃった。腐らないしね」

 と平気な顔をして彼女は言った。

 私も『一缶でいい』とは言わなかったし、まあうちはツナ缶の需要は多いから、これくらいなら買い置きしておいてもいいだろう。非常食にもなるし。

 「そのバッグの中にもたくさん入っていそうだね」

 と訊ねると

 「藤村さんのお肉とわたしのおかずよ。おつりが出ないようにしたの。全部で九八八〇円だった」

 「ああそう…… で、汐音は自分のおかず、何を買ってきたの?」

 「わたし、カツオのタタキが食べたかったからカツオを一本買ってきたの」

 「カツオを一本⁉ まるごと一本? 一パックじゃなくて」

 「そうよ。藤村さんの分も作るからね」

 「ああ、あ、ありがとう。でもさ、ふたりで一本は多くないか?」

 「そう? わたしが残さないように食べるから心配しないで」

 私の満腹量と汐音の満腹量はかなり違うらしい。

 彼女がテーブルに置いたバッグの中を恐るおそる見てみると、焼肉用の肉は五パックも入っている。私には一パックでも多いのに一体どうするのだこの大量の肉。

 途方に暮れた私の顔を見て汐音が言った。

 「お肉もわたしが残らないようにいただくから気にしないで」

 「気にしないでって言っても……そんなに食べてお腹は大丈夫なの?『過ぎたるは及ばざるが如し』って諺もあるし」

 「これくらいなら全然問題ないっ! でも今度からちょっと量を減らすね」

 と笑顔で言った。

汐音の初めてのお買い物で私が悟ったのは、アンドロイドがいくら人間より知識や記憶力で優れていると言っても、《適量》といった心のさじ加減は生活の中で教えてあげなければいけないこと。

 汐音にとっては今日の経験から『過ぎたるは及ばざるが如し』の意味と使い方を学んだ。



 ふたりともお腹がパンパンになったその日の夕食後、汐音の携帯電話にみのりちゃんから電話がかかってきた。

 「みのりちゃん? 汐音ですこんばんは」

 「……」

 「月曜日? 今のところ何も予定はないよ」

 「……」

 「映画?」

 「……」

 「ちょっと待って、藤村さんに聞いてみるね」

 汐音が私に向きなおって

 「ね、今度の月曜日にみのりちゃんと映画を観に行ってもいい?」

 「映画? どこの映画館に?」

 「ちょっと待って。みのりちゃん、映画館はどこ?」

 「……」

 「あ、あそこね。またちょっと待って。駅ビルの中だって」

 ちょっと迷ったが、まあみのりちゃんと一緒だし、平日の映画館なら観客はそれほど多くはないだろう。

 「いいよ。行っといで」

 「いいって! なんて言う映画?」

 「……」

 「わかった。『大ハード1』から『大ハード5』まで一挙五作品のリバイバル上映ね!

 じゃあ待ち合わせ場所とかメールしてね。楽しみにしてる。

 あ、それからね、今日ひとりでおかずを買いに行ったの。ふたりしかいないのに肉を五パック、カツオをまるごと一本、それにツナ缶を一箱も買っちゃった。

 無理して食べたから藤村さんもわたしもお腹が破裂しそう! そう言うのって『過ぎたるは及ばざるが如し』って言うんだよ」

 自分の失敗談を自慢げにみのりちゃんへ聞かせている。

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