第13話「お泊り」

食事を終え、食器を洗って鍋を冷蔵庫に入れた。取っ手が取れるタイプの鍋はこれが出来るから便利だ。


「洗濯終わったかな…」


使い慣れない洗濯機を操作するのは手こずったが、何とか洗濯を始める事が出来た。そろそろ終わるだろうと洗面所に置かれている洗濯機を覗き込むと、今は乾燥中なのか水の無いドラムがぐるぐると回っていた。


「成程…文明の利器」


うちにも欲しいなと思いつつ、自分の家では大きなドラム型洗濯機を置くスペースは無い事を思い出して諦めた。元恋人と暮らし始める時に購入した縦型洗濯機でせっせと洗濯する事にしよう。


「杏里ちゃん、終電の時間って何時?」

「あ、やば…」


洗面所に様子を見に来た健斗がちょいちょいと手首を突く仕草をしながら言う。

慌てて時間を確認したが、現在23時。そろそろ帰り支度をしなければならないのだが、乗り換えルートを調べようとアプリを開いて固まった。


「…電車、止まってる」

「嘘?!」

「人身事故だって…うわぁ、どうしよう帰れるかな…」


時間はかかるだろうが、何とかして帰ろうとルートを調べる杏里に、健斗はもじもじと恥ずかしそうな仕草をしながら言った。


「泊まってく?」


何を言っているんだと眉間に皺を寄せた杏里に、健斗は手をぶんぶんと振りながら慌てた様子で「違う!」と言い訳を始める。


「や、違…!何もしない!何もしません誓います!!」

「…何も言ってないけど」

「だって凄い顔するから!」


健斗が言うに、どうしても帰らなければならない理由が無いのであれば、無理に帰ろうとせず泊って行けば良い。明日の昼にでもゆっくり帰れば良いし、寝る場所はベッドを譲るから安心して眠れば良いとの事だった。


「ほんっと、何もしないって約束します…ていうかそんな度胸無いし…」

「いい年して…」

「経験無いもんで」

「うっそ」

「魔法使い予備軍ですけど何か」


ぶすっとした顔でそう言われても、これ以上どう反応すれば良いのか分からない。高校生の頃から胸に抱いた恋心を大切にした結果なのだろうが、なんとも申し訳ないような気分になってきた。


「とにかく、途中で帰れなくなった方が大変だから泊まって行きな。心配で仕事出来なくなっちゃう」

「じゃあ…ありがたく」


こんな事なら大人しく家に帰っておくべきだっただろうかと考えたが、部屋着貸してあげるねと背中を向けた健斗が小さくガッツポーズをしているのが見えた。

喜んでくれているのならまあ良いかと思いつつ、未経験かぁ…なんてくだらない事を考えた。


◆◆◆


来た時よりも少しだけ片付いた部屋で、杏里は風呂上りに借りた服を着てくつろいでいた。健斗は仕事をしているのだが、ノーとパソコンを広げて杏里の隣でご満悦である。


「テレビ大きすぎない?」

「買ったは良いけどあんまり見てないんだよね。見てもネット配信系ばっかり」

「地上波も面白いのあるよ、ドラマとか」

「続きが気になっちゃうから、最終話まで配信始まったら一気に見る派」


大人しく待つのが苦手なのだと言いながら、健斗はキーボードを叩き続ける。少しだけ画面を覗いてみたが、何やら曲の歌詞を考えているようで、健斗の片耳にはイヤホンが嵌められ、何か音が流れているらしい。


「大変だね」

「んー?まあでも好きでやってる事だから。結構楽しんでるよ」

「楽しいなら良かった」

「ところで杏里さん、今度俺の部屋に着替え置いてもらって良いですか」

「何で?」

「俺の服だとサイズ合わないじゃん?ちょっと…童貞には刺激強めかなって」


借りた服はサイズが大きく、スウェットのズボンがずり落ちた。座っている今は問題ないが、立ち上がった時は腰回りを抑えなければ歩く事すら出来なかった。


「…肌の露出は最低限ですけれど」

「俺の服を彼女が着てるってのが…ちょっと」

「うわあ…拗らせてんな」

「うっせ」


べしっと軽く杏里の頭を叩いた健斗の頬は赤い。此方を見ないのは、きっと照れているのだろう。会いたいと言ったくせに、本当に家に来るとは思っていなかったようで、大喜びしたかと思えば緊張したような顔をする。


コロコロと表情が変わるのが面白かった。もう少しからかってやろうかと思ったが、真面目に仕事をしている所を邪魔するのは申し訳ない。大人しく深夜のバラエティを眺めながら、杏里はぼんやりと冷めたお茶を飲んだ。


ふいに流れるユキの曲。見ていた番組が音楽系番組だったせいか、今年の人気曲が色々と紹介されていたのだ。当たり前のようにユキの曲も紹介され、杏里はいつものように反応して姿勢を正した。


画面の中で歌っているユキは輝いている。切なげな表情で歌っているのに、その表情が輝いているように思えた。


迎えに来たよといつもの歌詞を一緒になって呟いた。うっとりと画面を見つめる杏里の隣で、健斗が堪えきれずに噴き出した。


「隣にいるのに」

「いや、違う」

「違くないから」


真面目な顔で違うと首を振った杏里に、健斗は腹を抱えて笑い出す。画面は他のアーティストが歌う画面に切り替わっているが、杏里はきちんと正座をした格好のまま健斗に向き直った。


「ユキは素晴らしいの。輝いてるの。神が創りたもうた最高傑作なの」

「だから、俺だって」

「違う!ユキは部屋とっ散らかしたりしないし、無くしたからって爪切り三つも置いたりしないから!」


片付けをしている時にあちこちから爪切りが出て来た事を思い出し、杏里はべしべしと自分の太腿を叩く。

ユキはそんな事はしないと夢を見ている痛いファンだとしても、出来上がってしまったイメージは今更覆らなかった。


「…因みに杏里ちゃんのイメージするユキってどんな?」

「生活感の無い綺麗な部屋に住んでて、毛が長い猫飼ってる」

「俺猫アレルギーなんだけど」

「イメージなんで」


勝手にイメージを作られても困ると以前砂川が言っていたが、普通なら知らない芸能人のプライベートなど想像する事しか出来ない。想像しているうちに勝手なイメージを作り上げてしまうのは、ファンならよくある事なのだろう。


「ユキはユキだけど、健斗さんとユキってなーんか結びつかないんだよね」

「正真正銘同一人物なんですけど…」

「雰囲気かな…何か違うんだよね」


訳が分からないと言いたげな顔をされてしまったが本当の事だ。

健斗と恋人関係になっても、ユキの事は大好きなままだった。ユキはユキとして認識しており、恋愛感情というよりも今までと同じ「推し」という対象でしかない。


「もしかして双子だったりします?」

「一人っ子だよ」


健斗の事は正直よく知らない。

公園で話をしていた時に新潟県の田舎出身で、祖父と両親と暮らしていた事は知ったが、それ以外の事はほとんど知らない気がした。

長年SNSで繋がっていても、自分自身の事や周りの環境については何となく聞いてはいけない事だと思っていたし、聞いたとしてもあまり覚えていなかった。


「杏里ちゃんは?兄弟いないの?」

「いるよ、妹が一人」

「へー、仲良いの?」

「悪くはないかな。妹はもう結婚してて、子育て真っ最中」


普段あまり連絡を取る事はないが、三つ年下の妹は現在二歳になる息子を育てる母である。

正月にはお年玉を持って実家に帰らなければならないのだが、正直気が進まない。


「甥っ子可愛いんだよー。お正月に実家に帰るから、その時遊ぶんだ」

「実家帰るの?」

「んー、気は進まないけど…妹が甥っ子にお年玉もってこいって言うから」


妹ははきはきと物を言う。昔は少し派手なグループにいたが、特にぐれたとかそういうわけではない。見た目は派手だったが、素直で可愛い、少し抜けた妹だ。

母になると言われた時には驚いたが、日々子育てに追われている妹の事は尊敬している。夫婦仲も良好なようで、家族でグループを組んでいる連絡系アプリでは時々夫婦と息子の写真をアップしていた。


「俺も帰らないとなあ」

「新潟だと…新幹線?」

「そ。車で帰るとおっそろしい時間かかるから」


高速を使っても五、六時間はかかるらしく、疲れるから新幹線で帰り、最寄り駅に着いたら誰かに迎えに来てもらうかタクシーを使うらしい。

盆暮れ正月には戻ってくるように言われているのだが、面倒くさくて戻っていないと健斗は言った。


「爺ちゃんの墓参りに行きたいんだけどね。日帰りの距離じゃないし、そもそも忙しくて行けないや」


仕事は諦めたのか、健斗はイヤホンを外してパソコンを閉じた。スマホを弄り出したかと思うと、何かの写真を杏里に見せる。

杖を突いた老人と、笑っている中学生くらいの子供の写真だった。


「爺ちゃんと俺」

「へえ…お爺ちゃん優しそうな顔してるね」

「顔だけじゃないよ、本当に優しかった。世代的には家事なんか出来ない男の人が多い筈なのに、婆ちゃん一人にやらせたくない!って昔から家の事一通りできる人だったんだって」


祖父は家事が出来るのに、どうして孫は出来ないのだと部屋の中をぐるりと見まわしてやったが、健斗はそれを予想していたようで、杏里の頭を大きな手でわしっと掴んだ。


「こっちは健斗さんでしょ?凄いねぇ、ニキビ跡全然残ってないじゃん」

「あ、そこ?」

「艶々で羨ましいんですけど…」


スマホを持っている健斗の頬をまじまじと見るが、毛穴すら無い艶やかな肌だ。ノーメイクだよな?と目を細めて見つめてみたのだが、やめろと手で隠されてしまった。


「太ってる事とか気にしないんだね」

「え、過去は過去ですし…ずっと太ってたら健康とか心配になるけど、今の健斗さんすらっとしてるし」


きょとんとした顔をする杏里に、健斗はくしゃりと笑う。ユキとは違う笑い方をした事で、杏里はまた、まじまじとその顔を見つめた。


「皮余り凄いんだけど…いつか見ても引かないでね」

「今見せてみ」

「ちょっと心の準備が!」


自身の体を抱きしめて身を捩った健斗が面白くなり、杏里はちょいと健斗の服の袖に触れた。裾は流石に嫌がるだろうと思って袖にしたのだが、健斗は「やだー」と言って両腕を背中に隠す。


「腕にも皮って残るの?」

「二の腕のとことかダルダルですね…だから夏場もオーバーサイズのシャツとか着てるんだけど」

「あー、成程ね」


ユキの画像や動画を見ても、ユキが半袖の服を着ている事は滅多に無い。あっても肘辺りまで隠れる程のオーバーサイズの服ばかりだったし、ライブの時は動いて服の裾が捲れても、しっかりインナーを着てパンツに入れていた。

お腹弱いのかな、なんて思っていたのだが、恐らく腹の皮余りが見えないように隠しているのだろう。


「いつか皮切除したいな。風呂入ってる時鏡で見て嫌になるから」

「ふーん…私にはよくわからないけど、切る前にちょっとだけ触らせて」

「何で」


少しだけ嫌そうな顔をした健斗に、杏里は手をわきわきと動かしながら言った。


「妹のお腹も触らせてもらったんだけど、滅茶苦茶気持ち良かったんだよね」


妹の出産直後、腹の皮が伸びたと嘆きながら見せ付けられた事がある。ほっそりとしているのに腹だけがたぷんとしてしまった妹の腹に指を突っ込んでみたのだが、ふわふわとして何だか気持ち良かった。


妹はその後体調が落ち着いてからボディメイクに勤しみ、今はすっかり元通りになっている。もうあの柔らかい感触を楽しめないと残念に思っていたのだが、近くに似たような感触が楽しめそうな機会があるのなら触ってみたかった。


「見ないでくれるなら…触っても良いよ」

「え、良いの?」

「見られるのはまだちょっと、嫌だけど」

「よっしゃ!手誘導して!」


ぎゅっと目を閉じ、杏里は右手を健斗に向かって突き出した。噴き出す声が聞こえ、手首を掴まれたかと思うと、指先が温かくて柔らかい何かに触れた。


「おー!凄い!柔らかい!これどこ?!」

「お腹」

「ふにふにだー!え、切っちゃうの?勿体ないこんなに良い感触なのに!」

「見た目が嫌なんだよ…」

「やー、切った皮だけ残せないかな…いやでも腹筋バキバキのユキも見てみたい」

「急にグロだし俺じゃないんかーい」


むにむにと皮を弄ぶ杏里の口元は緩み切っている。気持ち良いと喜んでいる姿が見られるのは嬉しいが、自らのコンプレックスを晒している健斗は何だか微妙な気分だった。


「やー、見えてないけど結構あるねぇ。本当に頑張ったんだね、凄い!」

「え…?」

「努力の証だね。自分の理想に近付こうと頑張れる人って凄いと思う」


素直にそう思ったから、思ったままを口にした。ゆかりもそうだが、何キロも体重を落とすのは大変な筈だ。杏里も正月休みで食べすぎたせいで三キロ程ダイエットに励んだ事があるが、たった三キロでさえ辛かった。


「因みにですが、私は筋肉が大好きです」

「あ、はい…頑張ります」


呆気に取られている健斗が間の抜けた声でそう言った。あまり長時間触っているのも悪いかと思い、杏里はそっと手を離して「隠してー」と言った。


「もう良い?」

「あ、うん…どうぞ」

「いやー、よきふにふにであった!ありがとー」

「…なんだろう、悩んでる俺がちっぽけに思えて来た」

「そう?人の悩みなんてそれぞれっしょ。私のコンプレックスはまな板である事です」


ぶはっと噴き出した健斗は、ちらりと杏里の胸に視線をやる。見るんじゃないと胸を押さえて睨む杏里だったが、何だかこの状況がおかしくなって、二人揃って笑い出す。


「俺、胸より尻派」

「スクワット頑張りまーす」

「今更だけどこれどんな会話?」

「やだー、健斗さんのスケベ」

「俺?!胸がどうたらって話は杏里ちゃんから始めたんじゃん!」


ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人は、またコロコロと話題を変えて話し続ける。一週間ぶりに顔を合わせた事で、会えなかった分の時間を埋めているような気分だった。

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