第35話 命よりも大切なもの

「……んしょ、んしょ」


昼休み、才川沙癒は大きな額縁に入った絵を両手で運んでいた。

美術部にはほとんど顔を出さない彼だが、定期的に作品だけは提出をしている。


沙癒にとってこの作品は世に二つとない宝物だ。

数々の苦難を超えて、努力の末に今はようやく完成した絵を美術室へ運ぶ。

それが作家として最後にやるべき仕事だと沙癒は考えている。


中の絵が見えないように白い布で覆い、傷や汚れが付かないように家にある大きな額縁に入れて厳重に学院へ持ち込んだ。

しかし、そのせいで大きさは増幅し、非力の沙癒が一人で持つには無理がある重量になってしまった。


額縁に入れるのは大げさかもしれないが、自分の描いた絵は万全の状態で提出したいという沙癒のこだわりが発揮されている。


「……はぁ……はぁ」


目立つことが苦手な沙癒は、この大きな絵を運ぶ様子を他の人に見られたくはなかった。

だから、今朝は誰も登校しないような早い時間に兄である裕作に頼み、一時的な保管場所である空き教室まで運ぶようお願いをしていた。


「……やっぱり、裕にぃにお願いしても良かったかも」

そのまま教室へ運んでもらうことも考えもした。


今やっている事は完全に二度手間である上、力持ちの裕作にお願いする方が安全であることは重々承知している。

勿論、裕作もその提案をしたのだが。


「――いや」


だが、沙癒はそれを拒んだ。

自分が丹精込めて描いた絵は最後まで責任を持ちたい。

何としてでも自分の手で提出をしたい。

そんな絵描きとしてのこだわりがある為、作品提出の時は殆ど一人で事を済ませることが多い。


しかし、今回の作品はいつも以上に張り切ってしまい、大きさもそれに比例して巨大なものになってしまった。

沙癒の兄である裕作が軽々と持ち運んでくれていたが、いざ自分で運ぶとなるとこれほどまでしんどい作業になると沙癒は思わなかった。


「……ふぅ、あと少し」


時間をかけて運んできたが、この階段を登り切れば美術室だ。

一段、また一段と階段を上るにつれて足に疲労がたまり、息も絶え絶えになる。


ここ最近、沙癒は作品に打ち込みすぎて体調があまり良くない。

何度も休むように言った兄の言葉も聞かず、命を削ってこの作品を仕上げた。


早く出したいと言う気持ち、苦しみにも似たこのモヤモヤとする気持ちを晴らしたい一心で、沙癒は足を止めることを諦めない。

あと少し、あと少しと自分を鼓舞し、何とか階段を登りきることが出来た。


「……よいしょっと」


美術室の側に絵を置いて、額に溜まった汗を制服で拭う。

完成した絵は教室前に置いておけば良いと顧問の先生に言われている為、これで作品の提出は完了となる。


天井を眺めるように天を仰ぎ、何度か深呼吸をして息を整える。


「これで、ひとまず安心――」

緊張の糸が切れた沙癒は、廊下であることをお構いなしに、その場で倒れる様に横になる


元々体が強くない沙癒は、少し無理をするだけで体調を崩してしまう。

特に、最近は睡眠時間を削って作品に打ち込んでおり、知らぬ間に疲れが溜まってしまっている。


意識を刈り取る様な眠気に襲われ、視界は歪み今にも気を失ってしまいそうになる。


「やっと出せた……あは、あはは」


しかし、その表情はとても明るいもので、普段沙癒が見せないようなニンマリとした笑顔を浮かべていた。

だがその笑顔とは裏腹に、状況は最悪だ。

うつ伏せになったこの状況で、彼は体力の全てを使い果たし、もう一歩たりとも動けない。


「お腹、すいた」


安心したのもつかの間、栄養を欲して腹が鳴り始める。

昼食を取る為に教室に戻ろうにも、もう足は動かない。


沙癒はカタツムリの様に地面を這いながら移動を開始するが、数センチ動くのがやっとの状態。

それどころか、疲労により視界が歪み、押し寄せる強烈な眠気で気を失う寸前である。


移動することを諦め、沙癒はあおむけの状態で天井を見上げる。

廊下を照らす蛍光灯は天から延びる光の様に見え、助けを請うように手を伸ばす。


――その時。


「――だ、大丈夫!?」


弱々しく伸ばした手を取る者が現れた。

その指は細く手の甲までしっかり手入れがされているが、手のひらの皮は厚くゴツゴツとしていた。

まるで何かを強く握り、使い潰したような痕跡もある。

兄である裕作とは違うが、それでも優しいぬくもりを感じる不思議な手だった。


「……君は」

「僕だよ、七海! どうしたの!?」


偶然通りがった七海が沙癒の元へ駆け寄り、慌てた様子で問いかける。

視界は歪みどんな顔をしているか分からないが、きっと心配しているに違いないと思った沙癒は今の状況を説明しようと口を開こうとするが。


「……限、界」


そこで沙癒のエネルギーが完全に切れてしまい、シャットダウンをしたロボットの様に意識を失った。

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