第11話「健斗の昔話」

幼い頃、健斗は父方の祖父と両親と共に暮らしていた。両親は仕事が忙しく、祖父に構ってもらう事が多かった。

祖父はとても優しく、孫を溺愛している人だった。健斗もそんな祖父によく懐き、友達と何をして遊んだだとか、学校でこんな事があったと話すような子供だった。


「爺ちゃん、お腹空いた」

「おう、じゃあおやつにするか」


そう言って、祖父は可愛い孫の為に沢山の歌詞を用意してくれた。食事も山ほど用意してくれていたし、健斗は家にいる間空腹を知らずに育った。両親に甘える事が出来ない寂しさを、食べ物で埋めたのだ。

そんな生活をしていれば、自然と体は大きくなる。上に上にと伸びるだけならば良かったのだが、しっかりと体には肉が付き、周りの子供に比べて随分と恰幅の良い子供になった。祖父は「男は大きくて良いんだ」と言っていたし、健斗もそれで良いと思って生きて来た。小学生の頃は良かった。幼い頃からの顔馴染みばかりだったし、健斗がふくよかなのは当たり前の事で、何か言うような子供はいなかったのだ。


ところが、中学生になると嫌がらせをされるようになった。悪口を言われるのは当たり前。物を隠されたり、そのうち先生に隠れて殴られたりする事もあった。


「オイ、お前何でそんなデブなの?」

「夏場のデブって見てるだけで苛々するんだよ」


明るい性格だった健斗は、そんな中学時代を過ごしていくうちにだんだんと暗い性格へと変わっていった。

思春期特有のニキビ面、それを見られるのが嫌で伸ばした前髪。自信無さげに丸めた背中が気弱そうに見えるせいか、苛めてくるグループの男子たちはニヤニヤと笑みを浮かべながら健斗に暴言を吐き続けた。


祖父に心配を掛けないように、健斗は毎日きちんと学校に行った。嫌な事をされる、言われると分かっている場所に通うのは苦痛だったが、家に戻れば祖父が笑顔で迎えてくれる。そう思えば頑張れた。


「おかえり健斗。おやつ食べるか?」

「ただいま爺ちゃん。食べる」


にっこりと微笑む祖父は、健斗が中学二年になった頃足を悪くした。家の中でも杖を突き、以前と比べて随分ゆっくりと歩くようになった。何だか小さくなったなと思う事が増えたが、祖父は毎日可愛い孫の為に食べ物を用意する。

爺ちゃんが子供の頃は食べるものに困ったから。可愛い孫にはひもじい思いをさせたくないんだよ。いつだったか祖父が言った言葉を忘れられず、用意してもらった食事はいつだって残さず平らげた。


食べれば祖父が喜んでくれる、食べている間は嫌な事を忘れていられる。お腹が満たされていれば、嫌な事を考えずに済む。

食べなければ、食べていれば…それが、健斗が自分の心を守る手段だった。


「健斗…お爺ちゃんが」


ある日、帰宅すると普段仕事でいない筈の母がいた。顔を青くし、震える声で言ったのは、祖父が倒れたという話。健斗が帰宅する少し前に救急車で運ばれたと言うのだ。


台所には、祖父が何か作ろうとしていたのか鍋の中に切った野菜が入っていた。テーブルの上にカレールーが置いてあり、きっと今日の夕飯にするつもりだったのだろう。育ち盛りの孫の為、震える手で大量の玉ねぎを刻んでいたらしい。台所に漂う玉ねぎの匂いが、健斗の鼻の奥を痛ませた。


祖父はすぐに入院となったが、二度と家には戻ってこなかった。健斗は知らされていなかったが、随分前から心臓が悪かったらしい。入院して三日後、祖父は静かに息を引き取った。大好きな祖父が眠る棺を覗き込んだ時、健斗は胸にぽっかりと穴が開いたような気がした。


「爺ちゃん」


いつもなら、「どうしたー」と笑ってくれる筈の祖父は何も答えない。ただ静かに眠っているかのように、目を閉じたままだった。


「爺ちゃん、腹減ったよ」


祖父の作る大学芋が大好きだった。もう二度と、祖父の作った大学芋は食べられない。祖父と散歩をするのが好きだった。杖を突くようになってからはあまり行けなくなってしまったが、調子がいい時は家の周りをぐるりと回った。もうそれも出来ないのだ。


「爺ちゃん」


この先どうしたら良いのだろう。

祖父が出迎えてくれるから、毎日どれだけ辛くても学校に行った。毎日酷い事を言われても、その辛さを祖父が癒してくれた。祖父が居なくなってしまったら、耐えられる気がしない。もう頑張れない。


「健斗、爺ちゃんから」


目尻をうっすらと赤くした父が、一枚の紙を健斗に渡す。自分の父親を亡くしたのだから泣いていても何ら不自然では無いのだが、父の泣き顔を初めて見た健斗は、何となくおかしなものを見た気分でそれを受け取って開いた。


—がんばれ。じいちゃんは、みかた


大きく書かれたそれは、ミミズのようにのたくっている。ぶるぶると震える手で、孫の為に必死の思いで書いたのだろう。

爺ちゃんは味方。その言葉を生きている間に聞かなかったのは、学校での出来事を祖父に話さなかったからだろう。だが、祖父は孫がどんな学校生活を送っているのか知っていたのかもしれない。知らなかったのかもしれないが、何となく気が付いていたのかもしれない。


人よりも大きな体を丸め、声を上げて泣いた。仕事ばかりの両親よりも、祖父の方が好きだった。大好きだった。幼い頃は一緒に流れ星を見た。夏休みは近所の川で釣りをした。何も釣れなかったが、祖父と過ごす時間が大好きだった。


誰よりも優しくて、大好きな祖父は焼かれて小さな壺になった。それも墓に入ってしまえば、家に残ったのは仏壇に飾られた写真だけ。ぽっかりと開いた穴を埋めたくて、健斗は買い食いをするようになった。親からもらう小遣いの殆どを食べ物につぎ込み、足りなければ自分で台所に立った。

そんな生活をしながら、健斗は高校生になっていた。


中学で嫌がらせをしてきた男子たちとは別の学校になったが、すっかり暗い性格になってしまった健斗は、新しい友人を作る事が出来ずにいた。苛められる事は無かったが、何となく遠巻きにされている事は分かっていた。苛められないならそれで良いと、健斗は積極的に友人を作る事は無かった。


だが寂しいと思わないわけではない。その頃父に貰ったお下がりのパソコンでネットの世界にどっぷりとハマった。

現実世界にない居場所が、ネットの世界にはあった。当時はやり始めたSNSを始め、自分ではない自分を作り上げ、同じ趣味の人を数人フォローしてみた。


当時音楽を自分で作る人が増え始め、健斗も何となく興味を持った。誕生日に両親に音楽制作ソフトをおねだりして、ぽつぽつと音楽を作るようになった。初めの内はアップしても殆ど再生数は増えなかったが、音楽仲間も出来て、そのうち徐々に再生数も増えるようになってきた。


そのうちとあるハンドルネームのコメントが毎回動画に付くようになった。「おにぎり」という名前のアカウントは、見つけてくれたのかSNSもフォローしてくれた。


当時まだフォロワーの少なかった健斗は、「フォローありがとうございます。また新曲上げますね」とおにぎりにリプライを送った。

それが切っ掛けになり、ケンケンとおにぎりの仲が始まったのだ。


現実世界の健斗は太った根暗な男子高校生。

ネット世界のケンケンは、音楽を作るのが好きで友人も多いキラキラとした男子高校生。


現実と理想の乖離が激しいなと自嘲する事もあったが、それでも良い。どうせネットで知り合った人と実際に会う事など無いのだから。


おにぎりはとても優しい子だった。新曲をアップすれば毎回すぐに聞いてくれたし、聞いた後すぐさまコメントをくれた。SNSでは時々落ち込む事があっただとか、学校でこんな事があったーと愚痴を書き込む事もあったが、大体の投稿はオタクなんだろうなというテンションで、好きなアニメや漫画の感想を書き込んでいる。


『ケンケン天才では?アンチコメとか気にせんでよし!才能に嫉妬されてますなwww』


ある日初めて付いた嫌なコメントに落ち込んでいると、いつものように動画を見たらしいおにぎりからそんなメッセージが来ていた。

追撃するようにどこが良かった、歌詞のここが好きと細やかに感想を送ってくれたおかげで、健斗はあまり落ち込まずに済んでいた。


おにぎりってどんな子なのかな。


そう考えるまでにあまり時間はかからなかった。関東に住んでいる同じ歳の女の子である事は知っていたが、それ以上の事は知らない。


『ありがとー。あんまり気にしてないから大丈夫!』


本当は少し気にしていたが、心配をさせないようにと明るい文面でそう返事をした。


『流石天才P!この先大物になりますな。今の内にサインくれ!』

『サインとかないからwww』


元気付けてくれるおにぎりは優しい。とても優しい女の子は、まだ何か打ち込んでいるようで、入力中と表示が出ていた。


『いつかケンケンが超大物になったらめっちゃ自慢させてね』

『なれる気しないわー。根暗オタクのまま一生を終えます』

『ケンケン根暗か?』


ぽんぽんと続くやり取りは心地よい。初めの頃はお互い敬語でやり取りをしていたのに、同じ歳だと知ってからは砕けた口調に変わっていた。顔も本名も知らないが、一番仲の良い友達になれたような気がした。


『根暗だよー。学校の友達とかいないボッチです』

『想像出来んwwwでもケンケンは本当に才能あると思うし、私はずっとケンケンのファンだよ』


おにぎりのその言葉に、健斗はぎゅっと唇を噛みしめた。

学校では独りぼっちだが、ネットの世界にはおにぎりがいる。他にも数人仲の良いフォロワーがいるし、文字だけのやり取りならば楽しい人を演じられた。


面と向かって言われたわけでは無いのだが、その日学校で「根暗のデブ」とコソコソ言われているのを聞いてしまっていた。聞こえていないふりをしていたが、本当はとても傷付いていた。

今もパソコンの周りにはポテトチップスが置いてある。キーボードを叩く指は太く、手首も無い程太っている。


もしかしたら、画面の向こうにいるおにぎりはケンケンという男をすらっと痩せたイケメンだとでも思っているのかもしれない。本当はこんなに太った根暗なオタクなのに、優しくやり取りをしてくれるのは素敵な人を妄想しているからかもしれない。そう考えると怖かった。


隠さなければ、絶対に知られないようにしなければ。関東に住んでいるのなら、実際に会うような事はきっと無いだろう。会う機会が無いのなら、写真をアップする時の映り込みなどに細心の注意を払えば良い。


そんな事を考えながら過ごしているうちに、おにぎりに初めての彼氏が出来た。


どんな子なのかな、これだけ優しいから、きっとクラスでも人気者なんだろうなと思っていたし、彼氏が出来る事に何ら違和感はない。「おめでとう」とリプライを送ったが、健斗の心は深く沈み込んでいた。


顔も名前も知らない、本当に同じ歳の女の子なのかすら分からない相手に、淡い恋心を抱いていた。それを自覚し、健斗はまたポテトチップスを貪り、コーラで流し込んだ。


早く忘れよう。きっとこの気持ちは勘違いなのだと自分に言い聞かせて過ごしているうちに、おにぎりは「別れました!」と投稿していた。彼氏が出来たと浮かれてから約三ヶ月後の投稿である。


『早くね?』

『やっぱオタクは無理って言われましたー。こっちから願い下げじゃい!』

『乙でーす』


やり取りはそこで一度途切れたが、おにぎりはまた一つ投稿をした。


『このタイミングで親戚が結婚ですってよ。私は絶対結婚出来る気しないでーす』


初めての彼氏と別れたタイミングの幸せな話題に、精神的に少し弱っているのだろう。そんな投稿をしている事に気付き、健斗は殆ど何も考えずにリプライをしていた。


『俺も結婚出来る気しない』

『仲間じゃん。もうお互い三十歳になっても独身だったら、ケンケンもらってくれ』


おにぎりからのリプライに、健斗の動きが止まった。これは絶対に冗談で、真に受けてはいけない。ドキドキと胸が高鳴っているのは驚いたからで、おにぎりは冗談のつもりで言っている筈だ。


『いいよ』


たった三文字を返すのが限界だった。帰って来たおにぎりからのリプライは「嫁ぎ先ゲット!!」だったが、それを眺めている健斗は呆然としていた。


冗談、これは冗談。三十歳になるまでまだまだ時間がある。もし万が一本気で言っているのだとしても、長い時間の間におにぎりは結婚相手を見つけているかもしれない。


「え、どうしよ…」


手元を見ながらダラダラと変な汗をかいた。もし本当に会う事があったとして、こんなに太ったニキビ面の男が現れたら悲鳴を上げられるのではなかろうか。

普段見るのが嫌で引き出しにしまい込んでいる鏡を取り出し、恐る恐る覗き込むとやっぱり酷いニキビのパンパンに膨れた顔が映った。


少しでもマシな見た目になろう。殆ど有り得ない事だろうが、奥さんを迎えるのなら経済力は必要だ。今まで親からの小遣いで生活していたが、自分の力で稼ぐ事を覚えよう。バイトをしながらダイエットもしよう。ニキビはそのうち落ち着くだろうが、少しでもマシになるようにスキンケアをしてみよう。


何をどうすれば良いのかは、目の前のパソコンが教えてくれる。変わろう、少しでも自信を持っておにぎりに会えるように。


◆◆◆


「…っていう、ものすごーく馬鹿な男子高校生のお話でした」


へらりと笑った健斗は、ブランコをゆっくりとゆらゆら揺らす。黙って話を聞いていた杏里は、かつて健斗が太っていた事を信じられず、頭の先からつま先までじろじろと観察してしまっていた。


「太ってた事実を受け入れられない」

「元デブ嫌い?」

「いや、努力の化身だと思うけど、今の健斗さん滅茶苦茶すらっとしてるから…信じられない」

「脱いだら伸びた皮がたるたるしてるよ」


食事を見直し、バイトで体を動かして筋トレもした。ニキビは痩せていくうちに少なくなり、少しでも綺麗になるように基礎化粧品も購入して毎日塗ったと健斗は言う。


「あの他愛もないやり取りでそこまでする?」

「しちゃったんだよねー。馬鹿でしょ」


あははと声を上げて笑った健斗は、ブランコを漕ぐ事を一度やめて空を見上げる。

最近同じような話を聞いたなと思っていた杏里は、ふと気になった事を聞いてみた。


「でもケンケンって何年か前から曲作らなくなったよね?」

「あー…おにぎりがケンケンの曲好きだって言ってくれるの嬉しかったんだけど、それって昔からの知り合いだからなんじゃないかなーって思って…」


新しい名義を作り、そちらで曲を作るようになった。ケンケンのアカウントでは全く曲を作ったと書き込まなくなり、新しく作ったユキというアカウントで発表した曲はたまたま一曲人気になり、そのまま人気アカウントになった。そうして今の事務所に拾われ、勤めていた会社を辞めて音楽活動に専念するようになったのだ。


「まさかユキの方もすぐに見つけてもらえると思わなかったけど…好きだって言って応援してもらえて嬉しかったんだ」

「意味わからん…ケンケンで良かったじゃん」

「おにぎりが知らない俺で勝負したかったの!」


男の考える事は分からないと眉間に皺を寄せた杏里だったが、健斗が自分の知らないところで努力を重ねていた理由が「いつか自信を持って迎えに行く為」だった事にどう反応すれば良いのか分からなかった。


かつて太っていた事も、苛められていた事も洗いざらい話してくれた健斗は、すっきりしたような顔で空を眺め続けている。


「変わるきっかけを、杏里ちゃんにもらったんだ。昔の俺より、今の俺の方がずっと好き。生きているのが楽しいって思えるようになったのは杏里ちゃんのおかげなんだ」

「私、何もしてない…」

「いやいや、杏里ちゃんに救われたよ」


ありがとうと言われても、本当に杏里は何もしていない。ただSNS上でやり取りをしていただけだし、それが十年程続いただけ。

健斗が言うに、辛くなった時は嫁に貰ってくれとやりとりをしたスクリーンショットを眺めたり、ケンケンとしておにぎりとやり取りをする事で頑張る事が出来ていた。


「顔も本名も知らない女の子に恋してさー、いつか迎えに行くんだって頑張る男は気持ち悪いかもしれないけど、本当に好きなんだよ」


改めて言われた「好き」という言葉に、杏里の胸が跳ねた。顔が熱くて仕方ないが、不思議と嫌な気はしなかった。


「欠片もチャンスが無いのなら、遠慮なく振ってね。でも友達でいてくれたら嬉しい」

「…チャンス、無いわけじゃないよ」

「え?」

「健斗さんと一緒にいるの、楽しいし。今日も本当は一人でいたくなかったから、来てくれて嬉しい」


もごもごと話す杏里の隣で、健斗がゆっくりと立ち上がる。そのまま杏里の前にしゃがみ込むと、膝に置いていた両手をそっと取り、優しく包み込んで微笑んだ。


「ちょっと、期待しちゃうんだけど。期待しても良い?」

「…良いよ」

「俺、自分に都合の良い感じで解釈するけど良いの?両想い?」

「多分…?」


視線をうろつかせていた杏里は、恐る恐る健斗の顔を見る。感極まっているのか、うっすらと目尻に涙を浮かべている健斗の顔は、ほんのりと赤く染まっていた。


「式はいつにする?」

「気が早い」

「待って俺彼女出来るの初めて!憧れのデートとか妄想しまくりだから叶えてもらっても良い!?」

「分かったから…落ち着こうか」


握られたままの手は、まだ離れない。冷えてしまっていた手は、健斗の体温が移って温かく、少し前まで落ち込んでいた気分だったのに、今は胸がほんのりと温かいような気がした。

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