3章 この気持ちに嘘はダメだよ

第34話 ■■という感情

早乙女秋音は緊張していた。


買ったばかりの冷たい缶コーヒーを握り締め、視界の先にいる彼を見据える。


学院の中央にある立派な中庭。

普段は昼食を取る学生で賑わいを見せているのだが、今日はほとんどその姿が見られない。

そんな寂しさすら感じる空間に一人、ベンチに座っている者がいる。


彼の名前は才川裕作。

小学生からの幼馴染であり、かけがえのない親友である。

中庭に設置されているベンチに腰掛け、一人で呑気に空を見上げている様子だ。


ゴールデンウィークも終わり、いよいよ夏に差し掛かろうとしているこの時期。

長袖のワイシャツを着た裕作は、背後に秋音がいることなど知る由も無く、退屈そうの何度も欠伸をしている。


そんな警戒心も欠片もない彼に背後から、ゆっくりと近づく。

手に持つ冷たい缶コーヒー、それを裕作の首元の押し当てビックリさせてやろうと企んでいた。


――ほんと、能天気なんだから


ニマニマと口元を緩ませつつ、秋音は忍足のまま徐々に距離を詰めていく。

後はこの缶コーヒーを首元に引っ付けるだけである。

しかし、後一歩の所で秋音は躊躇してしまう。


「…………」


脳裏に浮かぶのは不安という感情。

もしも、この何気ない行動で愛想を尽かされたら。


それとも気持ちの迷いなのか。

もしも、彼に嫌われたら。


そう、彼が抱いているのはまごう事なき◆だ。


ほんの数センチ、腕伸ばせばいいだけなのに。

後少し、踏み出せばいいだけなのに。

それでも、体が言うことを聞いてくれない。


思考はハッキリしているのに、寸前の行動に移せない。

相手に嫌われるかもしれない、その一点のみが邪魔をしている。

裕作はこんなことで嫌いになる人間ではない事など、とうの昔に理解をしている。

けれど、心の底に芽吹く気持ちが邪魔をして、寸前のところでためらってしまう。


この先の関係へ進みたい。

相手のことをもっと知りたい。

ただ、一緒にいたい。


優しくて逞しいその存在。

なんでも受け入れてくれる最高の親友。


だからこそ、早乙女秋音は彼のことを――


「……はぁ」


誰にも聞こえない小さなため息を吐いてから、秋音は足を止める。

握り絞めた缶コーヒーは手の体温でぬるくなり始めており、もう驚かすことは出来ないだろうと悟る。


結局、秋音は裕作に悪戯を仕掛けることを諦めた。

話しかける事もせず、彼はそのまま中庭から逃げるように後にする。


子供の頃はこんな臆病じゃなかった。


なんの迷いもなく裕作にちょっかいをかけては、馬鹿みたいに笑う毎日。

だが、もうそんな日常には戻れない。


体の成長と共に生まれたこの気持ち。

彼の事を考える度に胸が熱くなり、体も頭もいつも通りに動かない。

もう既に、抑えの利かない状態になりつつある。


毎日毎日、考えては気持ちを押さえつける。

苦しくて、せつないこの感情。


この気持ちを、彼はまだ理解していない。

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