8 異変 ②
真琴は初美のアパートに行って、様子を見てきたことを、マスターに相談した。
「少し痩せてたし、日中でもカーテンも閉めっぱなしで、部屋の中も散らかり放題。ビールも昼間から飲んでたんですよ。絶対おかしい」
「そうか。初美ちゃんがそんな状態なんてなぁ。一体どうしたんだろう」
「そうなんですよ。変ですよね。アタシ心配で…」
「うーん、一人でいるのも心配だよな。それなら二階の部屋が空いてるから、ここに引っ越してきてもらうのはどうだろう。そうすればボクもお客さんがいない時様子を見れるし、真琴ちゃんも時間がある時は泊まればいいよ」
「え?いいんですか?」
「うん。昔はボクが寝泊まりしてたから、ひと通りの物はおいえあるよ真琴ちゃんと初美ちゃんさえ良ければだけどね」
「ありがとうございます!アタシ、初美に話してみます!」
「ごめんね。初美ちゃんのこと、真琴ちゃんにだけお願いしちゃって…。」
「とんでもないです。アタシこそ頼りにしてすみません」
「そんなことないよ。ボクは君たちの親代わりなんだから、遠慮なんてしなくていいさ」
「はい。それじゃ早いうちに引っ越しできるように、伝えてみます」
真琴はその日の夜初美に電話やラインをしたが、返事はなかった。
そして次の土曜日。
真琴は初美のアパートに行ってみると、また部屋が散らかっていた。
「真琴、私どうしちゃったんだろう。自分でも変なのはわかってる。でも一人でいると、どんどんダメになっていくんだ」
真琴は泣きじゃくる初美を抱きしめ、
「大丈夫だよ。アタシもいるしマスターもついてる。独りじゃないよ。ねえ、マスターからの提案で、カランコロンの二階に引っ越さないかって言われたの。そうすれば調子のいい時はお店にすぐにでられるし、調子の悪い時はアタシもマスターも初美の様子を見に行ける。どう?」
「うん、うん、そうしたい。一人が怖い」
「よし。じゃあ決まりね。初美はベットで休んでいて。アタシ片付けちゃうから」
真琴はそういうとカーテンを開けた。初美の部屋に、数日ぶりの光が差し込んだ。
カフェ、カランコロンの二階は十二畳一間に、押し入れがある。そこには小さめの冷蔵庫や流し台があった。住むには充分すぎるくらいの広さだ。
引っ越しにはマスターも手伝い、一日店を休み、軽トラックを借りてきてはタンスやベットなどの大物、布団や雑貨類など、往復三回に分けて運んだ。
この時初美は、久しぶりの笑顔を見せた。
そして新たにカフェの二階に住むことになった。
マスターも真琴もこれで大丈夫だと思っていた。
もちろん初美自身も…。
次の日から早速お店に出た。久々のお店はなぜか新鮮のような気がした。
ガランゴロン!
「いらっしゃいませー!」
初美は活気を取り戻したかのように、活き活きと仕事をした。
途中マスターに頼まれて銀行に行くことになった。
「外歩くの平気かい?」
「はい。今日は調子がいいので大丈夫です」
「すまんね、早速用事を頼んで…」
「いいえ、私こそ外の空気を吸いたいので、ちょうど良かったです」
「急がなくてもいいから、気をつけて行ってくるんだよ」
「はい。それじゃ行ってきます」
初美は元気に外に出て行った。
銀行までは歩いて十五分くらいだ。そう遠くはない。マスターは初美の気分転換にもなるだろうと思い、用事を頼んだのだった。
お店を出たのは十時頃。しかしお昼近くになっても初美は戻って来なかった。マスターは気が気ではなかった。
初美は、銀行でマスターに頼まれた振込を、すんなりと済ませ、またお店に戻ろうと道路に出た。車は往来していた。その車を見ているうちに足がぴたりと止まった。
「私、どこに帰るんだっけ…」
初美はどこから来てどこへ帰るのか分からなくなっていた。しばらく店とは別の方向を歩いていた。
「そうだ!思い出した!お店に戻るんだった!でも…、ここはどこ?お店にはどう行くの?」
初美は初めは行先を忘れ、右往左往しているうちに、店とは反対方向を歩き出し、今度は帰る道が分からなくなっていた。
こんなことは初めて。いつもの初美なら、反対方向を歩いていることくらい分かるのに、この日は違った。そして散々迷ったあげく、通り道にたまたま交番があり、そこに助けを求めた。
この時一瞬自分の名前さえも忘れていた。
お昼の十二時半頃、マスターのスマホに警察から電話がきた。
「はい、カフェ、カランコロンです」
「あ、もしもし、突然のお電話すみません。こちら警察の者ですが、園田初美さんは、そちらで働いている方で間違いないでしょうか?」
「はい。初美ちゃんに何かあったのですか?」
「どうやら帰り道が分からなくなったようで、黄色いエプロンにお宅のお店の名前が書いてあったので、お電話した次第です」
「え?そうでしたか…。ご迷惑をおかけしました。今から迎えに行きますので、そのまま待つようにお願いできますか?」
「はい。分かりました。お待ちしております」
「よろしくお願いします」
マスターはエプロンを外し、急いで交番へ向かった。
店から交番までは二十分。初美は同じ道をぐるぐる歩いていたのだった。
「初美ちゃん!大丈夫かい?」
「マスター!ごめんなさい。私帰り道が分からなくなって…」
「そうかい。久しぶりの外だから分からなくなったのかな?ボクが悪かったよ。無事で良かった」
「お店の方ですか?少しよろしいですか?」
警察官がマスターを近くに呼び寄せ、
「以前にもこういったことはありましたか?」
「いえ、ありません。でも彼女最近体調が悪くて、今日は良さそうだったから、久しぶりに外での用事を頼んだところです」
「そうですか。この辺は交通量も多いので、無事で何よりでした。それと、一瞬でしたが、自分の名前が分からなくなってしまったようですので、注意して見てあげて下さい」
「そうでしたか。気が動転していたのかもしれません。ありがとうございます。お世話になりました」
マスターは警察官にお礼を言い、初美を連れて店に戻った。
店に帰るとカウンター席に初美を座らせ、マスターはコーヒーを淹れた。
「初美ちゃん、コーヒー飲んで少し落ち着こう」
そう言うと、初美の前にコーヒーを置いた。
「マスター、迷惑かけてごめんなさい」
初美の瞳から涙がこぼれ落ち、コーヒーの中に入った。
「泣かなくてもいいんだよ。初美ちゃんが悪いんじゃない。ボクが悪かったよ。まだ本調子じゃないんだね。しばらくは店の中の仕事だけをしてもらうよ」
「はい…」
初美はこくりとうなづくと、コーヒーを一口飲んだ。
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