第41話 ただのお嫁さんだから
◆
アイルが目覚めると、そこは見覚えのある天井だった。
ピンクでも、うさぎとくまが踊っているわけでもない、普通の天井。
幼い頃に家を焼かれ、両親を失ってから何年も暮らしてきた教会宿舎の天井を、アイルは忘れたことがない。だってこのベッドの上で、焼かれた親を思い何度涙を零したことだろう。
それが両親との、たったひとつだけの記憶。
その事実を唯一知るのが、この親代わりの司教である。
「目覚めましたか?」
「見ての通りね」
投げやりに答えながら身を起こしてみると、まだ頭が痛い。
そりゃそうだ。だって、全身がドロドロに溶けていく『夢』を視たのだ。敵を攻撃するたびに、体中が溶けていく。そんな激痛を感じながらも戦う男の夢から醒めて、アイルはそっと自分の爪先を撫でる。
まだ陽が高い。日付が変わっていなければ、あれからあまり時間が経っていないようだ。
「ユーリウスは?」
「あなたの願い通り、勇者らを助けに行きましたよ」
「違う、私は……」
たしかに、最初は彼らの危機を聞いて、ユーリウスに助けてもらいたいと思った。
だけど、アイルは彼が死んでしまう未来を視てしまったから。それをユーリウスももうわかっているはずなのに。
「……司教、ユーリウスに余計なこと話してたでしょ」
「はて、なんのことやら?」
「私、部屋の外から聞いてたんだからね」
司教が、ユーリウスにアイルの『特殊能力』について話していた。
それを盗み聞きしていたことは、アイルは覚えている。覚えているのだ。
だけど、それだけ。
司教からの話を聞いて、彼がなんて言ってくれていたのか。
ズキズキ痛む頭でどんなに考えても、彼の言葉を思い出すことができない。
「なんで、なんで思い出せないかなぁ……」
悔しくて、涙が止まらない。
忘れてしまったということは、絶対に嬉しくなることを言ってくれていたということ。
その事実がわかっても、でも肝心の言葉が思い出せない。
ありがたいはず。しあわせなはず。
それなのに、肝心のその内容がまるで思い出せない。
「すごく嬉しくなること、言ってくれていた気がするんだ。でも、ほんとさっきのことなのに……私、何も思い出せない。こんな薄情な女がそばにいても、どうせいつか彼も、私が嫌になって……」
――だから、幸せになんてなりたくなかった。
――楽しいことなんて、どうせ忘れてしまうならなくていい。
溢れ出した思いは止まらない。
「私、ほんとは甘い物が好きなの」
「知っています」
「でも、なるべく食べないようにしてたの。だって、どうせおいしく食べたところで、全部忘れちゃうくらいなら……食べない方がいいじゃない。お酒を飲んで、それで酔っぱらって記憶を失くしていたほうが……まわりから気を遣われないで済むし」
「知ってましたよ。あなたがそこまで酒が好きではないことくらい」
昔から司教は、安易に頭を撫でてきたりしない。アイルが一度聞いたときに『自分はあなたの本当の親ではありませんから』と言われたことを覚えている。
当時は、それが悲しかったけれど……多少大人になった今ならわかっていた。
それが、司教なりの愛情なのだ。
「だから私は、そんな不毛な酒を飲むなって、ずっと言っていたでしょう。酒に呑まれてはいけません。酒は楽しく飲むものです。たとえハゲ上司の頭で遊んで水晶を割ったとしても、ね」
「あはは……覚えてないな、そんな楽しそうなこと」
そんな司教すらも、自分を手元から追い出した。
最初はとても悲しく、だけど受け入れなければならないと思った。
だって、自分は司教の本当の娘ではないから。ある意味親離れのような感覚で、まぁお酒を飲みながらその日暮らしの生贄生活でもしようかと、そんな軽い気持ちでドラゴンに乗ったのに。
アイルは気合を入れて、自分の頬を叩く。
「行かなきゃ」
「いいんですよ。このまま教会にいても」
「一度追い出したやつが、何を言うかな」
立ち上がったアイルが「あのとき、私は悲しかったんだからね!」と告げれば、司教は「覚えていてくれて何よりです」と肩を竦める。
そんな司教が育ててくれたからこそ、アイルは自分の足で歩けるのだ。
「私が覚えていないってことは、それだけユーリウスがいい奴ってことでしょ」
アイルがユーリウスについて覚えているのは、自分よりも料理が上手だということ。
あと、何に対してもしつこいということ。女性に対して偏見があり、思い込みが激しいということ。二日酔いすると過剰に心配してくるし、禁酒制限なんてもってのほかだ。それに、すぐに照れる。少しでもアイルが色気を見せようものなら、『怪物伯』なんて異名が台無しになるくらい、すぐに真っ赤になってうろたえる。
――あれ?
思った以上に覚えていることが多くて、アイル自身が驚いてしまう。
まさか、忘れるよりも覚えていることが多い人がいるなんて思わなかった。
「なんてくどい男なんだ?」
アイルは苦笑しながら、部屋を出る。
正直、体調はあまりよくない。
それに、いくら怪物伯がくどい男であろうとも、今度こそアイルはユーリウスのこと自体を忘れてしまうかもしれない。
テレーゼのときもそうだった。ある日忽然、目覚めて一番心配して来てくれた人のことが、すっぽり頭の中から抜け落ちていたのだ。
そんな今までの経験則から、ぼんやりとわかる。
きっと、彼の嫌なところも好きになりつつある自分が、そう遠くないうちに彼のことをすべて忘れてしまうのだろうな、ということを。
それでも、アイルに『行かない』なんて選択肢はない。
――だって、私はあなたのお嫁さんだから。
「あなたほどの『聖女』を、私は他に知りません」
背中からかけられた最高の誉め言葉を、アイルは聞こえないふりをした。
だって、アイルは聖女として行くのではないから。
――彼の『お嫁さん』として『一蓮托生』だと……あのときの私は言わなかったんだっけ?
たしか、そんなことを匂わせたのは、最初の亀を狩ったとき。
その考え方は、記憶のあるなしに関係ない。
ただアイルにとっての『夫婦』とは、そういうものだっただけ。
それが、アイルにとっての『理想の夫婦』だっただけ。
「私はもう聖女じゃなくて、ただのお嫁さんだからね!」
教会の外に出れば、大きなドラゴンがアイルを待っていた。
比較的かわいい声音は、リントのもの。
「ヴルムからお嫁さんの足が必要だろうって連絡がきたんだけど~?」
「さすがだね! ちょうど独りよがりな旦那に文句を言いにいこうかと思ってたの!」
そして暁色のドラゴンは「そらきた」とばかりに威勢よく吠える。
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