第12話

 男が去ると、台所にやってきたノボルが


「あいつのことは忘れたほうがいい」


 開口一番そう言った。


 陸は不安を心の片隅に感じていたから、何も言わずに頷いた。お互い食欲があまりなくて、彼が先に述べていたように軽いものでひとまず昼食を済ませた。


 間もなく集まった生徒たちとノボルが稽古を始めた。


 陸は、自分の部屋に上がって畳に横になって本を読んだ。学校から早速借りてきたものだ。だが、集中は続かない。


「驚いたなぁ。おじさんに苦手な人なんていないと思ってたのに」


 あんな警戒たっぷりのノホルも初めてだった。


 ノボルは、陸の印象からすると誰とでも付き合える男だ。友人だけでなく、彼には知人だって多くいた。


 まさかノボルのあんな真剣な表情を見るとは思わなかった。


(ああいう顔していると、確かに父さんの兄って感じはあるかも……)


 陸にとってノボルは、威圧感を感じない親しい一番の親戚だった。しかし、男と接していた際の、あの険しい表情と威圧感は父に勝る。


 陸の父は、そもそも怖いというよりは真面目で誠実に物事に励むタイプの男、という印象だった。


 笑顔がすごく柔らかで、のほほんとしているが陸の父は意外にも刑事だ。


 たまに部下といる際に鋭い雰囲気になった時『あの父から?』と不思議に思うくらい、どきどきと圧迫されるような気迫を感じた。たぶん、見慣れない父の、仕事姿だったからかもしれない。


 父は陸から言わせると温厚な人だ。


 たまに、あまりにも煩いと、ノボルの足を軽く払いつつも手で掴んで支え『言うこと聞いてくれますよね? 兄さん』なんて、笑顔でお願いしていた。


 それを優しいと言ったら、ノボルが非常に何か言いたそうな顔をしていたけれど。


 ――ノボルの幼馴染が持っていた、不思議な箱。


 陸は思い返して、確かにその中から強い意思と視線を感じたと改めて結論に至った。


 幼い頃から武道一筋の一族として心身共に鍛えていたおかげか、陸もノボルも、気配や視線には敏感だ。


「…………大変なことにならなきゃいいけど」


 いや、小説の中の話じゃあるまいし、と陸は苦笑した。


 すっかり本に手がつかなくなって勉強机の上に本を置く。勉強時間として取られているわけだが、このあと生徒たちが一時休憩に入った際、ノボルと手本の組み手をする予定が入っていた。


 嫌だけど『賭けの勝負』を兼ねている。


 避けるとあとで予定外にも引っ張られてしまうということがあってから、陸も自分の時間をきちんと過ごさせてもらうためにもノボルに付き合っていた。


 学生服から着替えた今、その組み手でもじゅうぶんに動きやすい、青いシャツと運動用の長ズボンを着ていた。


 普段からこんな軽装なので、違和感はない。


「とはいえ、あと一時間半か……」


 陸は実家から持ってきた『クマさん』の時計を見て、読書にも見が入らないし、どうしようかと考えた。


「よし」


 そのまま部屋を出ると、家の隣にある道場へと顔を出した。


 中には中学二、三年らしき二人の少年と、四人の男子高校生がいた。隣町の高校も午前中授業が同じ曜日であるみたいだ。


(おお、今日も頑張ってる)


 若い学生は毎日は来ないメンバーで、週に何度かの受講だった。


 ノボル空手からテコンドーから護身術まで、希望があれば幅広く教えてくれる。寅々炉家道場は本家分家、長男次男に関わらず強い者が継ぐことになっていて、さすがは寅々炉家はじまりの道場を継いだだけはある。


「おっ、陸か。ちょっと待ってろ」


 身体を動かしていた学生たちが気付いて、ノボルもややあって見てきた。見学ではなく話があるみたいだと視線で察したようだ。


「こんにちは、陸さん」

「陸師匠、こんにちはっス」


 気さくなに声をかけられたものの、陸はそそそ……と同情入り口から少しだけ離れてしまう。


「こ、こんにちは……」


 この道場に通っている生徒たちも、みんないい感じだった。


 陸は『先生の甥だ』と悪目立ちして見られるのが嫌だと考え、ほとんど私用では道場へ顔を出さないのだが、時々ノボルと演習をしにきても嫌な顔はされていない。


 ノボルは、良い友達になれるはずだと陸の背中を押しているが、少し内気なところがある陸は。自分から進んで友達になろうという動きは見せなかった。変な遠慮をして、距離を置いてしまうのだ。


「なんだ、どうした?」

「あの、邪魔をするつもりはまったくなくて……」

「何をおろおろしとるんだ? そんなこと分かってる、頼ってもらっているようで嬉しいぞ」


 タオルで汗を拭いながらやってきたノボルが、白い歯を見せてニッと笑った。


「智道の代わりにはなれんが、まぁ、俺はことは第二の親父だと思ってだな――」

「継がないからね」


 陸はにっこりと笑ってぴしゃりと言った。


「……その感じ智道にそっくりだ……だが、約束を忘れてないな?」


 ノボルが途端にニヤリとした。


 その合図に気付いて陸が「あ」と声を出した時、突然ノボルが屈み、陸の細い両足を払おうと足を出してきた。


 陸はすかさず床を蹴り、ノボルの頭を越えて道場内へと入って着地した。


「さすがは智道の息子!」


 ノボルが叫び、その場で床を蹴ると、跳躍して身体を捻りそのまま陸を蹴り飛ばそうとした。


 陸はその動きを真っすぐ目で追い、その強靭な蹴りを右手で受け止める。


「ぐっ」


 空中で一瞬止まったノボルが、顔を歪めた。


 道場内で誰かが「あっ」なんて声を上げた。陸は次の瞬間、ノボルの太い足をできるだけ優しく掴み、引き寄せると、左足で彼を蹴り上げていた。


「ひえっ」

「容赦ねぇっ」


 見ていた者には『優しい力でされた』なんて感じなかった。


 強い力で引き寄せられたノボルの身体が、軸がわずかにも動いていない陸の、素早い蹴りに吹き飛ぶ。


「おじさん、今日はこの辺でいいかな。本題に入りたいんだけど」


 床にべしゃっと落ちたノボルを見下ろし、陸は頭を少しかく。


「お、おう、なんだ。言ってみろ」


 用件一つ聞いてもらうために、勝負が必要だなんて。


 と陸は思ったものの、彼の『先生』としての時間にお邪魔してしまったことへ申し訳なさは感じていた。妥当かと思い、しゃがみ込んで彼と目線を合わせる。


「あのねおじさん、僕、少し暇でさ。何かお使いとかない?」

「ん? おぉっ、ちょうどシップが切れていたところだ!」


 ノボルは先程の衝撃などなかったかのように元気よく起き上がると、道場の片隅にいつも置いてある救急箱を開く。


「ふむふむ、シップとテーピングに、そうだな………念のため予備でいつもの傷薬も用意しておこうか。あと少しで切れそうだしな」


 彼は、忘れないようにと律儀にも素早くメモを書く。それを陸へ手渡した。


「道場用の、いつものところから必要なお金を取ってくれ。領収書も忘れずにな」

「うん」


 ノボルは「じゃ、頼んだ」と笑顔で言って戻っていった。二人の『勝負』を見ていた生徒たちの心に、火をつけたなどと知らず陸は道場を出る。


 必要なお金を封筒に入れ、家を出た。


 この地域には一つだけ大きな薬局がある。百均やその他雑貨も取り揃えた大型店だ。


 商店街にある横長の広い店は、かなり目立った。陸はそこで頼まれた買い物を済ませ、早く終わってしまったな、なんて思いながら外に踏み出したのだが。


 そこで、買い出しを思いついた自分に後悔した。


「あ」

「あっ、お前!」


 店を出たところで、ばったりと出くわしたのは海斗だった。彼は学校で見た時と同じ制服姿だ。

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