第17話 サナ・イウィクティスという正義⓪

「カマナーー、お水持ってきてーー」


 2階から小さく、所長の冗長じょうちょうとした呼び声が聞こえる。

 

「はいっ、只今ただいま! 」


 会議室に向かっていた足を180°反転し、給水室へと少し早足で歩き出す。

 街中会議がいちゅうかいぎの予定開始時刻まで15分と36秒。

 各重役の想定される入室時間までは10分程だ。

 

 現在地から給水室、及びに所長室まで、最短経路を辿れば十分間に合う。


「失礼する! 」


 給水室の扉を3度ノックし、一拍置いてから部屋の中へと入る。

 部屋の右の棚に並んだボトルの中から所長のボトルを選び、巨大な青いタンクから伸びた蛇口にはめる。


「静止弁良し、気密弁良し、単留タンク良し」


 各部品が破損していないことを指差し確認した後に、蛇口を捻り、水をボトルに注ぐ。


 最近はこの検査をおこたり給水を行うものも多いそうだが、全くもって御し難い。

 万が一にも破損部位がありでもして、水が地面にこぼれでもすれば貴重な水が失われる事になる。


 ここ40年の統計によれば、徐々に、だが確実に年間の降水量は減少している。

 ここラチノアが干ばつに襲われる日もそう遠くないだろう。


 灰に染み込んだ水は何処からも戻っては来ない。

 日々の些細ささいな労力を惜しんだばかりにいつか来るその日に死ぬ者が現れるかもしれない。

 なぜその程度の事にも頭が回らないのだ……


「いかんな、少しかたよってきた」


 熱くなり始めた思考を振り払い、水の汲み終わったボトルを外し、キャップをつける。

 各部品が破損していないことを再度確認し、部屋を出る。


 給水室前の階段を登り2階に着く。

 廊下を奥へ奥へと進むと、石造いしづくりの廊下に似合わない重苦しい鉄の扉が姿を現した。


 トントントン

 3度ノックし鉄の扉をゆっくりと押し開く。


「所長、失礼します。ご要望通り水を持って……な」


「おぉーーよく来てくれたねぇーー、助かるよぉーー」


 部屋の真ん中で私の直属の上司、サナ・イウィクティス所長が、長い桃色の髪の毛を床に広げ、それは見事な三点倒立をしていた。


「……ご満足いただけたのならば何よりです。それでは」


 何を起きているのか理解でき無いので、ひとまず理解することをやめる事にし、水を置いて退出する。

 会議の時間が近い。一刻も早く会議室に行き事前に内容の確認を——

 

「まぁまぁ、待ちなよぉカマナぁ」


 部屋を出ようとして所長に肩を掴まれる。


「どうかしましたでしょうか? 」


「いやさぁ……前からぁ、思ってたんだけどさぁ。そのぉ……所長って呼び方やめないぃ? 」


 くぴくぴと水を飲みながら、立ち上がった所長が不満そうに言う。何らかの不都合があるのだろうか。


「なぁんかぁ距離を感じるんだよねぇ。他の皆はサナって呼んでくれるのにぃ…… 」


「そういうものですか……分かりました。失礼します。サナ・イウィクティス殿」


「そーーじゃぁ無いんだよぉ。サナぁって呼んで欲しぃんだよぉ」


 ダボダボとした袖で所長が私の腕を軽く叩く。

 所長の意図が分からず思わず眉をひそめる。


「所長のお名前はサナ・イウィクティスでは無いのですか? 何故そのような所で区切って呼ぶ必要が…… 」


「付けた時にも言ったぁでしょぉ。これはぁ苗字ぃとか、ファミリーネームぅって言ってぇ、古代人が付けたぁ、他人にぃ家族を判別ぅさせるためのぉ証みたいなものなのぉ。まとめて呼んでるのなんてぇ、君だけだよぉ? 折角発見した文化なんだからぁ、君もちゃんと使い分けてよぉ」


 言われて、以前の集会で名前を変えた経緯を所長が話していたことを思い出した。

 重要なのは名前の変更という点だけだと思って、他の情報をカットしてしまっていたようだ。


「失礼致しました。ではこれからはサナ殿と—— 」


 言いかけてふと、違和感を覚える。

 イウィクティスが家族の繋がりを表す名前なら、必要ないのでは無いのだろうか?


「失礼ですが、所長にご家族は…… 」


「いないよぉ。でもねぇ。だからこそぉ付けてるんだよぉーー」


 所長……サナ殿がクルクルと回りながらあやしく微笑む。笑っている、ということは上機嫌なのだろうか。

 いや、以前もそう思い失敗したことが何度もある。


「怒っていらっしゃるのですか? 」


 ピタリとサナ殿が動きを止め、脱力し上半身をのけ反らせる。


「ふふっっ……怒ってはぁないよぉ。でもぉ、面と向かってぇそこを指摘されたのはぁ初めてだねぇ。合理の鬼の君にはぁ、分からない感情ぉなのかなぁ? 」

 

「はい。申し訳ございません」


 しっかりと頭を下げておく。

 教科書に載っていた。これは内心で怒っている人間が怒りを抑えようとする顔だ。会議に間に合うようなるべく素早く謝罪を——

 

「あははっっ、気にして無いよぉ。だからこそ僕ぅ、君が好きなんだぁ」


 サナ殿が私の髪をわしゃわしゃとかき乱す。

 私より随分と小さなサナ殿に撫でられ、なんとも妙な気分になる。


 どうやらまたしても推測が間違っていたようだ。

 人付き合いというものの難しさを痛感しつつ、頭を上げる。

 

「ありがとうございます。では私はこれで—— 」


 チリチリ チリチリ チリチリ——チンッ


 けたたましい音を立て、入り口の横の壁に掛けてあった電話が鳴った

 サナ殿が受話器を取る。

 漏れ出す声からして相手はギン室長では無さそうだ。

 入街管理官にゅうがいかんりかんか?


 ガチッ

 部屋を出ていいものか考え終わる前にサナ殿が受話器を置いた。


「……2日ぐらいぃ前さぁ。近々ぁ火葬人おくりびとのぉ可能性がある旅人がぁ、うちにぃ来るかもぉって言ったの覚えてるぅ? 」


「はい。また、そうなった際は私はその旅人を監視するように、とも……成程」


 ようやく電話の相手に察しがつく。

 サナ殿がその幼なげな容姿に反して野蛮に笑った。


くだんの子たちがぁ、街のぉ入り口に到着したっってさぁ」


「——了解致しました」


 部屋を出て、管理室に向かう。

 会議に遅れる懸念けねん微塵みじんも頭をよぎらなかった。

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