第3話  ナチ 2



 「ねえ。進路希望調査書は出した?」


 サチの問いに「ん」と、答える。


 放課後の校庭からは運動部の掛け声が耳に届く。なにを言っているのかは、まるでさっぱりわからない。


 サチと一緒に夏の空をぼんやりと眺めていた。二人で床に寝転んで。

 校舎の屋上で……なんていうことはない。マンガじゃあるまいし、校舎の屋上には鍵が掛かっていて立ち入れない。

 冷房も利いているんだか、いないんだかわからないような空き教室。

 窓の外に見える空は、水彩絵の具の青を、そのまま絞ったような濃い色をしていた。


 「ナチはどうするの?」


 「一応、進学で出した」


 「同じだ」


 進路希望調査は同じでも、わたしとサチでは全然違う。

 どうしてこの高校に通っているのかわからないほどに成績の良いサチ。おじいちゃんがヨーロッパのどこかの国の人だとかで、髪と瞳の色素が天然で薄い。


 サチとナチだけど似ているのは名前だけ。それにわたしのナチは苗字のナチだ。


 太陽の光が目に入り、眩しくて瞼を閉じた。

 目をつむっていても、残像の太陽は瞼の裏にまで追いかけてくる。太陽のせいにしたのは誰だっけ?


 サチが起き上がる気配がした。


 「夏休みの進学対象の補習は出るでしょ?」


 「サチが出るなら」


 そう返事をすると、サチは軽くあしらうように鼻で哂った。


 光をけて目を開ける。


 ほつれた髪をほどいていたサチと目が合う。サチはじっとわたしを見ていた。髪色と同じに薄い光彩はとてもキレイ。


 「なに?」と訊くと、「うそつき」と返ってきた。


 「なんで?」


 「カシワギが理科を教えるからでしょ?」


 視線を逸らす。

 太陽を遮るために両手を伸ばし、陽光に指を透かして目を隠す。

 細く長い指の縁にそって光がこぼれてゆく。

 わたしの身体の中で、わたしが一番に気に入っている部分。

 カシワギはこの指をきれいだと言った。


 「そこまでバカじゃないよ」


 カシワギは人気がある。若いし、まあ、顔もいい方だと思う。歳が近いから話しやすいし、話していると楽しい。授業は訳が分からないけど。


 「バカなくせに」


 「そんなにバカに見える?」


 「はたから見ればね」


 「ふん」


 軽く笑う。どんな風に見られてもそんなの全然関係ないけど。

 だって、あの指先がわたしの髪に触れるのだから。


 「サチだってバカでしょ」


 サチは駅のホームで毎朝会う、名前も知らないスーツの男に恋をしているらしい。

 このことをナオコはまだ知らない。今のところは、わたしとサチの二人だけの秘密だ。


 サチが覗き込んできた。

 サチの陽に透けた髪がさらさらと頬に落ちて、だんだんと顔が近づいてくる。


 彼女の白い頬を両手で挟んだ。


 「そういう迫り方はスーツにしなさい」


 「予行演習だよ」


 「バーカ」


 「そうだね……。バカかもしれない」


 そう言って、サチが笑った。




***



 一年生の秋。


 本当に偶然に、音楽室でカシワギがピアノを弾いているのを聴いた。


 社会のワークが終わらなくて、放課後に教室で必死に仕上げて職員室に提出したあとだった。

 もう外は暗くなっていた。


 電灯が点いているのにもかかわらず、廊下は薄暗い。 

 昇降口に向かう途中に、音楽室の扉の小窓から漏れていた灯りとピアノの音色。


 誰が弾いているのだろうと、好奇心で覗いた。


 ピアノの前にはカシワギがいた。


 カシワギは微笑むように少し口元を上げながら、授業中に見せるよりも柔らかな表情かおでピアノを弾いていた。


 せつないような哀しいような旋律が流れて、わたしの中に沁みこんだ。鍵盤の上でなめらかに踊る、カシワギの指が見えたような気がした。


 好奇心から止まった足は、聴き入っているうちに、いつの間にかそこから動けなくなっていた。


 ふと顔を上げたカシワギ。小窓から覗いているわたしと目が合うと、指を止めて椅子を立ち、音楽室の扉を開けた。


 「恥ずかしいとこ見られちゃったな」


 頭の後ろに手をやったカシワギは、照れくさそうに笑った。


 「センセー。もっと……聴きたい」


 えぇ? ううん、じゃあ、一曲だけな。だって、もうそろそろ最終下校だろう? そう言いながらも、渋々ながら音楽室に入れてくれた。


 「ナチもピアノを弾くの?」


 中学まではと答えると、指を見せてと言った。


 目の前で両方の手のひらを広げる。長くてきれいな指だね。肯きながら笑って、そう言った。



 カシワギのことは、一過性の熱のようなものだと思っていた。


 ある時期にある期間だけ訪れる、都合の良い相手との都合のいい幻想。勝ちもしないけど、手酷い負けもしない疑似ゲーム。

 実際、ドラマでもマンガでも小説でも映画でも、掃いて捨てるほどに転がっているシチュエーション。


 だから、今だけ。きっと。






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