第18話「避難」

フラフラと歩いていると、いつの間にこんな所まで歩いて来たのだろうと驚く事がある。それは大抵疲れている時で、帰宅途中に気が付くのだが、今日は少々様子が違う。


「杏里ちゃん?!」


インターホンの向こうから聞こえた健斗の声。ハッとして、慌てて周りを見渡した杏里は、今自分が立っているのが自分の住んでいるアパートではなく、健斗の住んでいるマンションである事に気が付いた。


「待って、今開けるから…」


そう言った健斗の言葉から少し遅れて、目の前の自動ドアがひとりでに開く。早く入らねばと慌てて足を動かしたが、どうして健斗のマンションにいるのか分からなかった。


取り敢えず待っているだろうからとエレベーターに乗ったが、どれだけ思い返してみても信二と別れた後の事をあまり覚えていない。

帰ろうと歩き出した事は何となく覚えているのだが、どうして全く違う電車に乗ってしまったのだろう。


ぼんやりとした頭のまま、黙って立っているだけの杏里を運んでいたエレベーターが目的の階に到着し、静かに扉を開く。

開かれた扉の前には、驚いた表情の健斗が立っていた。


「どしたの…急に」

「あ…ごめん、分かんないんだけど、なんか来てた」

「何それ?まあ良いや、折角だからお茶でも飲もう」


へにゃりと嬉しそうに笑った健斗に手を引かれ、杏里は静かな廊下を歩く。

健斗の手は温かい。健斗がいるからもう大丈夫。そう思った瞬間、杏里の目からぼたぼたと涙が溢れて落ちた。


「うおおお…どした?え、何?具合悪い?どっか痛い?」

「う…っ、ん…あの、色々あって…」


突然泣き出した杏里に驚いているようだが、健斗は優しく微笑んで「大丈夫」とだけ言った。自分の部屋の扉を開いて杏里を玄関に押し込むと、扉を閉めながら優しく杏里の体を抱きしめる。


「何かあったんだね」

「…うん」

「話して楽になるなら、いくらでも聞くよ」

「うん」

「お腹空いてない?何か食べようね」


よしよしと頭を撫でてくれる事が嬉しかった。大丈夫と優しく耳元で繰り返し囁く健斗の声が、怖いという感情を落ち着かせてくれるような気がした。

健斗の香りを胸一杯に吸い込み、細い背中にしっかりと腕を回す。次々溢れて止まらない涙を隠す様に、健斗の胸に顔を押し付けた。


◆◆◆


健斗が用意してくれた食事は、所謂男の料理というやつだった。チャーハンのつもりらしいが、あまりにも豪快なそれは、切ると言うより千切ったキャベツが芯ごと入っている。


「ごめんね、俺料理上手じゃないんだ」

「美味しいよ」


正直キャベツの食感が邪魔だが、誰かに作ってもらった料理は久しぶりで、とても美味しいと思った。

空腹の時は良くない事を考えてしまうものだと、昔誰かに言われた。母親だったか、祖母だったか。

思い出せないが、気恥ずかしそうにしながら一緒にチャーハンを食べている健斗を眺めていると、どうでも良いかなと思えた。


「それで?何があったの?」

「…会社の近くで元カレに待ち伏せされてて」

「はあ?!え、何があったの…」

「ヨリを戻してほしいって、言われた」


もごもごとチャーハンを咀嚼しながら、杏里はゆっくりと説明をする。

会社のすぐ傍で元恋人が待っていた事。離婚するから結婚してほしいと言われた事。覚えのない荷物が家の前に置かれていて、それを置いていたのは元恋人だった事。


それらを一気に話すと、健斗はあんぐりと口を開いて杏里の顔を凝視した。


「何それ!」

「いや、私が聞きたい…」

「うっわ気持ち悪い!え、待って?元カレって確か、浮気相手が妊娠したから別れてくれって言って出て行ったんじゃなかった?」

「そうですね…」

「で?自分の子じゃないって?生まれてもないのに?!」

「そこまでは知らないけどさ…」


美味しかったと両手を合わせ、杏里はグラスに入っていた水を一気に飲み干す。

目の前でわなわなと震えている健斗は、気持ち悪いを繰り返していた。


「馬鹿にすんなっつー!ていうか引っ越し先教えてないんだよね?何で知ってんだよ!」

「それは私が知りたい」

「いやでも杏里ちゃん自分の家帰らなくて正解だったね…このまま暫くうち泊まって。仕事もここから行けば良いよ」


何もされなかった?と不安げに眉尻を下げ、健斗は心の底から杏里を心配してくれているように見えた。

迷惑をかけるから帰ると言ったが、健斗は眉間に深々と皺を寄せて「それは駄目」と杏里を止める。


「もし元カレに押し入られたらどうするつもり?男に力で勝てる?」

「それは…無理だけど」

「でしょ?まだここが知られてないなら、うちにいた方が安全だと思うよ」


出来れば仕事はリモートワークの方が安心だと健斗は言うが、今は大事な仕事の真っ最中なのだ。流石にそれは無理だと首を横に振り、杏里は明日からどうしようと溜息を吐く。


「タクシー使う?」

「破産する」

「それくらい俺が出すから。ごめんね、俺が車持ってれば…」

「免許持ってないの?」

「持ってるよ。地元じゃ一人一台車持ってるのが普通だもん」


東京に来てから乗る事が無くなった為、処分してしまったのだと溜息を吐いた健斗は、空になった皿を纏めてシンクに運ぶ。

洗い物くらいはやろうと杏里も立ち上がるが、健斗はそれを止めて風呂に行けと笑った。


「着替えとか何も無いし、後でネットで注文しちゃお。うちの住所分かるよね?ここに届くようにすれば良いから」

「え、本当に良いの?仕事忙しいでしょ?それに…その、何があるか分からないし」

「撮られるかもって事?良いよ別にそんな事」

「良くない!」


大好きなユキが自分のせいで騒ぎになる事だけは避けたい。やっぱり今すぐ帰ろうと荷物を掴んだ杏里の手を、健斗がぎゅうと握りしめた。


「駄目」


睨みつける健斗の目は怖い。ひゅっと細く喉が鳴り、ドキドキと心臓が跳ねる。

怒らせてしまった、どうしようと視線をうろつかせるが、健斗は真面目な顔をしているだけで、杏里が怯える程怒っているわけではなかった。


「絶対、駄目」

「でも…」

「彼女が危険だって分かってるのに、家に帰す程馬鹿じゃない。それに、二人揃ってマンションから出なければ大丈夫。このマンションの住民は沢山いるから」


じっと見つめてくる健斗の目から視線を外す事が出来ない。

迷惑をかけてしまっていると後悔しているが、どうして健斗の家に来てしまったのか自分でも分からない。

きっと、ここなら安全、彼と一緒なら大丈夫と無意識に考えたのだろう。


「あの…迷惑かけて」

「待った」


謝らなければと口を開いた杏里を、健斗は掌を向けて止めた。

ぱちくりと目を瞬かせる杏里の前で、健斗はほんのりと頬を染め、ぽりぽりと頬を掻いた。


「頼られてると思って嬉しかったのに」

「…すぐ、引っ越し先探すから。決まったら出て行くね」

「えー、このまま一緒に住んじゃえば良いのに」

「結婚するなら兎も角さぁ」

「するつもりだって言ってんのに」


ブスッと頬を膨らませた健斗の前で、杏里はもぞもぞと手を動かす。まだきちんと結婚話が進んだわけでもないし、交際が始まって一か月程度。一緒に住むにはまだ早すぎるような気がした。


「ま、そこは追々考えるとして、今は風呂!明日職場にも色々報告するんだよ。あと警察も」

「…やる事多いなぁ」


やっぱり明日は仕事を休んだ方が良いだろうか。流石に突然一日休みをくださいとお願いするのは気が引けるが、事情を話して午後休を貰うくらいは許してもらえるだろうか。


一旦考える事をやめようと溜息を吐き、杏里は渡されたタオルを持って風呂場へと向かう。先日泊まりに来た時に着替えを少しだけ置いてあった事を思い出し、杏里の陣地にしてもらった棚を開く。


以前来た時と変わらない、いつもと同じメーカーの基礎化粧品が入った篭と、着替えを入れた小さな箱がそこにあった。


◆◆◆


それは風呂上りに起きた。

鳴り止まないスマホがひたすら震え続ける。何時まで経っても鳴り止まないスマホを前に、杏里と健斗は二人揃って固まっていた。


知らない電話番号を表示しながら震え続けるスマホは、もうこのまま電池切れになるのを待つか、それともいっそのこと試しに出てみようか迷いどころである。


「誰だろう…」

「信二かも」

「元カレ?」


こくりと小さく頷いた杏里の顔色は悪い。真っ青になりながら震えているのだが、徐々に怒りが湧いて来た。

随分と勝手な理由で振ったくせに、今更ふらりと現れて、ストーカーのような事までしてくれたのだ。一度怒鳴りつけてやりたいが、プライドの高い信二を怒らせると絶対に面倒な事になる。出来れば関わりたくないのだが、こうもしつこく電話をされるとどうすれば良いのか考えたくても考えられなかった。


「しつこいね」

「ね。こんなにしつこい男だったとは…」


まだ電話の相手が信二だとは限らないが、思い当たる電話の相手は信二しかいない。

元々知っていた番号は既にしっかりと着信拒否設定をしてあるし、きっと新しいスマホを契約してまで電話してきているのだろう。


「腹立つから一回出てみる」

「やめなって…」


一度切れた電話が再び鳴る。隣に健斗がいるし、何よりこのマンションの場所も知られていないだろうという安心感から、杏里は通話ボタンをタップし、そのままスピーカーに切り替えた。


『杏里!お前今どこにいるんだ!』

「どこでも良いでしょ」


予想通り、信二の声が響き渡る。怒り狂っているようでビリビリと音割れする程怒鳴っているが、目の前にいないお陰で思っていたよりも冷静に返事をする事が出来た。


外にいるのか、風の音が怒鳴り声と共に聞こえる。恐らく信二は杏里の住んでいるアパートの目の前にいるのだろう。気持ちが悪い、怖いという感情が沸き上がり、どうしてこの男と…なんて過去の自分の見る目の無さを呪った。


『男の所か!?俺という婚約者がありながらこのアバズレが!』


随分と酷い言いようだ。アバズレなんて言われる筋合いはないし、そもそも浮気をしたのは信二の方で、すっかり関係を解消してから健斗と付き合う様になった。今更信二に何を言われようが、「関係無いでしょ」としか言いようがない。


『今すぐ帰ってこい!俺が折角お前とやり直してやるって言ってるんだぞ?この俺が!お前みたいな駄目な女と!』

「私みたいな駄目な女よりも、もっと素敵な人がいるんじゃないの?信二は凄い人だもの」

『お前に俺のやる事に文句を言う権利は無いんだよ。さっさと帰ってくるのがお前に出来る事だ』


隣で聞いている健斗の顔をちらりと見ると、怒りで顔を真っ赤にしているのが分かる。空気を読んで黙ってくれているが、誰が見ても大層お怒りである事は分かった。


「奥さんいる人とどうこうなろうと思う女だと思わないで。私は信二の言う通り馬鹿で駄目な女だけど、不倫する程馬鹿じゃないよ」

『離婚するって言ってるだろ!そんな事も分からないのか?』

「だったら、せめてきちんと離婚してから来るべきじゃない?奥さんに恨まれるのは信二と私になるんだから」

『俺を裏切ったのはあの女だ!何で俺が恨まれるんだ?悪いのはあいつじゃないか!』

「そういう話は夫婦でやってね。私を巻き込まれても困るから。これ以上私に付きまとうなら警察に相談するし、信二の会社にも連絡するよ」


世間体を気にする性格である信二の事だ。こう言えば黙ると思った。思った通り、電話の向こうで信二が一瞬黙るのが分かったが、思っていたよりも怒り狂っていたらしい信二は大きく息を吸い込んで叫んだ。


『どこにいても探し出すからな!』


音割れが酷いが、信二が何を言ったのかは何となく分かった。思わず肩を竦ませたが、信二が怒りに身を任せて電話を切ったようで、通話終了の文字がスマホに表示されている。


「…強烈でしたね」

「お騒がせしました」


ドン引きしている健斗は、お疲れ様と杏里の背中をぽんぽんと叩く。明日は仕事に行くつもりでいたのだが、これだけ怒鳴り散らすような電話をしつこくかけて来たのだから、また会社の近くで待ち伏せていたり、アパート前で待っているかもしれない。


「外…出ない方が良いかも」

「だから俺さっきそう言ったじゃん。朝一番で会社に電話しな。仕事も大事だけど、やっぱり杏里ちゃんの安全が一番だから」

「ごめんね、お世話になります」

「予定より早めの同棲いえーい」


少しふざけた事を言って、健斗は気にしないでとにっこり笑う。

自分のスマホで通販サイトを開くと、何が必要かを杏里に聞きながら、次々とカートに追加していった。


「着替えが無いと困るしー、流石に俺んち女の子の生活に必要な物無いしー」

「待って今手持ちそんなに無い…」

「良いの良いの。気になるなら朝ごはん作って」


これで明日には届くよと嬉しそうに笑いながら、健斗は大きな体をぐいと伸ばす。長いなぁと呑気にそれを眺める杏里の鼻の奥がツンと痛んだ。


どうしてあんな事を言われなくてはならなかったのだろう。

どうして今更こんな事をされなくてはならないのだろう。

どうして放っておいてくれないのだろう。

どうして受け入れてくれるのだろう。

どうして、嬉しそうに笑って抱きしめてくれるのだろう。


「また泣いてー。怖かったね」

「ん…」


頭の中がぐちゃぐちゃだ。溢れてきた涙が止まらず、もう大丈夫だからねと囁きながら頭を撫でてくれる健斗の胸に顔を押し付ける。

どれだけの間此処でお世話になるのだろう。仕事に支障が出てしまうし、皆に迷惑をかけてしまう。どれだけ周りに謝れば良いのだろう。


数か月前にぐちゃぐちゃになってしまった心がやっと癒えつつあったのに、再び踏みつぶされたような気分だった。

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