第9話  ナチ 3


 夏休みに入るとすぐに補習が始まった。

 朝の教室にいたのは、机の半分ほどの人数。

 進学希望者はもっといたはずだけど、補習には出ないらしい。


 就職を希望しているナオコもいない。


 出席をとるぞお。席につけぇ。

 朝から大きな声を出しながら教室へと入ってきたのは、学年主任のタナカ。

 現国のセンセーとはとても思えない顔面は凶悪犯なみ。


 角刈りのタナカを入学式で見たときには、新入生のほとんどが緊張したはず。しかもそれが担任だった。

 話してみると顔に似合わずにかなりとぼけたセンセーで、授業もわりと面白かった。



 補習期間は一週間。午前中の三時間で終わる。

 科目は数学と英語がメイン。カシワギの理科は、タナカの現国と一日ずつの交替の授業になる。


 壊滅的な数学、文法が覚えられない英語、そんな教科なんかどうでもいいと思っていた。補習に出るのはカシワギの授業を受けるためなのだから。


 タナカが黒板に文字を並べてゆく。チョークが削られる、カッカッという独特の音を聞きながら、シャープペンシルをノートに走らせる。


 教室の中はさすがに冷房を効かせていて、通風口から直に風があたる席に座ってしまったコは、両腕をさすってあたためていた。


 午前中とはいっても窓の外の景色はすでに、強い陽射しで白っぽく色褪せて見える。

 校庭の緑や野球部の緑色のネットの向こう側にある屋根やマンションたちは、重い夏の光に押し潰されて窮屈そうに縮こまっていた。


 ふと、横を向く。


 なんだか嬉しそうに笑っているサチと目があった。




 補習の席は決まっていない。それぞれが座りたい席に座る。

 カシワギの授業がある日は、廊下側から二番目の一番前の席に座った。

 カシワギの姿がよく見える教壇からも少し斜めの席。教卓の正面では教卓が邪魔をする。

 サチは隣の廊下側。一番前の席。


 その日、カシワギは雨の話をした。

 授業には関係ないけどちょっと脱線、なんて言って。


 帰り道ではサチと高校の近くのコンビニエンスストアで、かき氷みたいなアイスを買って食べる。国道が側に通っている、茶畑と住宅街のなかの駅までの道。なんでもなく、ただくだらないことを飽きるまでたくさん話しながら。


 いつまでも、この夏が続くような気がしていた。




***



 頭の上には青く濃い空。白く大きな入道雲が目に眩しい。

 補習の最終日は、今日も暑くなると蝉の声が告げているような朝だった。


 授業が終わるころに風が強くなっているのに気がついた。空全体が暗く、どこからか湧き出した重たそうな雲は、太陽の光を遮っている。


 少しひんやりとした風に、校庭の木の枝は大きくあおられて揺れていた。


 

 昇降口で靴に履き替えようとしたとき、とうとう雨が降り出した。

 準備よく傘を広げながら昇降口を出てゆく生徒たち。中には傘のないまま走ってゆく勇者もいる。


 わたしもサチも、置き傘や折り畳み傘さえ持っていなかった。


 サチと顔を見合わせて、どうしようかと靴箱の前に座り込んだ。


 「な、ん、で傘、持ってこないかなぁ?」


 「ナチもね」


 笑いながらも呆れたような答えが返ってくる。


 「サチが持ってくると思った」


 「ナチが持ってくると思った」


 雨はあっという間に大きな粒となり、外の世界が白く染まってゆく。

 ざぁざぁという雨の音はラジオのノイズみたいだ。


 座り込んだ昇降口の床は湿気でべたついていて、手のひらやスカートに粘着テープのようにぺたぺたと張り付いてくる。


 こんなマヌケな状況がなんだかおかしくて、ふたりでくすくすと笑い合った。笑い声は薄暗い廊下に響くと、すぐに雨の音に沈んでいった。






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