第12話「お宅訪問」

彼氏が出来た実感はあまりない。健斗は今まで通り連絡をくれるし、お互い仕事もある為会う時間は限られている。


『仕事の締め切りがやばい。頑張れない』

『私のユキの為に頑張ってください』

『俺なんですけど』

『お黙り』


健斗が彼氏になったという認識はあるのだが、どうにもユキと健斗が結びつかなくなっているのは、どうすれば良いのか分からない。

恐らく普段ユキとして見せている顔と、健斗として見せている顔が違うだとか、健斗と話しているとケンケンと話していた頃を思い出すだとか、あまり健斗=ユキであると結びつく要素が少ないせいなのだろう。


仕事帰りに歩きながらスマホを見るのは何だか楽しい。久しぶりに「付き合いたての彼氏と連絡を取り合う」というイベントを楽しんでいるような気分で、杏里の口元は緩んだ。


公園でお喋りをしてから一週間ほど。あれからお互いに忙しくしており、あれ以降顔を合わせていない。手を繋いで家まで送ってもらった事を思い出し、何となく恥ずかしくなってぎゅっと目を閉じた。


浮かれるんじゃないと自分に言い聞かせ、大きく息を吸った。

もう少し長く付き合っているのなら、健斗の家に差し入れを持って行ってやっても良いのかもしれない。だが、あまり健斗のプライベートに踏み込まない方が良いかもしれないとも思っている。


何処で誰が見ているか分からない。健斗の住むマンションに張り込んでいる記者なんかがいて、写真を撮られたら大騒ぎになってしまう。そうでなくとも、現代はスマホを持った一般人がうじゃうじゃいるのだ。ユキがいると気付かれて、隣に女がいるとなれば騒がれかねない。


恋人の邪魔になってはいけない。ひっそりと隠れて交際をしようと言ったのは杏里の方だ。

今人気のアーティストのスキャンダルは避けた方が良いに決まっている。それを懸念していたから交際に関して悩んでいたのだが、健斗が十年以上自分を想い、いつかを夢見て努力を重ねていた事を知ってしまえば、お付き合いは出来ませんなど到底言える筈も無かった。


好きかどうか聞かれたら好きだと思う。ユキである事を抜きにして、米倉健斗という男性として好きだ。一緒にいる時間は楽しいし、連絡が来れば嬉しいと思う。会えなくても電話はしているし、電話越しに聞こえる声に安心もする。ただ、外で会うのが少しだけ怖かった。


ぼうっとしながら交差点で信号待ちをしていると、握りしめたままのスマホが震える。画面を見れば、健斗からの着信だった。


「もしもし?」

『もう無理ー!歌詞浮かばないよー!』

「おうおう…疲れてる?」

『疲れたよ…朝からずっと頑張ってるのに全然進まなくて…』


電話の向こうで半泣きになっているのか、健斗はうだうだと愚痴をこぼす。書いては消し、消しては書きを繰り返しているうちに、何が良いのか分からなくなって一度作業の手を止めて電話をかけてきたそうだ。


『杏里ちゃんに会いたい…』

「う…」


一週間前に会ってからまだ会えていない。会いたい気持ちが杏里に無いわけではないし、切な気な声で言われてしまうと心がぐらついた。

普通のカップルならば、今から行こうか?と簡単に言えるのだろう。だが、相手は「普通の人」では無い。


「ごめんね」

『ううん、俺の仕事のせいだから良いよ。でもやっぱり、普通に会いに行きたいし、会いに来てほしいな』


どう返事をすれば良いのか分からなかった。信号が青に変わり歩き出したが、「うーん」と小さく唸るだけで言葉を絞り出す事は出来ずにいる。


『まだ外?帰り道?』

「そう、今帰ってるとこ。駅までもう少しかな」


この交差点を渡り切ればもう駅だ。電車に乗って、あとは家に帰るだけ。一人きりの、寂しい部屋が待っている。


「帰ってご飯作らなきゃ。何作ろうかな」

『俺カレー食べたい』

「作ったら?」

『一人分のカレーって作るの難しくない?絶対三日分くらいになって、最後の方飽きちゃうの』

「わかる。最終的にうどんにしちゃったり、ドリア風にしたり…」


あるあるだよねと笑い合っているうちに、駅の改札口に着いてしまった。電話を切って、電車に乗らなければ。そう思っているのに、電話を切るのが惜しい。

もう少し話していたい。あと三分だけ…そう思ってしまう自分が、何だか厚かましく思えた。


『あれ、駅着いた?』

「あ…うん、改札前だよ」

『うちの最寄、目黒です』

「行かないから!」


ですよねーと笑った健斗は、早く帰るんだよと言って電話を切った。行かない、絶対に行かないぞと自分に言い聞かせ、杏里は改札にスマホを翳した。

明日は休日。朝はのんびり起きて、昼頃になったら外でのんびりカフェにでも行って優雅なランチを食べるのだ。


◆◆◆


ガサガサとビニール袋の音をさせながら、杏里はとあるマンションのロビーで頭を抱えている。タワマンなんて場所に入った事の無い自分が何をしているのかと自問しても、答えは「浮かれたせい」としか出せなかった。


「着いたよ」

『今開けるねー』


駅のすぐ傍で買い物を済ませ、健斗に電話を掛けた。すぐに出た健斗に「住所教えて」と言えば、健斗は杏里がすぐ傍に来ている事を察したようで、嬉しそうな声でナビをしてくれたのだ。


目の前で開いた大きな扉。中はピカピカに磨き上げられた床。気を抜いたら滑りそうだなんて馬鹿な事を考え、エレベーターのボタンを押した。


「何階?」

『13階!』


電話の向こうでガタガタと音がする。きっと玄関を出て迎えに来てくれるつもりなのだろう。バタンと音がして、それと同時に杏里の前のエレベーターが扉を開いた。


沢山のボタンの中から「13」と書かれたボタンを押す。最上階は25階らしく、そのボタンを押す人はどんな人なのだろうと遠い目をしてしまった。


あまりにも静かできちんと動いているのか不安になりながら、袋の中身を確かめた。中身はカレーの具材である。


ポーンと少し高い音がした。静かに開いた扉の向こうには、スマホを耳に当てたままの健斗が立っていた。


「本当に来てくれた」

「いや…来るつもりは無かったんだけど…」


もごもごと口を動かす杏里は、スマホの通話を切って上着のポケットに捻じ込んだ。

他の住民の姿は見えないが、いつ誰が通るか分からない。早く行こうと健斗を急かしたくなったが、それでは早く部屋に行きたいと言っているようなものではないかと動きを止めた。

早く部屋に行きたいのは確かだが、別に色気のある理由ではなく「見つかりたくない」という恐怖心から来るものだった。


「行こ、こっちね」


ニコニコと嬉しそうな健斗は、杏里が持っていた袋をさっと取り、そのまま手を握って歩き出す。一日家にいたのか、ラフな格好をしている健斗をそっと見上げれば、本当に嬉しそうに口元を緩ませていた。


「はい、こちら我が家です。あんまり綺麗じゃないけど…」


引かないでねと付け足した健斗が部屋の扉を開いた。お邪魔しますと小さく呟いて玄関に入ったのだが、何足かの靴が出したままになっている。


真直ぐ進むと、半開きになった扉があった。慌てて出て来てくれたのだろうと小さく口元を緩ませて中に入ると、成人男性の一人暮らしといった様子の部屋が広がっていた。


「…成程!」

「うわー!もう来てくれるなら頑張って片付けたのにさ!」

「来てほしいって言うから…」

「そうなんだけどさ!」


恥ずかしい!と騒いでいる健斗が、ソファーにひっかけていたタオルを取って廊下へ出る。あちこちに脱ぎ散らかした服が落ちていたり、キッチンには飲み終わったペットボトルやら、コンビニのパックなどが散らかっていた。


「片付け苦手なんだよね…忙しくて家の事までやってらんないっていうか…」

「あーあ…折角のタワマンが…」

「最初は頑張ってたんだけど…誰も呼ばないし良いかなって…」


大きな溜息を吐いた健斗は、袋の中身が食材である事に気付くとすぐさまキッチンへ向かう。


「カレーだ!」

「作る前にキッチン掃除だね。仕事は良いの?」

「正直ちょっと…やばいかも?」

「じゃあ仕事してて。出来上がったら声かけるから。袋とかどこ?」


上着を脱ぎ、髪を纏めて杏里は頭の中で片付けと調理の段取りを考える。キッチンを片付け、食材を煮込んでいるうちに可哀想な事になっている食卓であろうテーブルを片付ければ良いだろう。終わる頃には煮込み終わっているだろうし、ルーを入れてかき混ぜてやれば完成だ。


「いやいやいや、そんな事させられないって」

「…彼女の手作りカレー食べたくない?」

「食べたい!」

「じゃあ大人しく仕事してて。キッチンあれこれ開けるけど許してね」

「…お世話になります。あ、お米はそこ!袋はこっちで、調理器具はここ…」


最初は頑張っていたという言葉は本当だったようで、調理器具は一通り揃っていた。あちこち散らかってはいるが、ゴミ出しはやってるようで、ゴミは思っていたよりも少ないように見えた。他の部屋は見て見ないと分からないが。


「はい、仕事仕事!働かざる者食うべからず!」

「うう…爺ちゃんみたいな事言う…」


ぐいぐいと健斗の背中を押しキッチンから追い出すと、杏里はキッチンに散らばったゴミを集め始める。ゴミ捨て場まで持って行くのが大変そうだななんて考えていたが、各階にゴミ捨て場がある事を知るのは、一時間後の事だった。


◆◆◆


慣れない家で家事をするのは大変だった。あれはどこだこれはどこだと探す手間もあったし、カレーを作る事にして正解だったと思う。

ふわりと湯気が立ち、カレーの匂いが鼻をくすぐり始めた頃、健斗がひょっこりと顔を出した。


「良い匂い…」

「今出来たとこ。食べる?」

「食べる!」

「手洗って来て」

「了解!」


パタパタと足音を立てて洗面所に向かった健斗は、何だか犬のように思えた。やけに大きな犬だなと少し呆れ、杏里は棚を開いて皿を出す。人の家の棚やら冷蔵庫を開くのは少し気が引けたが、もうここまでやったのなら今更気にしても仕方が無いだろう。


「洗った!」

「はい、スプーンとか出してー。飲み物とかお願いねー」

「おっけー任せて!」


嬉しそうに微笑みながら動く健斗の尻に、大型犬の尻尾が見えるような気がした。

本当にユキとは印象が違う。例えるならば、ユキは気紛れな猫のように思えるのに、健斗は人懐こい大型犬のように思える。


オンとオフの切り替えをしているのかもしれないし、杏里の前ではただ素が出ているだけかもしれない。どちらにせよ、健斗を見ていてもユキである事を忘れてしまっていた。


「出来た!」

「はい、じゃあこれ持って行ってね。サラダ出すから…」

「え、サラダまで作ってくれたの?」

「野菜食べてからの方が血糖値の上昇抑えられるでしょ」

「俺の女神…」


ゴミを捨てている時、サラダが入っていたらしいパッケージを幾つか見た。普段からきちんと食べようとしているようだが、出来合いの物を購入してばかりでは出費もかさむだろう。

健斗の稼ぎなら心配いらないだろうが、やや所帯じみている杏里はそこが気になって仕方が無かった。


「座ろー!俺腹ペコ!」

「はいはい…」


ローテブルにきちんと並んだ食事を前に、健斗は早く食べたいと顔を輝かせている。

元恋人と比べるのは申し訳ないが、これだけ大喜びしてもらえるのなら、作り甲斐もある。


「いただきます!」

「はいどうぞ」


揃って座ると、待ちきれないらしい健斗はすぐさま手を合わせる。千切ったレタスとトマト、キュウリにドレッシングをかけただけのサラダを美味しそうに頬張り、嬉しいと微笑む健斗は何だか可愛かった。


「彼女にご飯作ってもらうとか憧れだったんだよね…夢が一つ叶った」

「大袈裟な…」

「何なら彼女が自分の家に来るってのも憧れ。二つ叶った…もしかしたら今日が命日になるのかもしれない」

「大袈裟だっつの」


そこまで言われると何だか照れ臭い。誤魔化すように杏里もサラダを頬張って、健斗から視線を逸らした。


「後で洗濯物片付けないとね。夜に外干ししても大丈夫な人?」

「や、うち外に干しちゃ駄目…っていうかそもそもベランダが無い」

「はい…?」

「ドラム式洗濯機って、便利だよね」


どうやら健斗が住んでいるマンションは、規約で外に洗濯物を干してはいけないことになっているらしい。タワマンなんて建物に円もゆかりもない杏里は、くらりと頭が揺れたような気がした。


このままこの人と付き合っていても良いのだろうか。忘れかけていたが、彼とは住む世界が違う。

杏里が住んでいるアパートはセキュリティなんて言葉はせいぜい鍵が付いている程度のもので、ベランダに洗濯物を干す事を禁止しているなんて事もない。時々布団を干して、干したての布団を堪能するのは至福の時だ。


「お布団…どうするの?」

「布団乾燥機だね」

「わあ…」

「住み始めた頃は干したての布団が堪能できないって悲しかったけど、今はもう慣れたかな」


へらりと笑った健斗の口元には、サラダのドレッシングが付いている。付いてるよと教えてやれば、少し恥ずかしそうな顔をしながら指で拭っていた。


「買い物行くのも大変じゃない?重たい荷物持ってエレベーター乗って…」

「ああ…最近自炊してないからコンビニの袋だけだけど、よその奥さんたちはネットスーパーとか使ってるみたい。たまに業者さん見るよ」

「お金持ちだあ…」


自分で買い物に出る事しか考えていなかったが、お金持ちはお金で物事を解決できるのだろう。各階にゴミ捨て場があるのも、業者が頑張ってくれる代わりに高い賃料を払っているのだと考えれば納得だった。


「ん、美味しい!」


嬉しそうな顔をしてカレーを頬張る健斗の隣で、杏里は何となく居心地が悪かった。窓の外に広がる景色は、地面が随分と下にある。同じような高層ビルがいくつも並んでいるのだが、大きな地震が来たらどうするのだろうとか、火災が起きた時逃げるのが大変そうだとか、そんな事ばかり考える。

この場所に、私は相応しくない。この人に釣り合わない。そんな事を何度も何度も考えて、幸せそうにカレーを平らげる健斗の隣で俯いた。


「どした?」

「…ううん、何でもない」


きっと慣れていないからだ。健斗の部屋に来たのは初めてだし、交際を始めてからまだ一週間。慣れていないからどうすれば良いのか分からず、戸惑っているだけ。きっとそうだと自分を納得させ、少し冷めたカレーを頬張った。

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