第19話「両親襲来」

ダラダラと嫌な汗をかいてしまうのは、親からの電話があれば当たり前の事。ゆかりは「それは流石に無いかな」と言っていたが、見合いを勧めてくる父から電話が来れば、流石に一旦動きを止めてしまった。


健斗は仕事に出ており、現在杏里一人きりのリビング。別に悪い事も叱られるような事もしていないのだが、緊張しながら正座をしてスマホ画面を見つめた。


何度見ても「父」と表示されており、いい加減出ないと面倒くさいぞと分かっていても、出たくない!という感情の方が大きかった。


「くっ……もしもし?」

『もしもし、忙しいか?』

「ううん、大丈夫…どうかした?」


覚悟を決めて電話に出ると、父はいつも通り静かな低い声で話し始める。

普段連絡をしてくるのは母ばかりで、父からの伝言を伝えられる程度。直接父が電話してくるのは珍しい事だった。


『いや…今お前のアパートにいるんだが…何だ、このドアは』

「え?!お父さん何でうちにいるの?!」

『質問を質問で返すな。ボコボコに凹んでいるんだが…何かあったのか?』

「えっとぉ……」


賃貸!と頭を抱え、杏里はわしわしと頭を掻き回す。電話の向こうの父はいつまでもはっきりとした事を言わない娘に苛立っているようで、「説明しなさい」ともう一度言った。


もうこれは大人しく白状しようと、杏里はぎゅっと拳を握りしめ、信二との出来事を話す。


ストーカー紛いの事をされている為、警察に相談の上今付き合っている人の元へ隠れている事を告げると、父は「なんだと」と低く唸った。


『何故俺たちに報告しない』

「だ、だって…心配かけたくないなって」


絶対に実家に戻ってこいと言われるから言いたくなかったのだが、父は大きな溜息を吐いて言葉を選んでいるのか、少しの沈黙が流れた。


『無事なのか?』

「え?うん、無事だよ。怪我も何もしてないし、ぴんぴんしてる」

『そうか。無事で良かった』

「あの、心配かけてごめんね」

『幾つになっても、お前は俺の娘だ。父親が娘を心配するのは当たり前だろう』

「それは分かるんだけど…」

「ただいまー!…あ、ごめん」

『ん、お世話になっている方か。代わってくれ』

「いやでも…」

『代わりなさい』


電話の向こうの父の顔は、きっと険しいものだろう。ごめんと顔の前でジェスチャーをしながらスマホを健斗に手渡すと、小首を傾げた健斗はぱちくりと目を瞬かせた。


「お電話代わりました…」


誰?と言いたげな顔をしていたのだが、みるみるうちに健斗の表情が固まっていく。うろうろとリビングを歩き回り、最終的に気を付けをしながらぺこぺこと頭を下げている。


「は、はい!杏里さんとお付き合いをさせていただいております、米倉健斗と申します!あの、結婚を前提に…はい、はい…」


何を話しているのかは分からないが、恋人の父親というラスボス急の相手と突然電話で話をする事になった健斗が緊張で吐きそうな顔をしているのは当然の事だろう。


「え?あ…いえ…その、僕は杏里さんと一緒に生活出来るのが嬉しいですし、迷惑だなんてそんな…」

「何の話…」

「セキュリティ面はご安心ください。あの、杏里さんは暫く外に出ない方が良いと思いますので、お呼び立てしてしまって申し訳ございませんが、お母さまも一緒にいらっしゃいませんか?」


待て待て待てとスマホを奪い取り、父に「代わった!」と声を張り上げる。

まだ話の途中だと父は不満げだが、健斗の印象は悪くなかったようで、先程よりも声のトーンは明るく思えた。


『母さんと一緒に今から行く。住所を送ってくれ』

「今から?!ていうかお母さんいたの!?」

『手土産を買ってから行く。早めにな』


そこまで言って、父はあっさりと電話を切ってしまった。ぽかんとした顔で呆けている杏里の前で、健斗は手汗が凄い!と騒ぎながら穿いているジーンズに掌を擦り付けていた。


「今から来るって…」

「え、待って俺この服じゃ駄目じゃない?!ちょっと…あの、綺麗めな服選んで!」

「気にするとこそこ?」

「大事でしょ!彼女のご両親に会うんだよ?!杏里ちゃん俺の親に普段着で挨拶行ける?」

「…私が悪かった」


父宛てにマンションの住所と最寄り駅を送り、杏里は健斗と一緒に「彼女の親受けが良さそうなコーディネート」を選び始める。

頭の片隅で「気にするとこはそこなのか」と考えてしまうが、恐らく健斗は健斗でパニックになっているのだろう。


そういえば、何故両親が杏里のアパートに来たのか理由を聞けていなかった。後で聞こうと考えながら、杏里は健斗のクローゼットに入っているフーディー率の高さに頭を抱えた。


◆◆◆


四人の大人が黙って座っている時間を表現するのに「地獄」という言葉を使っても良いだろうか。

健斗と杏里の両親が自己紹介を終え、簡単に何があったのかを改めて説明すると、杏里の両親は頭を抱え、溜息を吐いて黙り込んでしまった。


さてこの空気をどうしようと考えているのだが、残念ながら良い案が浮かぶことは無さそうだ。


「あのう…ずっと気になっていたのだけれど」


沈黙を破ったのは母だった。

恐る恐るといった様子で小さく手を上げており、どうぞと杏里が手で指し示すと、少しだけワクワクとした表情で母は口を開いた。


「ユキさんにそっくりねぇ」


他に言うことは無かったのかと脱力した杏里の隣で、健斗はへらりと笑って「本人ですー」と返す。


「ええ?!ユキさんなの?!え、杏里の彼氏さんなのよね?杏里が大騒ぎしてたあのユキさん?!」

「ちょ…あの、お母さん、そこなの?」

「だってさっきからずっと気になってたんだもの…それに、母さんタワーマンションなんて初めて入ったわ」


正面玄関で既に驚いていたようで、母は少しテンション高めに微笑んでいる。娘が心配という気持ちは持っているようだが、縁遠い世界にほんの少し触れた事で興奮しているのは、田舎者あるあるなのかもしれない。


「セキュリティは安心ですよ。オートロックですし、警備員がいつもいますから…何かあればすぐ駆けつけてくれます」

「流石東京ね…ね、お父さん」

「ん…」


ソワソワと落ち着かない父は、窓の方をチラチラと何度も見ている。そういえば高い所が苦手だったなと思い出し、杏里はそっとカーテンを閉める為に立ち上がる。


「あー…そういえば、何で二人共うちに来てたの?」

「ああ…昨日信二君がうちに来たんだ」

「何で?!」


父が言うに、信二は杏里の実家に突然現れ、父の前で深々と頭を下げたらしい。

今更だが杏里に謝罪をしたいが、電話をしても繋がらないし、以前一緒に住んでいた部屋は既に引き払われ知らない夫婦が住んでいた。

もしかして実家に戻っていて、ここに来れば会えるのではないかと思ったと言っていたそうだ。


「杏里はいないと言って追い返したんだが…今朝もうちの様子を伺っているようだったから、これは何かあったなと思って…」

「お父さんは普通に仕事に行ってもらって、私もパートに出たの。それで、そのまま帰らずに待ち合わせをして杏里のお家に行ったのよ」

「電話してくれたら良かったのに」

「したわよ!なのに一度も出ないから…」


信二からの電話はしつこく鳴っていたが、両親からの電話は来ていない筈だ。慌てて確認すると、山のような信二からの電話に埋もれ、何度か両親からの電話がかかって来ていた事に今気付いた。


「ごめん…信二から物凄い数の電話が来るから、鳴り始めたら見ないようにしてたの」

「家に行ってみたらドアはボコボコになってるし、何度インターホン鳴らしても反応無いし!どれだけ心配したと思ってるの?!」

「ごめんなさい…」


いい歳をして親に叱られ、杏里はしょんぼりと肩を落として俯いた。

親に心配を掛けたくないからと何も連絡をしていなかったのだが、まさか信二が実家に行くなんて思いもしなかったし、こんなに面倒な事になるとも思っていなかった。


「うちにも近付かん方が良い。米倉さんにはご迷惑をおかけしますが、もう暫く娘がお世話になっても宜しいでしょうか?」

「勿論です。このままいつまでも居てほしいくらいですから」


にっこりと微笑んだ健斗は、深々と頭を下げる両親に頭を上げてくれと懇願し始める。助けてーと小声で杏里に助けを求めるが、この状況が面白いのでもう少し見ていたい気もした。


「あの、もう遅いですし宜しければ泊まって行きませんか?流石に寝具が足りないので、ゲストルームになりますが」

「いや、私たちまでお世話になるわけには…」

「久しぶりに杏里さんとご飯を食べるのも楽しいと思います。ね、杏里ちゃん」

「そうだねぇ…健斗さんが良いって言ってくれてるんだし良いんじゃない?」

「よーしそれならラウンジ行きましょう!美味しいらしいんですけど、僕一人じゃ行きにくくて行った事無いんです」


家賃払ってるのに共用部を使わないのは勿体ないからと言って、健斗はニコニコと微笑みながら杏里の両親を誘ってラウンジへと向かう。

よく笑う人ねと母は杏里に耳打ちをするが、本当は健斗がド緊張している事は、杏里が見ればすぐに分かった。


◆◆◆


「本当にありがとうございました」


翌朝、杏里の両親が帰って行くのを見送ると、杏里は健斗に向かって深々と頭を下げる。

突然来た両親を快く迎えてくれただけでなく、父を連れてラウンジで遅くまでお酒を呑んで話をしてくれたのだ。


健斗曰く「杏里ちゃんは俺が守りますって約束したんだよ」との事だったが、恐らく信二との一件で娘を心配している父を安心させる為に頑張ってくれたのだろう。


「お父さん超良い人だった!また遊びに来てくれないかな」


ホクホクと嬉しそうな顔をしている健斗だったが、突然の来客をもてなしていたせいで夜にやるつもりだった仕事を放り投げている。

数ヶ月後にライブも控えているし、大忙しである筈なのに申し訳ない事をしたと、杏里は何度も謝る事しか出来なかった。


「お父さん、お見合いの話は断ってくれるってさ」

「本当?!」

「うん。娘をよろしくお願いしますって言ってたよ」

「望まぬ結婚回避…」


他にもあれこれ話をしたようだが、これ以上の事は男同士の話だからとはぐらかされ、教えてもらえなかった。


まだまだ考える事は沢山あるが、両親は健斗との関係をゆっくりと見守るつもりなのだろう。今はそれが嬉しかった。


「あ、ヤバ…そろそろ出ないと遅れちゃう」

「それは大変だ。気を付けて行ってね」

「杏里ちゃんもね。外出たら駄目だよ」

「大人しくしてます」


大急ぎで支度を済ませ、行ってきますと玄関を出た健斗を見送りながら、杏里はひらひらと手を振った。

賑やかだった部屋に一人取り残され、何となく寂しくなった。


ぐるりと部屋を見回しても、朝食を終えたばかりで片付けていない、少しだけ散らかった部屋が広がっているだけ。


早く帰って来ないかなと健斗を恋しく思いながら、キッチンとテーブルを片付けるべくエプロンを身に着けた。


まるで結婚したばかりの専業主婦のような生活は、正直言って退屈だった。今頃職場はどうなっているだろう。折角思い付いた企画は、提出する事すら出来ずに無かった事になる。


もしかしたら大きな仕事を任せてもらえるかもしれないと浮足立っていただけに、仕事が出来ない事がもどかしくて堪らなかった。


ゆかりから心配する連絡は何度も届いているし、仕事は気にするなと砂川からも連絡が来ている。早くこの状況が落ち着いて、元の生活に戻りたい。


警察に相談してみたが、近隣のパトロールを強化しますと言われただけで、それ以上の事は何も出来ないと言われてしまった。

いつになったら自分の家に帰れるのだろう。いつになったら仕事に行けるのだろう。


もしかしたらこのまま家に帰れず、仕事も辞めなくてはならないのかもしれないと思うと、鼻の奥がツンと痛んだ。


もしも漫画の世界のように過去に戻る事が出来たのなら、絶対に信二に恋をする事は無いだろう。過去の自分を呪いながら、ケチャップで汚れた皿をごしごしと擦る事に集中した。

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