第15話  ナチ 5



 理科の補習は職員室だった。


 

 夏休み中だからかそれぞれの準備室にいるのか、職員室にいるセンセーの数は少なかった。だいたいの机に人がいない。


 「ナチはなんか昼飯は持ってるのか?」。タナカに訊かれて「持ってないよ」と答える。


 「じゃあ、嫁さんが作ったおにぎりをひとつ分けてやる」


 鞄から取り出すときにタナカはなにか仰々ぎょうぎょうしい動作をして、昼食用のおにぎりをひとつくれた。


 「センセーありがとう」


 両方の手のひらで受け取ったそのおにぎりは、コンビニエンスストアで売っているものよりもかなり大きくて、すこし歪な三角形。


 席はカシワギの隣を借りた。


 他学年のセンセーの机だったけど「今日は出張しているからいないよ」、とカシワギ。

 カシワギの隣で、しかも職員室で食べるお昼はなんだか特別な気分になる。


 机の一番下の引き出しから、かわいらしい動物のキャラクターがプリントされているランチクロスに包まれたお弁当を取り出したカシワギ。お弁当の蓋を開けると、から揚げ、小さなハンバーグ、ミニトマト、玉子焼き、ブロッコリーなどが見映えよく詰められていた。色合いをバランスよく見せた手作りのお弁当だった。


 「これ、センセーがつくったの?」


 「んー、詰めるのはね」


 どことなく曖昧な返事をしながら、お弁当箱の蓋を裏返す。その上に、玉子焼きとから揚げとブロッコリーをペンギンのピックで載せてくれた。


 「はい、おかずをあげるよ」


 「……ありがとう」


 タナカは目の前に座り、新聞を読みながらおにぎりをかじる。

 カシワギはときどきスマートフォンを覗いている。

 その指で持つ箸の動きがとても正確できれいだった。


 「ん?」


 視線に気づかれたことを誤魔化すために、ペンギンのピックで刺したきつね色のから揚げを素早く口に運ぶ。


 「……センセー、から揚げ美味しいね」


 「でしょ?」


 どこか嬉しそうに上がった唇。


 さっきまでの特別な気持ちは、すでにしぼんでしまっていた。


 ソフトクリームを持っていた手を横にして、買ってもらったばかりのそれを、水たまりの泥の中に滑らせて落としてしまったときのようだった。甘くて美味しそうだったソフトクリームは泥水に混じって溶けて、汚れて消えてゆく。拾い上げることさえできないまま。幼いわたしは見ていることしかできなかった。


 昼食を食べ終わったあとの補習は、一時間もしないで終わった。


 雨が上がったからだ。


 もっと降っていればいいのに。もう少し時間をくれてもいいのに。



 施錠をするからというカシワギと一緒に昇降口まで歩く。あれほど薄暗かった廊下も今は明るい。

 カシワギは歩きながら窓を開けてゆく。の光は裏の二号館の窓にあたって眩しく反射していた。


 開けた窓からは再び鳴き始めた、うるさいほどの蝉の声が入ってくる。


 「蝉時雨だね……ナチは来年は文系選択? それとも理系?」


 窓の外を眺めてゆっくりと歩きながら、思い出したかのようにカシワギが訊く。


 「文系かな。だって数学がムリだもん」


 そんな横顔を眺めて答える。


 「そっか。理系は物理も化学もあるしなぁ。数学が好きじゃないと厳しいかもな」


 「センセーは理系のクラスを担当するの?」


 「どうだろう? 人事のことはわかんないけど」


 「センセーが物理を教えてくれるなら、理系にしようかなぁ」


 「なんだよそれ。真面目に選べよ。単位が取れないと留年だよ」


 やわらかく笑う。

 冗談のようにも、諭すようにも取れる。


 数学とか難しい計算ができる人なんて宇宙人と同じだけど、カシワギが教えてくれるなら勉強してもいい。


 「センセーがまた補習してよ」


 「今日は特別。ナチだけじゃ不公平だろ」


 公平なんか誰も求めていないよ。みんな特別になりたいんだから。


 「また……ピアノが聴きたいな」


 あのときの音の色を思い出す。カシワギの指がなぞる鍵盤の音は、わたしが弾く音とはまるで違って聞こえた。身体中の細胞に満たされてゆくような、沁みてゆくような切ない旋律は、あの日、わたしだけが聴いた。まだタイトルさえ知らない曲。


 「うーん……」


 「センセーのピアノ好き。今度、また聴かせて?」


 「……まあ、またいつか、機会があったらね。あのさ……ナチは、夏休みにサエキとか、彼氏とかとどこか遊びに行くの? 来年は受験だから、今のうちに高校生の思い出もつくっとけよ。もちろん今年も遊んでばっかりはいられないけどさ」


 「えぇ……彼氏なんかいないよ」


 「そうなの? コミネに先を越されたな」


 そう言って笑う。


 カシワギが持ってきた、いかにもな可愛らしいお弁当を思い浮かべる。


 ねえ。

 センセー。

 本当にそんなこと思ってるの?

 本当はなにが言いたいの?

 それに……あんな金髪はサチの彼氏なんかじゃない。サチは金髪なんか選ばない。


 「ああ、そうだ。ナチさ、合唱部の伴奏やってみたら? 顧問の先生がピアノを弾ける子を探してたよ。地域の文化祭なんだけど、いつも弾いてくれる子が今回は都合がつかないんだって」


 当たり障りのない笑顔に、当たり障りのない返事を探す。


 「もともとそんなに上手く弾けた訳じゃないし、伴奏とか難易度高過ぎだって」


 ずいぶん弾いてないから……もう指も動かないよ。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る