12 帰郷
一年後、初美の症状は少しずつ悪化していった。
時々襲ってくる目眩や、恐怖と不安。夜に一人になると、風のガタガタと吹く音や、屋根に直接叩きつける雨の音でも怖くなり、真夜中に真琴に電話をすることもあった。
初美は分かり始めていた。もうここにいることが限界に近づいていることを…。
次の日、覚悟を決め、アキラの元へ病院に向かった。そして、
「白井さん、私もう限界になっているんですよね?」
と尋ねた。
「そうだね…。そろそろご両親のところに帰った方がいいかもしれないね。これ以上あそこにいると、きっとマスターにも迷惑をかけると思うよ」
「分かりました…」
初美の肩が震え、大粒の涙が頬を伝った。アゴに涙が溜まり、ジーンズに落ちていく…。
「うっ…うっ…。白井さんともお別れになるんですね。私、新しい病院で新しい先生になったら…。不安です。怖いです…」
「そうだね。確かに今までと違う環境になる恐怖はあると思う。それでも前を向いて進まなければいけないんだ。初美ちゃんならきっと、どこの病院に行っても大丈夫だよ」
「白井さん…」
初美の肩が大きく震え、ジーンズの上にぽたぽた涙が止めどなくこぼれ落ちた。
アキラは初美を抱きしめたい衝動を、ぐっとこらえた。
アキラは初美に恋をしてしまった。これは精神科医として、プロとして決してあってはならないことだ。そんなことはアキラ自身がよく分かっている。何度も何度も自分に問いかけ、絶対違う。と、自分の感情を抑えていた。
初めは同情かと思った。それは知り合いだからだ。だがあの時、初美の屈託のない笑顔を見た時に、確信を持った。気づいた時にはもう、初美に惹かれていた。
初美を守りたい。
アキラも初美と同じ、離れたくはなかった。
夕方カランコロンに帰ると、マスターが心配そうにして、初美のことを待っていた。
「マスター、やっぱり私、もう限界みたい…。田舎に…田舎に帰ることにします」
初美は大きく深呼吸をした。
「そうか…。決めたんだね。何もできなくてすまなかったね」
「そんなことないです。ここに置いてくれてるだけで、私、嬉しかったです」
「そうかい?ご両親には?」
「夜に電話します」
「そうか…。寂しくなるね」
「私も、この黄色いエプロン着けなくなるのが寂しいです」
「ここまで頑張ってくれてありがとう」
「私こそ、ありがとうございます」
初美は病院で涙は枯れたと思っていたが、枯れることなく涙は溢れでてきた。ティッシュで目を何度も吹き、鼻をかみ顔全体が赤くなり、耳が火照った。
その夜、初美は、母親の多恵子に電話をかけた。
「もしもし、お母さん?私」
「初美?しばらくぶりね。体調はどう?」
「うん。今日も診察だったけど、やっぱりもう、ここにいるのは無理みたい」
「そう。やっと帰って来るのね」
「うん。早めに準備して帰るね」
「お母さん迎えに行こうか?」
「大丈夫。あとで荷物送るから」
「分かった。待ってるわね」
「うん、それじゃ…」
初美は深くため息をついた。ここでの生活にピリオドをつけるなんて、まだ考えられなかった。実感がわかなかった。
そし続けて真琴に電話をかけた。
「もしもし、初美。調子悪いの?」
「ううん、今日はお別れの電話」
「どういうこと?」
「私、今日病院に行ったの。診察してもらったらもうダメみたい。田舎に帰ることにしたの」
「え?いつ?」
「早いうちに…。荷物まとめたらできるだけ早く帰るつもり」
「そっか。決めたんだね」
「うん。真琴、色々ありがとう」
「ううん、私も帰ることがあったら、顔見に行くね」
「うん、それじゃ…」
プッ。
初美は電話を切った途端、思いっきり泣きじゃくった。部屋中にその声は響いた。
真琴と一緒に上京し、事故に合い、マスターと出会い、それからカランコロンに務めて十四年が経つ。長いようで短く感じた。
黄色いエプロンを身に着け、たくさんのお客さんと出会い、笑い、そしてアキラともここで出会った。思い出は数え切れない程、たくさんある。この場所から離れるなんて、考えたことなどなかった。しかし、もう限界。
初美は三十六歳になるところだった。
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