幕間6 悪癖の矛先

才川沙癒は気まぐれな絵描きである。


彼が絵を描くのは地位や名誉のためでは無く、ただ自分の好きなことをしているだけに過ぎない。

頭の中で浮かぶ風景を、真っ白なキャンバスに殴り書きの様に描き起こす。

その独特かつ大胆な絵は彼にしか生み出す事の出来ない物で、世界中から評価をされている奇才を持つ。


未来を約束された存在であり、早乙女学院が誇る貴重な人材の一人である。

そんな天才の彼には、変わった癖がある。


……それは。


「……はむっ」

「~~~~!?」


突然後ろから肩に噛みつかれた裕作は、甲高い唸り声を上げる。

痛みとこそばゆいとの中間、苦痛と快楽が混ざった妙な感覚。

沙癒にしか出せないこの絶妙な痛みは、何とも言い難い気持ちを錬成させる。


「ちょ、沙癒! いきなり嚙みつくなっていつも言ってるだろ!」

「んー! んー!」


引きはがそうとする裕作に対し、更に歯を立て食らいつきながら抵抗を見せる。

そう、彼……沙癒はストレスが溜まると何かに噛みついてしまう悪癖がある。


現在、彼が新しく描いている絵の進捗が非常に悪く、手詰まりの状態が続いていた。

描いてはやり直し、また描いては白紙に戻す。


次に出そうとしているコンクールの締め切りが近づいているのに、何も仕上がっていない焦り。

頭に浮かぶ理想とはかけ離れ、納得のいくものが描けない悔しさ。

創作に携わるすべての人間が味わう苦痛、それが溜まり爆発寸前になっていた。


「今すぐ辞めないと、母さんに言いつけるぞ!」

「――むぅ」


裕作がそう警告すると、しつこく食らいついた沙癒はようやく噛みつくことを止めた。

噛まれた部分を摩りつつ、裕作は振り返り背後にいる沙癒を見ると、彼は未だに苛立ちを抑えきれていない様子だった。


毛が逆立った猫の様に『フシャー』と息を漏らしながら威嚇をしている。


沙癒の悪癖は子供の頃に染み付いたものであり、裕作が何度注意しても止める気配がない。

これでも昔よりかはましにはなってきたが、それでも兄の立場としては是非直してほしい行動の一つである。


「沙癒、ストレス溜まってるなら気晴らしにどこか連れっててやろうか?」

「……私は裕にぃに噛みつければそれでいい」

「俺が良くないんだが???」


どうやら相当ストレスが溜まっているようで、このままでは弟に食い殺されかねない。


「沙癒、しばらく休んだらどうだ?」


この数日、沙癒はずっとこんな調子だった。

食事をすれば箸を噛み、新品の歯ブラシを何本もダメにしている。

このままではストレスで体を壊してしまうかも知れないと思った裕作は、何度も休むように忠告を続けている。


だがしかし。


「……描く」

それでも沙癒は絵を描くことを止めなかった。


「意地張るなって、倒れたらどうすんだ」

実際、今回沙癒が出そうとしているコンクールはそこまで大きなものではない。

まだ作品を出してもいないので、今なら辞退をしても何の問題もない。


「今回は辞退して、次頑張ればいいだろ」

裕作の言い分は正しい。

ここで作品を出せなかったとしても、今後沙癒の人生を大きく揺るがす事態など起きない。

むしろ、今無理をして描き続ける方が何倍もリスクがある。


――それでも。


「……いや!」

兄の言葉を強く否定し、沙癒は拳を硬く握り絞める。


「私は描き上げたい。体の事とか、賞の事なんてどうでもいい」

「――沙癒」

「……じゃないと、この世に生まれなかった絵が可愛そうだもん」


これは、創作者としての責任。

自分が描いた物は自分にしか作り出せない。

一度描き始めた物は、最後まで責任を持って描き上げる。

そうしなければ、この世に生まれなかったものは一生形にならない。

それが、才川沙癒という一人の絵描きが抱く創作に関する考え方だ。


彼はあきらめたくない。

自分が始めたものに対し、逃げたくない。

だからこそ抗い、苦しみ、命を削る。


「――わかったよ」

弟の熱意に負け、諦めるようにため息を吐く。


「はぁ、しょうがないか」

裕作は服の首元を捲って、肩のあたりを見せつけるように肌を露出させる。


「……いいの? 噛みついて」

「ホントは嫌なんだが……」

裕作は沙癒の創作活動に関しての相談に乗る事が出来ない。

何かを作り出す喜びも、苦しみも分かち合う事もない。


だが、努力をする弟を支えることは出来る。

弟の為になるのであれば、この身を差し出す事など安いもの。

彼は何があろうと沙癒の傍に寄り添い、支えると誓ったのだから。


「まぁ、俺なんて噛みついても楽しくないだろうけど」

「ううん、全然」

「え?」

「むしろ、なんか興奮してくる」

「あのー沙癒さん、目が怖――痛! おい、手加減しあああああああああああああ!!!」


血に飢えた獣の様に飛びついて、太い首に食らいつく。

手加減無しに噛みつくその痛いを、裕作はただ耐えるしかなかった。


――沙癒が満足した時には裕作の首元は絆創膏だらけになったという。

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