第17話「元恋人」

気持ちが悪い。漠然としたそんな感情は、会社に向かう電車の中でも続いていた。無事に何事も無く会社に辿り着いてからも、杏里はソワソワと落ち着かない。仕事は何とかこなしたが、帰ろうと荷物を持って立ち上がると、何となく怖くなって足がすくんだ。


「どうした、帰らないのか?」

「あー…仕事、ちゃんと終わったかなって不安に…」


立ち止まった杏里に不思議そうな顔を向けた砂川に、もごもごと口ごもりながら言い訳をした。砂川はへらりと笑いながら「あるある」と頷いたが、早く帰りなさいと促してまた視線を自分のPCに向けた。きっとまだ忙しいのだろう。


「お疲れ様です。お先に失礼します」

「気を付けて帰れよー」


ひらひらと手を振ってくれた砂川に、杏里は小さく頭を下げてオフィスを出る。

この漠然とした「怖い」という感情は何だろう。まるでホラー映画を見た後のような、うっすらとした恐怖。


怖いと思うから怖いのだ。気のせいだと自分に言い聞かせ、耳にしっかりと嵌めたイヤホンからユキの曲を流す。耳に直接流れ込むユキの声。大好きで落ち着く声を聞いていれば、夜道も怖がらずに歩けるような気がした。


いつもより速足で歩き、駅を目指す。早く、早く電車に。心の中でそう繰り返し、杏里は黙って足を動かし続けた。


ユキの声を聞いていても怖い。早く安心できる場所に行きたい。

家に入って、しっかりと鍵を閉めてしまえば良い。さっさと風呂に入って、明日の支度を済ませてベッドに潜り込んでしまえば良い。


子供の頃からそうだが、布団の中は安全だと思うのは何故なのだろう。

すっぽりと布団を被ってしまえば大丈夫だと思っているのは、少々幼すぎる考えだろうか。


「っ…」


駅へと向かう道の端に誰かいる。杏里の他にも歩いている人は数人いるのだが、目を止めた人影は、歩かずにじっと立ち止まっていた。


「よう」

「…信二」


ひらりと手をひらつかせた男は、にっこりと穏やかに微笑んでいる。

数か月前に別れた元恋人、小野田信二だった。


出来れば二度と会いたくない男。顔を見る事すら遠慮したいのに、どうして目の前でヘラヘラと笑っているのか分からない。


私を裏切って出て行ったくせに、何故今更会いに来たのだろう。面の皮が厚いというか、何を考えているのか理解出来ないというか、とにかくただただ不愉快だった。


「何か用?」


出来るだけ平静を装い、イヤホンを外しながら信二を睨みつける。睨まれた信二は怯む事も無くヘラヘラし続けているが、それが杏里の苛立ちを更に加速させた。


「元気にしてるかなーと思って」

「元気よ。用事は済んだね、さよなら」


別れて数ヶ月経ったし、信二の両親から慰謝料代わりに引っ越し代も貰って、新しい家での生活にも慣れた。もう大丈夫だと思えていたのに、今更顔を見せられて心がざわつく。


一刻も早くこの場から去りたい。信二の顔を見ているのが嫌だった。


「久しぶりに会ったんだから、少しくらいゆっくり話そうぜ」

「暇じゃないの。早く奥さんの所に戻ったら?」


信二の両親kが慰謝料代わりの引っ越し代を渡しに来た時、信二は浮気相手の女と結婚したと聞いている。

女の腹には子供がいるのだから、責任を取るべく入籍するのは当然の事だろう。

入籍した事に今更文句を言うつもりはない。そんな権利も無い。ただ、今更話す事も無いし妻に疑われても面倒なのでさっさとこの場から去りたかった。


「離婚するつもりなんだ」


歩き出そうとした杏里の前に出ながら、信二は静かにそう言った。

それは夫婦で話合っていただく話題で、杏里には関係ない筈だ。もしやその話を聞いてほしくてわざわざ会社の近くで待っていたのかと眉間に皺を寄せたが、足を止めてくれた事が嬉しいのか、信二は少し口元を緩ませて言葉を続けた。


「落ち着いたら、すぐ籍入れよう。欲しがってた指輪があっただろう?」

「やめてよ。今更何?離婚するのは勝手だけど、何で私が信二とやり直すと思うわけ?」


不愉快だと顔全体で表しながら、杏里はじりじりと信二から距離を取る。それ以上近寄らないでくれと警戒を込めての行動なのだが、信二はゆっくりと足を進め、止まる事は無い。


「来ないで。大声出すよ」

「何だよ、意地張って…そういうとこ可愛くないぞ」

「彼氏いるから!もうアンタとやり直す気なんか無いの!」

「はあ?俺がいるのに浮気かよ!」

「どの口が!」


何だ何だと周りを歩いている人々が杏里と信二に視線を向ける。痴話喧嘩だとでも思われているのだろうが、職場の近くで騒ぎを起こしたくない。

どうにかしてこの場から逃げるか、穏便に話を終わらせたいのだが、あまりにも勝手な信二の言葉に、杏里は冷静さを欠いていた。


「子供が出来たからって私を捨てたのはそっちでしょ?!今更勝手な事言わないでよ!」

「俺の子じゃない!」


声を張り上げた信二の言葉の意味が分からなかった。

俺の子じゃないという言葉の意味を理解するまでに一瞬時間が掛かり、その隙に信二は一気に距離を詰めて杏里の肩をしっかりと掴む。


「あいつ、俺の他に男がいたんだ。俺の子だって事にして、子供を育てさせるつもりだったんだとさ。な?酷いと思わないか」

「し、しらな…」


怖い。この人が何を考えているのか分からない。血走った目を此方に向ける男が、しっかりと肩を掴んでいるというこの状況が恐ろしくて堪らなった。

逃げなければ、どうにかして信二から離れなければと考える事は出来るのに、恐怖に侵された頭では良い解決策を思い付く事が出来そうにない。


「折角の贈り物、どうして家の外に出したんだ?」

「え…?」

「熊のぬいぐるみ、好きだっただろ?」


ぞわりと杏里の背中が泡立つ。

今朝玄関前で見かけた男の顔までは見えなかったが、ニタニタと笑っている顔を見るに、あれは信二だったのだろう。


「もしかして、目覚まし時計…」

「何であれは家に入れなかったんだ?あの店の雑貨好きだって言ってたのに」


じとりと睨まれ、杏里は今度こそカタカタと小刻みに震える。怖い。この男が何を考えているのか分からない。どうして今更顔を出したのかも、引っ越し先の住所など教えていないのに突き止めたのかも分からない。


何故、彼はこんな事をするのだろう。


ヨリを戻す為に近寄ってくるにしても、もっと他にやり方がある筈だ。ストーカーじみた事をする前に、小野田家の両親から連絡してもらうだとか、もっとやりようがあった筈だ。

こんな事をされて、素直に「貴方と結婚します」なんて言われるとでも思ったのだろうか。


信二の目は血走り、何が何でも言う事を聞かせようと考えているように見える。

付き合っている頃から、信二はとてもプライドの高い人である事は分かっていた。


誰よりも自分が優れていると思っているし、自分の思い通りになるのは当たり前の事で、そうなるべきだと思っている。


信二と一緒にいる時は、その自信たっぷりな所に惹かれたし、尽くせば尽くしただけ大事にしてもらえると思っていた。だが、それは違った。


健斗と付き合う様になって分かった。

何かやってやれば、ありがとうと感謝をしてもらえる。思い通りにならないからと言って、不機嫌になられる事も無い。自分が駄目な女だと罵られる事も無い。


それが普通だと気付いた。

どうして、あれだけ落ち込んでいたのだろう。こんな男と結婚しなくて良かったと今なら思えるのに。彼のどこが良かったのだろう。ただ傲慢なだけなのに。


きっと健司は、こうして迫ればいう事を聞くと思っているのだろう。だから圧をかけるように、顔を近付けて低く唸るように言葉を吐くのだ。


「結婚しよう、杏里」

「…嫌だ」

「は?」

「私、信二とは結婚しない。したくない」


周囲には通行人がいる。この場でこれ以上信二は乱暴な手には出られない。せいぜい大声で怒鳴る程度だろう。それならば、走って逃げれば良いし、警察を呼んでくれと何処かの店に飛び込めば良いだろう。


「ああ…そうか、女ってそうだよな」


信二の手が杏里の肩から離れる。しっかりと握りしめられていた肩を摩る杏里の前で、信二はヘラヘラと不気味に笑って言った。


「結婚前の女って、精神的に不安定になるんだっけ?杏里もそうって事だよな」


そうだ、だから可愛くないんだ。ブツブツとそう呟く信二は、分かったような顔をして杏里の頭を優しく撫でる。

昔はこうしてもらえるのが嬉しかった。好きだった。だが今は、気持ちが悪いとしか思えない。


「今日は帰るよ。またゆっくり話そうな」

「は…?」

「婚姻届けも俺が貰ってくるから。判子用意しとけよ。それから、杏里の家の鍵も」


杏里が結婚を本気で断ると思っていないのか、信二は言いたい事を一気にまくしたてると、ひらひらと手を振って歩き出す。これから駅に向かって、電車に乗って帰るのだろう。妻と、その腹の中にいる子供の元へ。


どうして裏切ったの。どうして私を捨てたの。

ぐるぐると頭の中でそんな事を考えても仕方ない事は分かっている。別れて良かったと思えている筈なのに、籍を入れる前で良かったと思えている筈なのに、ぐちゃぐちゃに乱れてしまった心を落ち着かせる事が出来なかった。

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