第10話「散歩」

何かあるとふと思い出す。

料理をしているだけで、そういえば彼はこれが好きだったなと思い出す。

洗濯物を干していると、彼は干し方が雑だったなと思い出す。


別れて三ヶ月近く経つというのに、まだ生活のあちこちに元恋人の影を見てしまう。それが嫌だったのに、ここ数日は一度も思い出さなかった。


料理をしていれば、健斗は枝豆が好きだと言っていた事を思い出し、なんとなしに枝豆を使った料理を調べてしまう。

洗濯物を干していると、背の高い健斗の服は、きっと干すのも大変だろうなと想像してしまう。


今何をしているのだろう。電話は流石に時間を取らせてしまうが、メッセージを送るくらいは許してもらえるだろうか。そんな事を考えて、メッセージアプリを開いては閉じるを繰り返す。


こんな気持ちは久しぶりだ。相手が何をしているのか気にしたり、迷惑じゃないだろうかと考えて連絡出来なくなったり、連絡が来たら何をしていても真っ先に返事を考える。


まるで元恋人とお付き合いを始めたばかりの頃のよう。久しぶりすぎるこの感情が、浮ついたものである事は何となく自覚していた。


「女子高生じゃあるまいし」


一人で呟いたところで、誰からも返事はない。一人きりの部屋はまだ慣れない。寂しいと思う時もあるし、誰かと一緒にいたいとも思ってしまう。


もしも、元恋人が自分を裏切らなかったら?

もしも、彼と結婚していたら?

一人が寂しいなんて思うことなく、彼の帰りを待ちながら家事をして、帰ってきたら「おかえりなさい」と笑顔で迎えていたのだろうか。


「…やめよ」


もしもを考えていても仕方が無い。それは分かっている筈なのに、ふとした時に考えてしまうのは、自分が弱いからなのだろうか。

それとも、生活の中にいるのが当たり前の存在になっていたのだろうか。


考える事をやめようと思っているのにやめられない。どうして、何がいけなかったの?なんて考えて、やめようと頭を振る。


じわじわと目尻に溜まっていく涙が止まらない。鼻を啜り、ぎゅっと唇を噛みしめて、杏里はスマホを握りしめた。


健斗に連絡してみようか。きっと今一人だから、寂しくて仕方ないから無駄な事を考えるのだ。

そこまで考えたが、健斗に連絡する事は出来なかった。寂しい気持ちを埋める為に利用しようとしているような気がして、何だか健斗に申し訳なかった。


ぶぶっと手の中でスマホが震える。健斗からの着信を知らせて震えるスマホを手放そうと思っているのに、指はあっさりと応答ボタンを押していた。


『もしもしー?』

「も、もしもし!」

『暇だから電話しちゃったー。杏里ちゃん今忙しい?』

「や…別に、忙しくないけど」


泣いていた事がバレないように、杏里は必死で普段通りの声を出す。鼻を啜りたいのも堪え、流れて来た鼻水はティッシュで拭った。


『どした?』

「え?何が?」

『泣いてない?』


あっさりと泣いていた事がバレてしまった事に、心臓が跳ね上がる。誤魔化そうと言葉を捻り出そうとするのだが、真っ白になってしまった頭では、何も言葉を紡ぐ事が出来なかった。


『今どこ?何かあった?』

「家だけど…大丈夫、何でも無いから!あー、そう、その…泣ける系動物動画?見てたから」


咄嗟にそんな事を言ったが、どうせ健斗には通用しないだろう。電話の向こうで心配そうにしている顔が目に浮かぶ。


『今から行って良い?最寄りこの間聞いたし。家までは行かないからさ』

「え…」

『何か俺も一人でいたくない気分なんだよね。杏里ちゃん一緒にいてよ』


断らなければ。頭ではそう思っているのに、心は一緒にいたいと叫んでいる。一人は嫌、一人は寂しい。


「わかった、良いよ」

『じゃ、今から行くね。駅に着く時間分かったらすぐ連絡するわ』


じゃあまた後でと言って、健斗はあっさりと電話を切った。


◆◆◆


「やっほ」


ひらりと手を上げた健斗が、家から徒歩十分の駅にいる。初めて降りたと言ってきょろきょろしている健斗の前で、杏里は居心地悪そうにもじもじと手を動かした。


「あの…なんか、ごめん」

「えー何で謝るの?俺が一人でいるの嫌だから一緒にいてもらおうと思っただけだし」


にへらと笑った健斗は、いつものように顔を前髪とマスクで隠している。先日会った時程人通りは無いし、夜で暗いおかげであまり顔は見えていないだろう。だが、それでも「見つかってしまう」とびくびくしてしまうのは仕方のない事だ。


「どっか入る?」

「あー…そう、だね。どこが良いかな」

「あんましお腹空いてない?」


もごもごと口ごもってばかりの杏里に、健斗はにっこりと笑って頭を撫でる。

何か落ち込むような事があって泣いていたし、そのせいで元気が無いのだと思っている健斗なりの優しさなのだが、今の杏里はただ「見つからないよね?」という不安で落ち着かない。


「じゃあ、少し散歩でもしようよ。お喋りしよ」


フラフラ歩いても、近隣に住んでいる杏里がいれば大丈夫だとでも思っているのだろう。健斗は杏里の手を引いて、適当な道を選んで歩き出す。

いつもの杏里ならば、さっさと手を振り解くだろう。だが今は、繋がれた手を振り解く気にはなれなかった。


健斗の手は温かい。まだ昼間は暑くなる日もあるが、夜はうっすらと冷える。冷え性の杏里の手はひやりと冷たいが、健斗の手から伝わる体温のおかげでじわじわと温まっていた。


「もう何だかんだで十月?夜寒くなって来たよね」

「着る服困るよね。昼間暖かいから」

「それな?アウター着る程じゃないなって思って出かけて、夜寒くて後悔しがち」


他愛もない会話をしながら歩くのは、思っていたよりも心地よい時間だった。

あっちへふらふら、こっちへふらふらと歩き、住民である杏里も自分が今どこにいるのかよく分からなくなってきた。


「お、公園みっけ!」


行こうと杏里の手を引きながら、健斗は一目散にブランコに向かって歩き出した。子供の頃は砂場で遊ぶのが好きだった。靴の中に大量の砂が入るからと母は嫌がっていたが、黙々と山を作るのは楽しかった。


「ブランコって凄い人気遊具じゃん?俺いっつも争奪戦負けて、皆帰るまで隅っこで待ってたわ」

「あるあるだね」


嬉しそうな顔をして、健斗はブランコに腰かけてゆらゆらと揺れる。190㎝の体を狭いブランコに乗せるのは大変そうだが、揺れている健斗は楽しんでいるようで機嫌が良さそうだ。


なんとなく杏里も隣のブランコに乗って揺れてみたが、子供の頃のように思い切り漕ぐ気にはなれない。健斗は楽しくなってきたのか、長い脚を上手く使って大きく漕いで笑った。


「足擦る!」


がすがすと踵を地面に打ち付ける度、健斗の乗っているブランコはガクンと揺れながらスピードを落とす。

思ったように漕げないと不満げな健斗を眺めながら、杏里はのんびりと踵を軸にして体を揺らした。


「いい歳して何してんだろ?」

「お気づきになりました?」


ふいに冷静になったのか、健斗はふうと息を吐いて空を見上げる。杏里も同じように空を見上げたが、真っ暗な空に浮かぶ月が綺麗だった。


「星、見えないね」

「こんなもんじゃない?」

「俺の地元はもっと見えるんだよ。山が近くてさ」


健斗の地元はかなりの田舎らしく、夜になるとぽつぽつと設置された街灯の灯り以外は何も無い田舎道ばかりなのだと言った。


家を出て少し歩けば、星空を眺める事が出来たのだと懐かしそうな顔をして言ったが、杏里はあまりピンと来なかった。ネットで見るような満点の星空を想像してみたのだが、本当に肉眼であのような景色が見えるのだろうか。


「流石にネットで見るような景色じゃないけどさ。でも、冬になったらオリオンが見えて…流れ星も見えたんだよ。爺ちゃんと一緒に見に行った事がある」

「へえ。流れ星見た事無いなぁ」

「しし座流星群だったかな…なんかすっごい数の流れ星が見られてさ。真夜中に起こされて眠いし寒いのに、あんまり綺麗で見惚れたのを覚えてる」


懐かしいと笑った健斗は、綺麗だったという事しか覚えていないようで、幼稚園か小学校低学年頃の記憶だったかなとぼやいているが、朧げな記憶では「寒かった」という感想しか思い出せないようだ。


「最近帰ってないな。杏里ちゃんの地元ってどこ?」

「千葉の端っこ。何にも無いよ」


畑と田んぼばかりで何も無い。大きな建物は学校か物流倉庫。遊びに行きたくても遊ぶような場所は何も無いし、東京に出ようと思っても駅すら無い。最寄り駅まではバスで三十分ほど行かなければならなかった。


「川に挟まれた土地だから、大雨が降ると怖かったな。堤防が強いから多分大丈夫なんだろうけど」

「川良いじゃん。楽しいよ」

「多分健斗さんが想像してる川じゃないよ。深いし汚いし泳げるような川じゃないから…子供の頃は一人で川に近付いちゃいけませんって言われてたし」


夏休み前には川に近付かないよう学校できつく言われていた。それが当たり前だし、土手で遊ぶ事はあっても川の方には近づかない。

行ってはいけない、危ない場所であると幼い頃から刷り込まれるのだ。


「俺の家の近くにも川があったよ。そんなに深くないから、夏場は子供の遊び場だった」

「そういう川だったら良かったなあ」


昔からの知り合いであるせいか、お互いに田舎に住んでいる事は知っていた。千葉県に住んでいる女子高生と、新潟県に住んでいる男子高校生だった二人はすっかり大人になり、東京で初めて顔を合わせた。


顔を合わせて話をするようになったのはここ最近の話なのだが、すっかり慣れて心地よい時間を過ごせるようになっている。


「もう少ししたら地元は雪が降るかなー。大変なんだよ、雪かき」

「経験無いなあ…雪が積もるって事がまず無いから」

「こっち来て初めての冬に雪かき道具無い事思い出して、ホームセンター行ったんだけどさ、無いんだよどこにも」

「シャベルくらいしかないんじゃない?」

「ママさんダンプが無い事に驚いたよね…」


ママさんダンプが何なのか分からない杏里は首を傾げるが、健斗は「え、知らない?」とそちらにも驚いている。

生まれ育った場所が違うのだから、伝わる話ばかりではないようで、それが面白くなった杏里は健斗の地元がどんな場所なのかを沢山聞いた。


「何か…同じ国に住んでるのに色々違うね」

「千葉と新潟って遠いしね。いつか遊びにおいでよ」

「冬は行ける?」

「…帰れると良いね」


ブランコが軋む音を聞きながら、杏里は健斗の横顔を見つめる。

いつの間にかマスクを外していたようで、健斗の口元が見えている。綺麗な横顔だなと眺めていると、視線に気が付いたのか、健斗がこちらを向いてどうかした?と笑った。


「どうして、私なの?」

「え?」


ずっと気になっていた疑問を、つい口から出してしまった。何を聞かれているのか分からないのか、健斗はきょとんとした顔で目をぱちくりとさせていた。


「周りにはアイドルとか女優さんとか、素敵な人沢山いる筈なのに。どうして私なのかなぁって」

「んー…救われたから、かな」


照れ臭そうに頬を掻いた健斗は、少し俯きながら口元を緩ませる。

救われたとはどういう事なのだろう。特に思い当たる事は無いし、言葉の意味が全く理解出来ずに首を傾げた。


「俺、いじめられっ子だったんだ」


今の健斗は世間で大人気のアーティスト、ユキである。その健斗が過去苛められていたなんて初めて知った。

目をぱちくりさせている杏里の隣で、健斗はゆっくりと口を開いた。

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