第21話「実家」
実家のソファーは、杏里が実家を出た頃よりも少しへたっていた。父が寝転んでいるようで、肘置きの一部が凹んでいる。
仕事を失い、一人で暮らしていたアパートも引き払った杏里は、両親の暮らす実家へと戻ってきていた。地元は相変わらず何も無いし、車が無ければ買い物に行くのも大変だ。
一家に一台ではなく、一人一台車を持っているのが普通の地元だが、杏里の車は無い。買い物に行くのに不便だからと、昔使っていた自転車を手入れして使っている。
「ただいまぁ」
「お母さんおかえりー」
ぼさっとしているうちに、どうやら夕方になっていたようで、パートに出ていた母が帰って来た。
そろそろ洗濯物を取り込まなくてはと立ち上がり、杏里は吐き出し窓を開いて外へ出る。朝早くから干していたおかげで、三人分の洗濯物はしっかりと乾いたようだ。
「すぐご飯支度するわね」
「もう下ごしらえは終わってるよ。あとは仕上げるだけ」
「あら…助かる」
「置いてもらってるんだから、これくらいは」
買い物をしてきたのか、母はキッチンでガサガサと音をさせながら買って来た物を出している。
それを視界の端で眺めながら、杏里は乾いた洗濯物をリビングの床に置いた。これから畳んでしまわなくてはならない。昔はもっと沢山の量を、母が一人でやっていたのだと思うと頭が下がる。
洗濯だけではない。料理も洗い物も母が一人でやっていた。父は帰りが遅くなる事が多かったし、娘二人は母がやってくれるのが当たり前だと思っていて、滅多に手伝いなどしなかった。
「お母さん、ごめんね」
「…何謝ってるの。アンタは娘なんだから、こんな状況の時くらい親を頼りなさい」
違う、それもそうなんだけど今はそうじゃない。
ぐっと唇を噛みしめ、杏里はせっせと洗濯物を畳む。母も一緒になって畳んでくれるのだが、仕事をしてきて疲れているのだから、少しはゆっくりお茶でも飲んでいてほしい。
「仕事が見つかったら、なるべく早く出て行くから」
「良いわよ、急がなくて。怖い思いをしたばかりなんだから…」
信二があれからどうなったのか、杏里は知らない。逮捕されたとは聞いたが、砂川への暴行の他、杏里へのストーカーで立件されるのだろうが、今はとにかく関わりたくない。
実家に戻ってすぐ小野田家の両親がお詫びの電話をしてくれたのだが、対応した父は「もうお宅とは関わりたくない」と言っているのを聞いた。両親は詳しく話さないが、警察や弁護士の対応は全て両親がしてくれている。
もう三十歳になるというのに、未だに親に守られている。いつまで世話になるのだろうと情けなく思うのだが、地元に戻って来ても何となく外に出るのが怖いし、玄関前にまた何か置かれているのではないかと怯えてしまう。
眠っている間に見る夢も、信二に関わる夢ばかり見るようになった。別れた直後のように、付き合っていた時の事や、別れる時の夢だけではない。会社近くで待ち伏せされていた時の事を思い出す様に夢に見た。
それだけでなく、一人暮らしの家に信二が押しかけてくる夢も見た。そんな事実は無かった筈なのに、とてもリアルな夢で、嫌な汗をかきながら起きる事もある。
ぐっすり眠れない。それが辛いのだが、両親にまた心配をかけるのが嫌で、相談する事は出来ずにいる。
「そうそう、明日千佳が明連れて遊びに来るってよ」
「あ、そうなの?明に会うの久しぶりだわ」
「遊んであげなさいよ、伯母さんなんだから」
甥っ子は可愛い。懐いてくれているし、おばたんと呼ばれるのは少し微妙な気持ちだが、人見知りもせずにっこりと笑っている顔を見ていると、つられて笑ってしまう。
子供の笑顔は癒される。きっと明日は楽しい一日になるだろうと想像し、父の肌着を畳んだ。
「お母さん」
「んー?」
「どうしてお父さんと結婚したの?」
「なあに、急に…」
「や…なんとなく」
どれだけ想像してみても、自分が結婚する未来が見えなかった。健斗の部屋を出てから、一度も連絡をしていない。時々返事が貰えないと分かっているだろうに、健斗は取り留めのない事を連絡してくる。
今日は何をしただとか、何を食べた。こんな所に行った。元気にしてる?こっちは元気にやってるよと。
健斗の部屋を出てからもう二か月。初めの頃は何度も電話がかかって来ていたが、出てもらえないと分かったのか、文章だけが送られてくる。
健斗に会いたい気持ちはある。だが、赤塚に言われた通り今の健斗は大切な時。仕事もしておらず、家事手伝いとして実家に世話になっているだけの自分が傍にいては邪魔になってしまうと思った。
大好きなユキが、自分のせいで仕事に支障をきたすのが嫌だ。会いたくなったらネットを見れば良い。歌っている姿を見る事は出来る。ただ、以前のように元気になる事は出来なかった。
「…お父さんね、昔は道端で歌ってる歌手志望だったの」
「え、初耳」
「大学生の間だけだからね。夢だけじゃ食べていけないから、卒業までに芽が出ないなら諦めるつもりだったんですって」
母は懐かしい思い出を辿るように、ゆったりと口元を緩めながら話し続ける。
父が歌っているところをよく見ていて、当時色々あって疲れていた母は、父の曲の歌詞に涙を流したそうだ。
この人を応援したいと、見かける度にギターケースにお金を入れて、ニコニコと微笑みながら歌っている姿を見ていた。
そのうち、二人はデートをするようになり、父の夢を応援しながら生活を支えた。結局父は夢を叶える事は出来なかったが、二人は手を取り合い、仲睦まじい夫婦になったそうだ。
「今はもうやめちゃったけど、お父さんの歌が大好きだったの。杏里と千佳が赤ちゃんの頃、よく子守唄を歌ってたんだから」
「えー…全然覚えてないなぁ」
父が歌っているところが想像出来ない。いつも何を考えているのか分からず、少し近寄りがたいと思う事もあるような人が、駅前でギターを抱えて歌っているなんて、聞いただけで面白い。
「素敵な歌詞を書く人だから、素敵な人なんじゃないかって思ったの。その当時の母さんね、最低な男と付き合ってたから」
「え、そうなの?」
「うん。殴る蹴るは当たり前、パチンコ行くからお金くれーってね」
「最悪…」
「男を見る目が無いのは母さんからの遺伝ね!」
けらけらと笑った母の過去を初めて知ったが、笑いごとでは無い。
ただ、母と杏里の違いは結婚相手を選ぶ事に成功したか否かだ。
「なんつーもん遺伝させたんだ…」
「そこまで似ると思わなかったんだもの。その点千佳は安心ね。時々愚痴は聞くけれど、何だかんだ仲良くやってるみたいだから」
山になっていた洗濯物は、二人で畳むと片付くのが早かった。せっせと畳んだ洗濯物を片付けて一息吐くと、母は杏里のスマホを差し出してにっこりと笑った。
「連絡、来てるんじゃないの?」
「…」
「健斗さん、待ってると思うよ。お父さん宛てに時々連絡してるから」
「えっ」
どうやら健斗は、父と二人で酒を楽しみながら連絡先を交換していたらしい。母が言うに、健斗は週に一度のペースで「杏里さんは元気にしていますか」と送られてくるそうで、父は「元気だよ」と返すだけ。
「別れちゃったの?」
「いや…別れ話はしてないけど」
別れ話はしていないが、マネージャーの赤塚の口ぶりからして別れてほしいと思われているのだろう。健斗は連絡をくれるし、別れたいと思っていないのだろうが、杏里が一歩踏み出す事が出来ずにいた。
「素直に飛び込んじゃったら良いのに」
「そういうわけにもいかないんだよ。仕事が仕事だから」
「もしお父さんが超売れっ子になってたら…私ならすぐ入籍してるわね。逃がしたくないもの」
「つっよ」
「チャンスは自分から掴まないと。チャンスの神様は前髪しかない…だっけ?」
鼻歌混じりにキッチンにお茶を淹れに行く母の背中を見つめながら、杏里はぼうっとスマホを見つめる。
チカチカとライトが光っており、また通知が来ている事を教えてくれていた。画面を付ければ、また健斗から「猫見つけた!」と送られてきているポップアップが表示されている。
いつものように開くだけ開くと、生垣に隠れている小さな猫の写真が一緒に送られてきていた。
『可愛いね』
それだけ送ってみた。ほんの気紛れ。本当は送らない方が良いと思っているのに、少しでも良いから話がしたいと思ってしまった。
すぐについた既読。また何か送られてくるかと、画面に何か表示されるのを待っていたのだが、表示されたのは着信画面だった。
「…もしもし」
『もしもし?!杏里ちゃん!?』
「声大きいよ」
あははと小さく笑うと、電話の向こうの健斗が声を震わせながら話し出す。
寂しい、声が聞きたかったと呟く声が、健斗が泣いているのだと教えてくれた。いい歳をした男が泣くんじゃないと言いたかったが、泣いている原因は自分だ。どう言葉を返せば良いのか分からず、杏里はぎゅっと唇を噛む。
『あの…俺、杏里ちゃん』
「落ち着きなよ、聞いてるから」
『俺、杏里ちゃんと別れたくない…』
「…うん」
ずびずびと鼻を鳴らし、健斗は「お願い」と呟く。きちんと別れ話をしたわけではないが、杏里との関係が終わりかけている事を察しているのだろう。
「あのね、私別に別れたいとか思ってないよ」
『ほんとに?!』
「うん。でも…その、今頭の中がぐちゃぐちゃなの。だから整理したい。少し…時間をください」
嘘を吐いた。別れたいとは思っていないが、別れた方が良いとは思っている。
健斗の、ユキの邪魔になってしまうのなら、このまま姿を消した方が良い。そう思っている事は、まだ健斗に言う勇気が無かった。
「年明けにはライブでしょ?今忙しいんだから、体には気を付けてね」
『…お席、用意された?』
「はは、残念ながら」
抽選には応募していたが、残念ながら先週見慣れた「残念ながら」というメールが届いたばかりだ。
またかと溜息を吐いてベッドにスマホを投げた記憶は、まだ新しかった。
「まだ仕事中でしょ?そろそろ切るよ」
『うん…戻るよ。杏里ちゃん』
「何?」
『一日早いけど、誕生日おめでとう』
すっかり忘れていたが、明日は三十歳の誕生日だった。健斗に言われて思い出し、小さく笑って「ありがとう」と返し電話を切る。
だから千佳が遊びに来るのかと変に納得をした。
「電話終わった?」
「あっ…ごめん」
「若いわねぇ…」
ニヤニヤと笑いながら娘にお茶を差し出す母は、まるでドラマのようだと小さく呟いた。
◆◆◆
どうして妹はこうも派手好きなのだろう。所謂陽キャというやつだ。
椅子に座らされた杏里は、頭にラメでキラキラとした三角の帽子を被らされ、肩には「今日の主役」と書かれたたすきをかけられている。
「お姉ちゃんおめでとーう!」
「おでめとー」
「わー…ありがとーぅ…」
目の前のテーブルに置かれた誕生日ケーキには、沢山の苺の他に「祝☆三十路」と書かれたチョコレートプレートと、3と0の蝋燭が刺されている。
「ねえ、三十めっちゃ強調してるの何?」
「え、良くない?良い女は三十からって言うじゃん」
「初耳だわ」
蝋燭の火を吹き消したがる甥っ子にせがまれ、杏里はどうぞと場所を譲る。膝に乗って思い切り息を吹いた甥っ子は、上手く消せたと嬉しそうに笑った。
「はーいこれ可愛い妹からのプレゼントね」
「ありがとう…開けて良い?」
どうぞどうぞと笑う千佳の前で、杏里は渡された小さな包みをそっと開く。中に入っていたのはよく分からないが、真っ赤な機械のようだ。
「充電式のホットアイマスクだよー。これ私も使ってるんだけど、超良い」
「えー嬉しい、ありがとう!」
「寝る間に使うと良い夢見れるよん。因みに色は明チョイス」
「マジか。明センス良いじゃーん、ありがとね」
うりうりと頭を撫でられて嬉しそうな明を抱きしめながら、杏里は渡されたばかりのプレゼントを見つめる。今日の夜に早速使ってみようと考え、使い心地が良かったら健斗にも…なんてところまで考えてふと我に返った。
また健斗の事を考えている。昨日は別れた方が良いのではなんて事を考えていたくせに、随分と考えがコロコロと変わるものだ。
「はい、こっちは親からね」
「マジか、良いの?」
「毎年はあげないけど、まあ十年ごとになら良いでしょ。千佳も三十歳の誕生日にはあげるからね」
「やったぜ。お姉ちゃん何もらったの?」
見せて見せてと興味津々の千佳に急かされ、杏里はまたごそごそと包みを開く。掌に収まる程小さな包みの中にはキラキラと光を反射するピアスが収まっていた。
「ダイヤ…じゃないよね?」
「何言ってるのよ、ダイヤに決まってるじゃない」
「うおお…初ダイヤ…」
「もういい大人だからな。一つくらい持ってきなさい」
にこりと微笑んだ父の隣で、母はこっそりと「お父さんチョイス」と杏里に言う。流線を描くプラチナの台座にちょこんと収まったダイヤは、天井で輝く照明をの光を反射している。
「大事にするね」
「あ、良いなぁ…お父さん私もダイヤが良い!」
「そのつもりだ。良太くんにはダイヤのピアスは予約済みだと伝えておいてくれよ」
家族で過ごす時間は良い。何歳になっても家族がいてくれるから頑張れる。外に出るのが怖くなったって、夢見が悪くて疲れていたって、家族で一緒にケーキを食べるのは幸せだと思える。
貰ったばかりのピアスを付けて、「似合う?」と微笑みながら、杏里は嫌な思い出を忘れるように甘いケーキを頬張った。
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