第54話 もとの世界に帰りたいのかな?
3日後の満月の夜、光のゲートが開いてもとの世界に帰れる。アリアからはそう告げられたが、まだどこか他人事のようだった。店に戻って来てからも、
いつも通り夕食を済ませ、お風呂に入り、ベッドに潜る。目を閉じても一向に寝付けそうになかった。頭の中では、同じような問いが何度も繰り返される。
(私はもとの世界に帰りたいのかな?)
もとの世界に帰ることは、果たして幸せなことなのだろうか? 役に立っているのか分からない職場で、夜遅くまでヘトヘトになりながら働く日々。そんな生活に戻りたいのだろうか? それならいっそ、この世界に留まっていた方が幸せな気がした。
だけどそんなのは陽葵の我儘だ。いつまでもティナの家に居候していたら迷惑に決まっている。当初の約束では『もとの世界に帰るまで』という期限付きだったのだから。
帰るか、帰らないか。その2択を突きつけられたら、帰るのが妥当なんだろうという結論に至る。自分がいるべき場所はここではないのだから。
布団の中で何度も寝返りをうっていると、ティナから鬱陶しそうに文句を言われる。
「ヒマリ、うるさい」
「ごめんね、ティナちゃん!」
陽葵は咄嗟に謝る。それから身体を起こしてティナのベッドに視線を送った。
「ねぇ、ティナちゃん」
「なんだ?」
「そっちに行ってもいい?」
「はあ?」
少しだけティナとお喋りをしたかった。胸の内に渦巻いた感情をティナに聞いてもらえれば、ちょっとは楽になるような気がした。
「ダメかな?」
断られるかもしれないと予想していたが、ティナからの返事は意外なものだった。
「勝手にしろ」
背中を向けながらも許可するティナ。驚きつつも、気が変わる前にティナのベッドに駆け寄った。
「えへへ、失礼します」
ベッドの傍らに腰掛ける。ぬくぬくした布団から飛び出したせいで、足元がヒヤッとした。毛布を持ってくればよかったと後悔したところ、振り返ったティナが包まっていた毛布を少し捲り上げた。
「入ったらどうだ?」
「いいの?」
「寒いだろう。もとの世界に帰る前に風邪でも引いたら大変だからな」
陽葵を気遣って毛布に入れてくれるらしい。やっぱりティナはクールだけど心優しい魔女さんだ。
「じゃあお言葉に甘えて」
ティナの毛布にくるまってベッドに横たわる。なんだか懐かしい感覚だ。この世界に来た日も、ベッドの用意が出来ていなくてティナと一緒に寝たことを思い出した。
ぬくぬくと温かい。ティナの体温が毛布越しに伝わってくる。人肌に包まれていると、迷いや不安が少しずつ溶けていくような気がした。
「それで? 何か相談事でもあるのか?」
相談事があるとすぐに見抜かれてしまった。陽葵の心の内なんてお見通しなようだ。もしかして魔法の力かとも疑ったが多分違う。店に戻って来てからずっと浮かない顔をしていたから、心配してくれたのだろう。
話を振ってくれたのをいいことに、陽葵はいまの心境を打ち明けた。
「わからなくなっちゃったんだ」
「何が?」
「もとの世界に帰りたいのかどうか」
胸の内に渦巻いていた不安を素直に明かしてみる。ティナがどんな反応を示すのか興味があった。
「そういえば、お前のいた世界は、物凄く忙しいんだったな」
「うん。覚えていてくれたんだ」
「まあ、それくらいは」
もとの世界の話は、ほんの少しだけ話した。一緒にお風呂に入った時だ。適当に聞き流されていたと思ったが、覚えていてくれたのは意外だった。
「忙しいのは面倒だな。誰かにこき使われて、休む間もなく働かされるのはごめんだ。私だったら速攻逃げ出すだろうな」
「ティナちゃんは社畜耐性なさそうだもんね」
「なんだ、それは?」
「こっちの話。気にしないでいいよ」
ティナから同情されているのは何となく分かる。だけどそこに付け入るのは、ズルい気がした。いつまでもティナに甘えているわけにはいかない。
「またあの忙しい生活に戻るのは憂鬱だけど、いつまでもご厄介になっているわけにはいかないもんね。仕方ないからもとの世界に帰るよ」
自虐するように伝えるも、ティナからは返事がない。また寝てしまったかと焦ったが、そうではなかった。
ティナは背中を向けたまま、ぽつりと呟く。
「別にここにいたって構わない。いままで通りここで暮らしていてもいい」
「え?」
その言葉は意外だった。ティナからは、さっさと帰れと言われるとばかり思っていたから。
「私がいたら迷惑じゃないの?」
「迷惑ではあるな。お前がいるだけで騒がしいし、次から次へと人を呼び寄せるからな。これじゃあのんびり読書もできない」
「それならどうして?」
迷惑なのに家に置いておく意味がわからない。ティナの真意を知りたくて尋ねてみる。しばらく沈黙が続いた後、ティナはぽつりと答えた。
「ヒマリがいると退屈ではないからな」
その一言でティナの真意が伝わった。
陽葵がこの世界に来る以前は、ティナは一人で店を切り盛りして、退屈な日々を過ごしていた。そんな日々を大きく変えたのが陽葵だ。
陽葵との日々は、騒がしくて面倒ごともたくさんあったけど、少なくとも退屈ではない。そんな日々をティナは気に入っていたのかもしれない。
それならいっそ、この世界に留まっていた方がいいのでは? その方がティナのためになるなら。
だけどティナの言葉はそれで終わりではなかった。
「ここにいたっていい。ヒマリがそれでいいならな」
「私が?」
「ああ、お前はもとの世界でやり残したことはないのか?」
突然の問いかけに、陽葵は言葉を詰まらせる。戸惑う陽葵を説得するように、ティナは続けた。
「ヒマリは化粧品を作り出して、この世界に大きな影響を及ぼした。それは簡単にできることではない。そんな凄い奴なんだから、もとの世界に戻ったってなんでもできるだろう」
もとの世界でもなんでもできる。そんなのは買いかぶり過ぎだ。できないことばかりだったから、散々悩んでいたんだから。
だけど不思議だ。ティナから「できる」と言われると、勇気が湧いてくる。
ティナの言うことには一理ある。化粧品の概念すら無かった世界で、イチから作り出して、販売を始めた。その結果、たくさんの人から感謝されて、いまでは町の女性達の必需品として扱われるようになった。
こんな破天荒なことを成し遂げたのだ。流石になんでもはできないだろうけど、もとの世界でもできることはあるような気がしてきた。
陽葵を後押しするように、ティナは言葉を続ける。
「やり残したことがあるなら、戻った方がいい。そうじゃないといつか後悔する」
ティナの言葉は的確に心の隙間を突いた。陽葵はごろんと寝返りをうって背を向ける。
「ちゃんと考えてみるよ」
それ以上は言葉を発することはなかった。だけど頭の中ではずっーと考えている。
もとの世界でやり残したこと。それは確かにある。
たくさんの女の子を笑顔にする化粧品を作りたい。その夢はこの世界では叶えることはできたけど、もとの世界ではまだ叶えられていない。それを叶えることなくこの世界で生涯を終えたら、後悔するような気がした。
この世界での暮らしを手放すのは惜しい。せっかくお店も軌道に乗り始めて、みんなとも仲良くなれたのに。出来ることなら、これからもみんなとコスメ工房を続けていきたい。
だけど……。
~*~*~
朝が来る。陽葵はいつもより早く起きて、ハーブティーを淹れていた。
リビングはカーミルの香りで包まれている。柔らかな香りに誘われるように、ティナがリビングにやって来た。
「おはよう」
「おはよう、ティナちゃん」
眠そうに目を擦るティナ。テーブルについたところで、温かいカーミルティーを差し出した。その正面に陽葵も座る。
ティナがお茶を一口飲んだ後、陽葵は意を決したように昨夜出した結論を伝えた。
「ティナちゃん。私ね、もとの世界に帰るよ」
ティナはシバシバしていた瞳を大きく見開いた。アメジストのような紫色の瞳にじっと見つめられる。
本気であることが伝わるように、静かに見つめ返す。するとティナはふっと小さく笑った。
「そうか」
そう一言呟いただけ。後はいつも通り、淡々と過ごしていた。相変わらずクールな魔女さんだ。
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