第23話「君との約束」

健斗に連絡をする事が出来ないまま、杏里はやや沈んだ気分でライブ会場にいた。周りには沢山の人、人、人。皆ユキのファンなのだろう。


「杏里、大丈夫?」

「うん…大丈夫」


人込みに紛れるのはまだ怖い。もしかしたら信二が何処かに紛れていて、突然目の前に現れるのではないかと考えてしまうから。

それを分かっていて、ゆかりはずっと隣にいてくれる。わざわざ家まで迎えに来てくれて、電車の中でも小声で話しながら気がまぎれるようにしてくれた。


「途中で気分悪くなったらすぐ抜けようね。遠慮しないで言って」

「うん、ありがとう」


もう会場の中に入り、ユキが出てくるのを待つだけという状態でそう言われても、大好きなユキと同じ時間を共有できるのだから、何があってもこの空間から出て行く事はしたくない。


やっと、ユキのライブに参加出来るのだ。

自分でチケットを手に入れたわけではないが、それでもユキと同じ空間で同じ空気を吸えるのは嬉しい。


浮かれた気分で応援うちわを持っている手は、ぐっしょりと手汗で濡れている。


「ねえ、ユキの彼女来てるのかな?」


びくりと杏里の肩が揺れる。すぐ傍にいた女性客たちが話している声が聞こえてしまったからだ。


ネットライブでの出来事は、SNSでも大騒ぎになった。ユキ本人から交際宣言だと騒がれたが、ネットの住民たちのコメントは凡そ好意的だったようだ。


芸能人だからといってプライベートな事をとやかく言われるのはおかしい。犯罪を犯しているわけではないのだから、恋人がいたって何ら問題は無い筈。放っておいてほしいとわざわざネットライブでお願いをしなければならない今の状況がおかしいのだと、ユキを剥げますコメントが多かった。


有名配信者の数名はユキを擁護したり、同調する者もいた。一瞬昼間のワイドショーでも話題になったが、コメンテーターとやらたちも「有名税って何?」と不快感を露わにしていた。


「良いなぁ、彼氏が超売れっ子アーティストとか超羨ましい!」

「アンタ、ユキのガチ恋勢だっけ?」

「いや?ユキが幸せなら私も幸せハッピー勢」

「お、脳内ハッピーセット」

「だってそうじゃない?ユキのおかげで私は幸せになれる。でも私はユキを幸せにはしてあげられない。だったら、彼女さんと一緒に幸せになってくれた方が良いよ」


ドキドキと胸が苦しくなりながら、杏里は二人の会話を聞いていた。大丈夫、あの人達は「彼女」がここにいるなんて気付いていない。

気付いたとしても、きっと嫌な事は言われない。大丈夫、大丈夫、大丈夫。


そう自分に言い聞かせ、杏里は手に持ったうちわをぎゅっと握り直した。


「お待たせー!!」


ふいに歓声が上がる。周囲の灯りが落ち、ステージの上にスポットライトが当たった。


この会場の主役が、キラキラとした笑顔で走ってくるのが見えた。


ぎゅっと胸が苦しくなる。あんなにも憧れた、ユキのライブ。数年振りに来る事の出来たライブに浮かれていたかったのに、今の杏里は頭の中がぐちゃぐちゃだった。


「皆ー!元気ですかー!」

「元気ー!」


ユキがマイクを客席に向けながら楽しそうに微笑む。曲が始まり歌い始めたが、誰もがステージの上を凝視し、嬉しそうに微笑んでいる。杏里も同じだった。


目を離す事が出来ない。大きく腕を上げ、客席を盛り上げようとしている姿も、恥ずかしそうにはにかみながら、「ばきゅんして!」と書かれたうちわを持っている客に向かってリクエスト通り指を向けている姿も、何をしていても大好きなユキの姿に胸がいっぱいになる。


来て良かった。


開始数十秒でそう思ってしまう程、推しの輝いている姿というのは素晴らしいものだ。


隣に立っているゆかりと共に、杏里も腕を上げて声を張る。ゆかりはライブの為にコールを覚えて来たと言っていたし、楽しむ準備は万端なようで、ちらりと横目に見てみても楽しそうに口角を上げていた。


「やー、しょっぱなから盛り上がりますな!」


少し乱れた息を整えながら、ユキはぐるりと客席を見回す。ステージの上に設置されている大きな画面に映し出されたユキの顔は、眩しい物を見る様に目が細められていた。


「皆来てくれて本当にありがとう!最後まで楽しんでください!そんで、帰って眠る時、最高の日だったと思ってもらえたらとっても嬉しいです!」


ぺこりとお辞儀をしたユキに向かって、観客たちは大きな拍手と歓声を送る。ネット上で大騒ぎになっていた事を心配していたのか、観客たちの反応にホッとしたような顔をして、またユキは楽しそうに歌い始める。


ドラマの主題歌になった曲。

杏里が落ち込んでいる時によく聞く曲。

アルバムにだけ収録されていた曲。


沢山の曲を歌い、汗だくになっているユキは、ライトに照らされ、キラキラと輝いているように見えた。


やっぱり住む世界が違う。

彼はステージの上で輝く人。私は沢山の観客に紛れて、ファンサを待つだけの人。


改めてそう認識させられたような気分になって、杏里はぎゅっと唇を噛みしめた。


「ユキ、かっこいいね」

「…うん、かっこいい」


目頭が熱い。鼻の奥がツンと痛んだ。

目の前で歌っているのは大好きな推し。だというのに、頭の中に浮かんでくるのは、健斗として接している時の柔らかい笑みを浮かべている顔ばかりだった。


客席に向かって振っている、少し大きくて温かい手に触れたい。

自分だけに話しかけてほしい。

客席に向けているその笑顔を、私だけに向けてほしい。


そう思ってしまうのは、もうステージ上の彼を「ユキ」としてではなく、「健斗」として愛してしまっているからではないだろうか。


「…答え、出た?」

「うん…私、駄目な女だ」


グスグスと鼻を鳴らす杏里に、ゆかりは優しく微笑みながら背中を摩ってくれた。

会いたい。きちんと会って、好きだと伝えたい。許されなかったとしても、この気持ちを抑え込む事は出来そうになかった。


「それじゃあ…最後の曲だね。聞いてください、君との約束」


静かに始まったその曲は、杏里が健斗と顔を合わせたその日に聞いていた「迎えに来たよ」という歌詞が入ったあの曲だった。


◆◆◆


君と約束したんだ。それを胸に抱いて歩いて来たよ。


ユキの声が耳に流れ来む。ライブのラストに歌われていたあの曲を何度も聞きながら、杏里は静かに目を閉じる。


ユキの事は大好きだ。ステージ上で輝いている姿を見ているだけで幸せな気持ちになるし、微笑んでいる顔を客席から見ているだけで、自然と自分の口元も緩んでいた。


だが、心の中にぽっかりと開いてしまった穴を埋めてはくれない。以前の杏里ならば埋められていたのだろうが、今の杏里の心の穴は、ユキには埋められない。


たった一人、健斗以外には埋められない穴。


健斗が微笑んでくれるだけで嬉しい。温かくて大きな手で撫でてもらえるだけで、辛い事を忘れられるような気がする。背の高い彼に抱きしめられたい。健斗の腕の中は杏里にとって、とても安心できる場所になっていた。


今の杏里には何も無い。仕事もしていないし、美人なわけでもない。実家が裕福というような事もないし、何かに秀でているわけでもない。


何も無いけれど、それでも健斗の傍にいたい。


そう思うのは悪い事だろうか。明日になったら連絡をして、今のこの気持ちを素直に伝えたら、健斗は受け入れてくれるだろうか。


「杏里、起きてる?」


一人で閉じこもっている実家の自室。その扉がコンコンとノックされ、外から母が呼んでいる声がした。


「起きてるー」

「入るわよ」


そっと開かれた扉から、母が顔を覗かせる。イヤホンを外した杏里は何か用?と小首を傾げたが、母は何ともいえない顔を娘に向ける。


「貴方にお客さん」

「誰?」

「俺です…」


母の後ろからひょっこりと顔を覗かせた男が、眉尻を下げながら口を開いた。

今考えていた健斗だった。


「どうしても会いたいって今来て…折角来てくれたのに追い返すのは申し訳ないし、もし誰かに見られたら大変だし…」

「あの、ごめんね突然…お母さんもすみません」

「うおおお……」


あまりに突然の再会に驚き、杏里は油断しきった姿を見せてしまった事を恥じながら声にならない声を漏らす。

テーブルに広げていたライブグッズを慌てて集めているうちに、母は健斗を部屋に押し込み、扉を閉めてしまっていた。


「ちょ、待って…あの、急すぎる」


変な物転がってないよね?と自室を見まわしながら、杏里は自分の髪を手で整える。一応近所のコンビニに行ける程度の身だしなみは整えているが、恋人に見せる程整えてはいない。


「ごめん…でもやっぱり、このまま終わりなんて嫌だから」

「それについて明日連絡しようと思ってたんだよ…とりあえずどうぞ」


テーブルを大急ぎで片付け、健斗に座るよう促すと、大きな体を小さくしながら遠慮がちに座った。落ち着かないようでソワソワと指先を動かしているのだが、落ち着かないのは杏里も一緒だった。


「あ…怪我、大丈夫?」

「うん、もう大丈夫。痕は残るみたいだけど」


指先を見ているうちに、先日のネットライブで怪我をしたと言っていた事を思い出した。既に抜糸も済み、痛みも無いという。手をぐーぱーと動かしているが、手の動きにも問題は無いようだ。


「この間のネットライブ見てくれてた?」

「うん。コメントはしてないけど」


怪我の事を知っているせいか、杏里がネットライブを見ていた事を察したらしい。しまったと思ったがもう遅かった。


「俺が酔っ払い配信してるの見られてたか…」

「酔ってたね本当に。彼女なんていないって言うでしょ普通」

「嘘でも言いたくなかったんだもん」


俯いた健斗の前で、杏里はふっと小さく笑った。仕事の為ならば、自分の存在を否定されても良かった。それが普通だと思っていた。だが、健斗はそれを嫌だと思ってくれた。それが嬉しい。


「怒られなかった?」

「滅茶苦茶怒られました…マジギレの赤塚さん本当怖いんだよ…」

「あーあ。まあそうなるよね」

「でも、社長が宥めてくれたんだよね。アイドルならちょっとアレだけど、俺はそういう売り方してないんだし、そもそも芸能人であってもプライベートな事に会社が口出しをすべきじゃないって」


健斗が言うに、ユキがネットライブで話した事はその通りだという意見だったらしい。アイドルはファンに夢を見せる仕事という面から考えて恋人の存在が知られないようにする努力は必要だが、だからといって交際禁止にするのは当社では行わない。そもそも隠している事を暴こうとする週刊誌やマスコミは何がしたいのだと憤っていたらしい。


「そういうわけなので、会社的には問題ないっていうか…」


もごもごと口ごもっている健斗を眺めながら、杏里は姿勢を正す。健斗が言いたいのは、会社の事は気にしなくて良いから杏里の素直な気持ちを教えてほしいという事なのだと思ったのだ。


「杏里ちゃんさえ良ければ、これからも俺の隣にいてほしい、です」

「それ、明日私が言おうと思ってたのに」

「え…?」


自分の膝の上でぎゅっと拳を握りしめた杏里はゆっくりと口を開く。


ライブでユキを見つめている間、頭の中に浮かぶのは二人きりで過ごしている時の健斗の顔ばかり浮かんでいた事。

ユキではなく、健斗が恋しかった事。会いたい、触れたいと思ってしまった事。


それらをゆっくりと言葉にしているうちに、目の前に座っていた健斗が静かに涙を零していた。


「私、何にも無い。仕事すら無い。それでも良ければ隣に居させてほしい…です」


勿論仕事はちゃんと探すからと付け足した瞬間、杏里の体は健斗の腕の中に収まっていた。

久しぶりに感じる健斗の体温。ホッと安心してしまう健斗の香り。包み込まれた瞬間、杏里の目からも涙が零れた。


「あの…ごめ、ごめんなさい。滅茶苦茶振り回してる…」

「ううん、一緒にいてくれるなら良いよ」


ぎゅうと力強く抱きしめられながら、杏里は何度も「ごめん」を繰り返す。二人揃って泣きながら抱き合うなんて、傍から見たらおかしな光景なのだろう。だが、今は互いの存在を確かめ合うように抱き合っていたかった。


「迎えに来てくれてありがとう。嬉しい」

「十年以上前だけど約束したでしょ。迎えに行くって」


十代の頃の、ネット上でのやり取りでしかなかった約束。杏里にとってはただの雑談でしかなかったが、健斗はそれを果たしてくれた。

いつか迎えに行く為にと沢山の努力をしてくれた。

きっとそれは当たり前の事ではないし、誰にでも出来る事では無いのだろう。杏里に出来るかと言われたら、出来ないかもしれない。だが健斗はしてくれた。


「あの、本当はもっとちゃんと言いたかったんだけど…俺と結婚してくれない?」

「え…何急に」


抱きしめられたまま言われた言葉に、杏里は困惑を隠せない。だが、健斗の胸から聞こえる心臓の音を聞いているうちに、その言葉が本心から出たものだと理解した。


「だって、籍入れちゃえば簡単に離れようとしないでしょ?俺本当駄目。杏里ちゃんがいなくなると思ったら無理。マジでどうにかなりそう」


震える声でそう言った健斗は、どこにも行かないでと子供のように懇願した。そっと頭を撫でてやれば、また泣き出してしまったようで微かに鼻を鳴らしている。


「泣き虫」

「そうだよ…ユキの時はいくらでも笑えるけど、本当の俺はメンタル豆腐なんだ」

「ファンは知らない姿だね。…事務所の人達に結婚しますって挨拶しなくちゃかな」

「OKしてくれるの?」


のろのろと体を離した健斗は、涙で濡れた顔で杏里の顔を覗き込む。ユキの泣き顔なんて見た事が無い。今目の前にいるのは、杏里しかしらない米倉健斗という男だった。


「末永くよろしくね」


そう答えると、健斗はまたボロボロと大粒の涙を流し始める。そんなに泣かないでと笑いながら頭を撫でてやっているうちに、父が帰って来たのか階下から声が聞こえて来た。


「行こ。早く顔拭いて」


ティッシュを箱ごと渡し、杏里は先に部屋を出て階段を駆け下りる。


「お帰りお父さん!私結婚する!」


どういう事だと目を瞬かせる父に何から話そう。自分でも状況が上手く整理しきれていない。


「杏里ちゃんちょっと待って…」


まだ鼻先を赤くしている健斗が階段から降りて来た姿を見て納得したのか、父は出迎えに来てくれた母と共に穏やかに微笑む。

何故健斗が泣いているのかまでは分からないようだが、仲良く寄り添っている姿に安心したのか、両親は揃って頭を下げた。


「娘をよろしくお願いします」

「はい、絶対に幸せにします」


健斗も頭を下げてそう言った。

健斗の仕事柄考えなくてはならない事も多いが、二人でいれば乗り越えられるような気がした。


十年以上一途に思い続けてくれる人なんてそうそういない。約束を果たす為に努力を重ねてくれて、大人気アーティストにまでなる人なんているだろうか。きっとこの人ならば、安心して傍にいる事が出来るだろう。


「いひひ」とおかしな笑みを浮かべながら健斗に寄り掛かった杏里の顔は、実家に戻って来てから初めて見せる安心しきった満面の笑みだった。

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