第22話「揺らぐ」

「杏里―!」

「ゆかり!久しぶり!」

「俺は?」

「砂川さんもお久しぶりです」


和気藹々とした再会は突然だった。

誕生日を祝ってもらった翌日、ゆかりから電話が来たのだ。実家の近くに来ているから時間があったら会えないかという連絡だった。


仕事もしていないし、家事もひと段落付いていた為、杏里は二つ返事で了承し、ゆかりと砂川の到着を待っていた。

何となくいつもより丁寧に掃除をし直し、インターホンが鳴った瞬間扉を開いた。


ニコニコと嬉しそうに微笑んでいるゆかりと、ソワソワと落ち着かない表情の砂川が立っているのを見ると、杏里はほっとしたような顔をして、二人の客人を迎え入れる。


「元気してた?あ、これお土産!」


リビングに通されたゆかりは、きょろきょろと部屋の中を見回している砂川が持っていた紙袋を指差す。

砂川から紙袋を受け取った杏里は、それが自分の好きな店の焼き菓子である事に気付き、満面の笑みを砂川とゆかりに向ける。


「ありがとうございます!お茶淹れなきゃ…」

「お構いなく」

「あ、どうぞ座ってくださいね!」


いつまでも立たせているわけにもいかないからと、杏里はソファーを指差して二人に座るよう促す。

いそいそとキッチンでお湯を沸かし、久しぶりに会えた事を三人揃って喜んだ。


「砂川さん、お怪我はもう大丈夫ですか?」

「ああ、全然平気。一応病院には行ったけど、本当に大した事なかったんだ」


信二に顔を殴られたそうだが、今杏里が見る限り傷も残っていない。相変わらず綺麗な顔だなと内心感心しながら「すみませんでした」と深々と頭を下げた。


「松本のせいじゃない。それに…その、庇ってやれなくて申し訳ない」

「砂川さんが謝る事では…本当、私のせいで皆さんにご迷惑を…」


元恋人が職場に乗り込んでくるなんて思いもしなかった。しかも砂川を殴ったのだ。

会社がこれ以上雇い続ける事が出来ないと判断するのも無理はないと、杏里は納得している。


「退職願出しに来た時会えなかったから、次の日出勤したら杏里のデスク綺麗さっぱり私物無くなっててびっくりしたよ…」

「ごめんね。あの時は…その、メンタルやられてたの」

「いきなりいなくなっちゃって、何か寂しかった」


ぶすっとむくれたゆかりに、杏里はごめんねと眉尻を下げて曖昧に笑う。

杏里とて仕事を辞めたくはなかったのだが、あの時は「そうしなければならない」と思ってしまっていたのだ。

少し回復してきた今ならしがみついたのかもしれないが、タラレバをいつまでも言っていたって仕方が無い。


「もう少し休んで、落ち着いたらまた仕事探すよ。推し活の為にはお金が必要だからね」


ぐっと拳を握った杏里に、ゆかりは小さく口元を緩ませて笑う。その隣で砂川も安心したように微笑んでいるのだが、どうして二人が杏里の実家近くに来ていたのかを聞いていなかった事に気が付いた。

それを遠慮がちに聞いてみると、ゆかりと砂川は顔を見合わせ、照れ臭そうにしながら言った。


「ドライブデート」

「はい!?」

「日曜だし天気も良いし、何処か出かけようかって話になって…」


後頭部を掻きながらはにかむ砂川は、隣でデレデレと嬉しそうにしているゆかりに優しい視線を向ける。

何だか雰囲気が以前と違うような気がして、杏里はもしかしてと首を傾げる。


「…失礼ですが、お二人はお付き合いを?」

「へへ…先月からね」

「えええええ!!おめでとう!!」


ぱちぱちと拍手をしながら声を張った杏里に、ゆかりは「ありがとう」と嬉しそうに微笑みながら言う。

どうしてそうなったのかと色々聞きたいが、杏里が聞くより先にゆかりが話し始める。


曰く、砂川が怪我をして病院に行ってから距離が縮まったのだそうだ。


「あの時、殴られそうになったのは私だったんだよね。それを砂川さんが庇ってくれたの」

「漢だ…」

「女の子を殴ろうとするとか駄目だろ絶対に。何であんなのと付き合ってたんだ?」

「自分でも分からないですね…」


以前はとても素敵な人だと思っていた。だが、思い返してみると自分が一番、恋人である杏里は家政婦のような扱い…等々、どうしてあんなに尽くしていたのだろう?と首を傾げたくなる事が多い。

所謂「目が覚めた」という状態なのだろう。


「咄嗟に守らなきゃと思って…大泣きしながら俺の心配してくれたのがその…可愛いと、思って」


もごもごと口ごもりながらそう言った砂川は、隣でデレデレしているゆかりから視線を逸らし、小さく咳祓いをした。

そういえばゆかりからの電話で笑いながら警察を呼んでいたと聞いた事を思い出したが、どんな顔をして笑っていたのだろう。それはまた今度聞いてみる事にしようと思った。


「あ、そうだ。はいこれプレゼント」

「え、何?」

「誕生日だったんだろう?俺と山内から」


差し出された小さな紙袋は、可愛らしい熊のイラストが描かれている。なんだろうと貰ったその場で開いてみると、中にはシルバーの細いチェーンで出来たブレスレットが入っていた。


「こっちは?」

「開けてみ」


にんまりと笑ったゆかりに急かされ、杏里は紙袋に入っていた小さな封筒を開く。中に入っていた二枚の紙を引っ張り出し、それが何なのかを確認すると、杏里はぱくぱくと口を開いたり閉じたりを繰り返しながら立ち上がる。


「お席…」

「一緒に行こうね」


にっこりと笑っているゆかりに返事をする余裕もない。手の中に、欲しくてたまらなかったユキのライブチケットが収まっているのだ。どうしてと言葉にしたいのに、上手く喉が震えてくれなかった。


もしかしたらこれはドッキリで、本当はユキのライブチケットは用意されていないのかもしれない。これは幻、きっとそうだと自分に言い聞かせ、杏里は一旦そのチケットをテーブルに置いた。


「お茶淹れてくる」


現実逃避!と大笑いしているゆかりは、「わかるよぉ」と何度も頷いている。砂川はあまりピンと来ていないようだが、きっとこの先分かるようになるのだろう。


ファンにとって、ライブの席が用意されるかどうかは、その先暫くの人生の楽しみが用意されるか否かの重要事項なのだから。


◆◆◆


ゆかりと砂川が手を振って帰って行くのを見送った後、杏里はぼうっと呆けたままチケットを見つめていた。

一枚はゆかりが持って帰ったが、もう一枚は確かに杏里の手の中に収まっている。


どれだけ確認しても、裏返してみても変わらない。一度引き出しにしまってもう一度開いて…なんて謎の行動をしてみたのだが、チケットはきちんと引き出しに収まっていた。


「自名義弱すぎかよ…」


少し前に届いた「残念ながら」というメールを思い出し、大きな溜息を吐きながら机に突っ伏した。


ユキのライブに行けるのは嬉しい。いつも行きたくても行けない、せめて音漏れだけでも聞きに行きたいと思いつつ我慢している場所に行ける。そう思うと嬉しいのだが、頭の中には「弁えろ」と睨みつけてきたマネージャーの赤塚が浮かんでは消える。


ユキのライブには行きたい。

だが、行っても良いのか分からない。


考えても答えなんて出る筈もないのに、チケットを持ったまま考え込んでどれだけの時間が経っただろう。いい加減つかれてしまったからと、きちんと引き出しにチケットをしまってスマホを取った。


—ユキがライブを始めました


十五分程前に始まっていたらしいユキのネットライブ。反射で開いてしまったのだが、画面の向こうのユキはいつも通りの顔に見えた。


『それでね、ライブの準備で大忙しなんだけど…』


ニコニコと微笑みながら話しているユキは、ひらひらと右手を画面に映して見せる。


『まさかのこのタイミングで怪我してヤバイ』


ユキの右手は包帯でぐるぐる巻きにされており、コメント欄では心配するファンの言葉が凄まじい勢いで流れていった。

杏里も思わず息を飲んだが、画面の中のユキはけろりとした顔で「大丈夫だよー」と笑う。


『MV撮ってたんだけど、間合いミスって機材にぱこーんって。切っちゃった』


けらけらと笑っているが、縫ったよーなんて呑気な声にコメント欄がどよめいている。流石にそれは大怪我なのでは?というコメントに「労災?」と笑っているが、笑いごとではないとコメントを打ちかけた。


見ていると知られたら、きっと今の健斗ならすぐ表情に出るだろう。邪魔になってはいけないと思い直し、打ち込んだ文字を全て消した。


『んー?彼女さんに家事してもらいな…あー、それねぇ。ごめんねぇ騒がせちゃって』


誰かが送ったコメントを読み、ユキは悲しそうに眉尻を下げた。

コメント欄が荒れ始めた事に気が付き、杏里の意がぎゅっと締め上げられたような気がする。


『みんなはさー、恋人とか、パートナーっている?いる人って、やっぱりその相手大事だよね?』


そこまで言って、ユキはいつものステンレスタンブラーで何かを飲んだ。

少し緊張しているような顔で、ユキはもう一度口を開く。


『俺もそうだよ。彼女の事がとっても大事。でもファンの皆もとっても大事。俺の仕事はファンがいなくちゃ出来ない仕事だけど、彼女はプライベートの俺には必要な人なんだよね』


コメント欄は「ファンやめるわ」「ネット上で惚気んじゃねぇ」なんて辛辣なコメントも流れてくる。だが、多くのコメントは「幸せになってね」「プライベートなんだから良いじゃんね」なんて優しい内容だった。


『十年ずーっと片思いだったんだけど、やっとお付き合いしてもらえるようになったんだよね。だからさー、別れたくないわけですよ。この気持ち分かる人いる?』


うだうだと言い始めたユキに、「酔ってる?」というコメントが流れた。「酔ってるかも!」と笑うユキは、うっすらと目尻に涙を溜めてぺこりと頭を下げた。


『俺の十年かけた恋を、終わらせないでほしいです。ユキとしての俺はファンを大事にするから、プライベートの俺の事は見守っていてほしいです。俺だって、誰かに恋をする人間だから』


何を言っているのだろう。酒の勢いでこんな事を言っているのなら、すぐにでも止めなければならない。だが、もう既に世界中に公開されてしまっている。

ずびずびと鼻を鳴らしているユキの顔が、いつものユキの顔ではないように見えた。


きっと今の言葉は、ユキではなく米倉健斗として言った言葉なのだろう。


「…ごめんね」


まだ答えは出せない。

コメント欄は優しいコメントが殆どだが、時々「ファンは二の次?」「いや無理www」なんてコメントも多い。今の杏里は、そちらのコメントばかりに目がいってしまっていた。

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