第42話 聖女の祈りを叶える怪物
アイルがリントに乗って山を越えていると、彼女にそっくりなドラゴンとすれ違った。彼の口元には、えっぐえっぐと泣いた聖女がぶら下がっている。
リントが一応確認してくる。
「何か声をかける?」
「無視でいいんじゃないかな」
というわけで、アイルが目的の沼地に着いたのは、けっこうすぐのこと。
眼下では、勇者と怪物伯が懸命に奇妙な形をした人型の何かと戦っていた。少し離れた場所では、ぐったりと倒れた戦士と女魔導士が倒れている。息があるのか、こんな高い場所からは判断つかない。
だけど、アイルは構わず印を切った。
「
二人の周りに清浄の結界を張る。三角錐の中は狭いものの、瘴気の影響は受けないはずだ。これで怪我の悪化がすることもなければ、外からのある程度の攻撃も防げるだろう。
「あれで大体は大丈夫だと思うけど、念のためリントちゃんはテレーゼさんたちをよろしくね」
そんな高度な結界を一瞬にして形成したアイルはリントに指示を出したのち、ひょいっとドラゴンの背から飛び降りた。
「お嫁さま⁉」
地上までの距離は、あの怪物伯が手のひらサイズに見えるほどに遠く。
だけど、突如張られた高度な結界とドラゴンに気付かない勇者と怪物伯ではない。
特に、怪物伯ことユーリウスは「アイルどのおおおおおおおお⁉」と叫びながら思いっきり手を広げてくれていて。
「元気そうで何よりだよ」
と、アイルは平然とした顔でその腕の中に飛び込んだ。
受け止めたユーリウスは、思いっきり戸惑いを隠せていない。
「どどど、どうしてこんな場所に来たんだ⁉」
「そんなのもちろん、カエル肉は鶏肉に似てるっていうから、今晩のおつまみに焼きカエルでも作ろうかと思って」
「やっぱり俺を心配してとかではないんだな⁉」
残念半分、呆れ半分、それでも嬉しそうでいっぱいのユーリウスは、泥沼にアイルを下ろそうか逡巡した後、下ろすことにしたらしい。
「悪いが、あの目玉は俺がもらうぞ。良質なゼラチンが取れそうだ」
「煮凝りでも作ってくれるの?」
「ゼリーやババロアと言ってくれるか⁉」
そんな、いつものやり取りにアイルは小さく笑って。
確認するのは、彼の手だった。溶けた大剣はすでに放り投げてある。
代わりに武器にしていたであろうユーリウスの爪もボロボロだった。もう鋭さがない以前に、手もかなり爛れてしまっている。
迷わず、アイルは彼の手を取り、祈りを捧げようとした。
――あぁ、なるほど。
たとえアイルが来たところで、未来はさして変わらないらしい。
アイルの目には、この後すぐにアイルを庇って死んでしまうユーリウスの未来が視えるけれど。
――未来なんてクソくらえだ。
「
ただ、もう少しだけ意識を失わないように、彼の手をぎゅっと強く握るだけ。
すると、みるみるうちに、彼の手が修復されていく。
ただ回復したとしても、元凶が改善したわけではない。また攻撃すればすぐにダメージを食らうのは彼のほうだろう。遠距離から攻めようにも、頼りの魔導士の意識はすでになし。
都度都度回復したところで……その回復時間をどうするのか。
現に、今も辛うじて勇者クルトが時間を稼いでくれていただけにすぎない。
なのに、ユーリウスは言う。
「ありがとう。じゃあ、アイル殿もリントのそばに下がっていてくれ。最悪、俺が使い物にならなくなったら、リントに伝えてくれ。山一つ消し飛ばす火力じゃなくちゃ足りないと――」
「その心配はいらないと思うよ?」
アイルの笑みに、ユーリウスが目を丸くする。
そんなかわいい旦那様に、アイルはもっとかわいい笑顔を返すだけだ。
「私のために、あなたは勝ってくれるんでしょう?」
「……っ!」
ユーリウスが声にならない感動に打ちひしがれているときだった。
「くそっ」
とうとう、勇者クルトが泥に足を取られてしまう。そんな隙を当然見逃してくれる敵ではなく、カエル人間の泡攻撃が勇者を襲っていた。
「ちっ」
舌打ちしたユーリウスがすぐさま飛び出す。そして無理やりクルトは引っぱっては、自分が前にと躍り出て。代わりのその攻撃が脇腹をかすり、必死に奥歯を噛み締めていた。
未来を変えるなんて、そんな大それたことをアイルは自負したことがない。
だって多少人より聖女としての力が強かったとしても、そんな力を誇示して誰かを守ったなんて、ほとんどないから。
そんな力なんかなくったって、未来は変えられる。
ただ、アイルは叫ぶだけ。
「その場でしゃがんで!」
その指示にいち早く反応したのは、クルトのほうだった。
今度はクルトが無理やりユーリウスを掴み倒す。本来は彼の心臓があったであろう位置を、カエル人間の鋭い舌が通り過ぎた――が、その先。伸びた舌がまっすぐアイルへ迫る。
しかし、アイルは満足げに笑みを浮かべていた。
「アイルっ!」
「アイルウウウッ⁉」
男たちが叫んでくるけど、関係ない。
――ちょうど限界だからね。
その瞬間、アイルの意識が遠のけば、膝から崩れる寸前に、曇天の下すぐ眼前にピンクが生々しい舌が通り過ぎていった。
だから、あとアイルがやるべきことが指さすだけ。
多くの人に恐れられ、スイーツとお嫁さんが大好きな怪物伯へ。
あの魔物を倒して――と。
その祈りは、しかと怪物に届けられる。
「あぁ、きみの夫に任せとけ」
ユーリウスが力強く沼地を踏みぬいた。
カエル人間が泡の障壁で身を守ろうとするも、関係ない。
雄たけびをあげた怪物伯は、己の手が溶ける恐怖も厭わず、泡ごとカエル人間を見事真っ二つに切り裂いて。
――あぁ、よかった。
安堵すれば、より気も抜けるというもの。そのままアイルはまぶたを閉じようとするのに、うるさい男のひとり勇者クルトがアイルの背に手を回してくる。
「大丈夫か、アイル⁉」
「いつものやつだよ。だから心配は――」
だけど、強く否定するのは彼ではない。
「何度だって心配する」
泥だらけになりながらもアイルを見下ろす大きな男、ユーリウス=フェルマン怪物伯。
彼は自身が汚れることも厭わず、アイルの隣に屈んできては、その悪魔すら切り裂いた固い手で、アイルの身体をそっと抱きしめる。
薄れゆく意識の中で、アイルは辛うじて口を動かした。
「あなたのこと、今度こそ忘れちゃうかもしれないから。だから、これだけは聞いてほしい……私、あなたのこと、けっこう好き――」
そのときだった。アイルの目の前が一瞬暗くなる。
決して目を閉じたわけではない。ただ、唇に少しかさついたものが重なってきたのだ。
――なんで、今、キスするの⁉
唇を離したユーリウスは、こどものようにはにかんでいた。
「きみは覚えていないかもしれないけど、以前教えてくれたことがあるんだ。小さい頃、初めてのキスがどんな味なのか興味があったと。夢だったんだろう?」
泥だらけで、怪我だらけ。
まわりの風景だって、沼地で、魔物の死骸がたくさん浮いているし、異臭だってすごいのに。自分たちだってどろどろの汚い状態だ。
子供の頃からの憧れのキスの味が、泥と鉄の味でした――とか、なんてひどい思い出なのだろう。
それなのに、キスした張本人ユーリウス=フェルマンは、世界中で一番幸せだと言わんばかりに嬉しそうな顔で告げてくる。
「いちばん幸せなときの記憶がなくなるんだろ? 目覚めたときが楽しみだな」
「それ、ずるい……」
だけど、さすがにアイルの意識もそこまで。
文句を言いたいことが山ほどあるのに、夢の中へと堕ちてしまう。
しかし、アイルは一つだけ確信があった。
たとえアイルが、今の出来事を忘れたとしても。
ユーリウスのおいしくないキスの味だけは、一生忘れることがないだろう――と。
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