第36話 あなたの為なら、私はきっと

「……ん」

ここがどこなのか分からない。


ぼやけた視界の先に見えるのは、見慣れない天井。

覆いかぶさる白い掛け布団すら重く感じるくらい、体は怠く言うことを聞かない。

霧が掛ったかのように鈍い思考のまま、沙癒は目を覚ます。


「ここ……保健室?」

シミ一つない白い壁に頭上の蛍光灯が灯っているが、周りに囲われたカーテンの影響で少し薄暗い。

そして、清潔なベットと微かに感じる消毒液の匂いが鼻につく。


「そうか、私、倒れたんだ」

最近、沙癒は健康に気を使っており、体調を崩すことはあれど倒れることは無かった。

だが、ここ数日は作品に夢中になりすぎてろくに眠っていなかった事を考えると当然の結果でもある。

自分の体の弱さに嫌気が差し、沙癒は小さくため息を吐く。


「あ、目が覚めた?」

囲われたカーテンが空き、誰かがベットへ近づいてくる。


「沙癒ちゃん、体調はどう?」

視界の端から現れたのは、心配そうにこちらを覗き込む新海七海であった。

体育終わりなのか、砂埃が付いた体操着を着たままで、額に汗が溜まり息も少し荒い。


「……今何時?」

「もう六時間目が終わって放課後だよ、まぁさっき終わったとこだけど」


七海はすぐにでも早く沙癒の体調を確かめる為、ホームルームが終ってから急いで保健室に駆け込んだ。

寝不足と一時的な疲労によるものであると聞いていたが、それでも心配なことには変わらない。


「――うん、顔色もだいぶ良くなったね」

血色がある程度戻った沙癒の顔を見て安心したのか、ベットの近くの椅子に腰かける。


「……心配した?」

「それはもう! 突然気絶した時はどうなるかと思った!」

「……ごめん」

「まぁ、何にもなくて良かったよ」


あの後七海は気を失った沙癒を大急ぎで担ぎ上げて保健室に運んだ。

幸い、今回の症状はそれほど重いものではないらしく、しっかり休めば数日程で回復するそうだ。


……ちなみに、この早乙女学院に努める教職員は一流と言っても過言ではない経歴の持ち主ばかりで、特に保健室の先生を務める『蜂野孝雄』は国立病院に十年以上務めていた経歴があり、日本随一の名医と呼ばれる存在でもある。


「その、た、助けてくれて、あ、あり――」

沙癒はお礼を言いかけるも、同級生と面と向かって話す事に恥ずかしさを感じてしまう。

ただでさえ他人と会話が得意ではない沙癒にとって、知り合ったばかりの人と話すのはさらに苦手なようだ。


「ははっ、気にしないでよ! もう僕たち友達なんだし!」

「……友達」


沙癒のオドオドとした態度とは対照的に、七海は百点満点の明るい笑顔で返す。

曇り一つない綺麗で白い歯をくっきりと見せる、嘘偽りのない純粋な顔。

その表情に、沙癒は思わず心を奪われそうになる。

元々七海の超ド級に顔が整っている。

そんな人間から放たれる最高の笑顔は、何人もの人間を虜にした魔性の存在だ。


しかし、それ以上に。

ほんの少しだけ、七海の存在を自分の兄と重なったのだ。

いつもそばにいて、どんな状況でも助けに来てくれる。

この世で沙癒が最も信頼を置いている存在である、才川裕作の面影にほんの少し似ていて――


「ところで、裕にぃは……?」

七海の顔を見て、沙癒はハッと我に返るように兄の事を思い出す。

こういう時、助けてくれるのはいつも決まって裕作だった。

そう、沙癒の中で裕作はヒーローのような存在であり、何があっても最終的には彼が助けてくれる。


しかし今日に限っては裕作が現れず、たまたま通りがった七海に助けてもらった。


「あ~、先輩は……今はちょっと……」

沙癒の問いかけに対し、歯切れの悪い返事を見せていた。

七海のそぶりを見るに、今裕作がどこで何をしているかを知っている様子だ。


「もしかして、裕にぃに何かあったの!?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」


しかし七海は答えにくいのか、困った様子のまま頭を掻く。


「――裕にぃ……!」


もしかすると、兄の身に何かあったのではないか。

そう思った沙癒は自分の体の事など二の次に、鉛の様に重たい体に鞭打つようにベットから飛び起きる。


「あ! 寝てなきゃだめだよ!」

七海の忠告を聞き入れず、沙癒は靴を履くこともせずに靴下のまま歩き始める。


沙癒にとって裕作は、この世で最も大切な人物だ。

幼いころから一緒に過ごし、多くの時間を共に過ごしている。

裕作が沙癒を好いているのと同じ、いや、それ以上に沙癒は裕作を好いている。


兄に何かあった時、悩んだ時、辛い時。

沙癒は何としてでも支えになりたいと考えている。


助けられてばかりの自分に何ができるかなど関係ない。

彼の身に何か起きているのであれば、何が何でも助けになりたい。


――例え、この体が滅びようとも。

――私はきっと、何でも出来る。


フラフラとおぼつかない足取りのまま、沙癒はカーテンをこじ開けた。


……すると、沙癒の目的の人物は意外にも直ぐに見つかった。


「ほんっっっと信じられない! 沙癒に何かあったらどうするつもりだったの!!!」

「はい」

「それに、最近ろくなもの食べさせてないわよね!」

「ごめん」

「何のためにそんなデカ肉つけてんのよ! もう!」

「うぅ……」


腕を組みながら顔を赤らめている早乙女秋音が、鼻息を荒くしカンカンに怒っていた。

そして、自分よりも二回り以上小さい相手に叱られ、今にも泣き出しそうな巨人……才川裕作の姿がそこにはあった。

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