第14話 神のお告げ

 ブバスティスでは町中の人々が神殿に詰め掛けていた。

 バステト神の聖なる礼拝日だ。

 ムクターとマブルーカが礼拝堂の中に入ると、フランキンセンスの聖なる甘い香りが二人の鼻をくすぐった。夜明けに神官が祈りを捧げるために焚いたのだ。

「すごい人出だな」

 ムクターは日頃の礼拝で見かけない人出に嫌な予感を感じた。

「ほんとね」

 マブルーカもただならぬ雰囲気に気持ちがひどく落ち着かない。

「今日は神様から特別なメッセージがあるらしい」

 少し遅れてやって来たラモセ夫妻がムクターとマブルーカに声をかける。

「特別なメッセージ?」

 ムクターが意味ありげに聞き返した。

「ナイルの氾濫や何かの災害が起こりそうな時は、バステト神のメッセージがタミット様を通して降りてくるんだ」

「まさか昨夜の白い猫……」

 ムクターが昨夜の事を思いだしハッとする。

「ムクター。タミット様を見かけたのか?」

 白い猫と聞いたラモセの反応は素早かった。

「君がいっているタミット様かどうかはわからんが、昨夜神殿の敷地内で白いリビア山猫を見かけたんだ」

「それは凄い! タミット様にちがいない! タミット様はバステト神の化身と言われている神猫様、めったに人間の前に姿を現さないんだ」

「そ、そうなのか」

 その時ざわめいていた礼拝堂の中がシンと静まりかえった。

「タミット様と大神官様だ」

 礼拝に訪れていた全ての人が跪き、祭壇の前のタミットと大神官アメンナクテを見上げた。

「みなさま。今日はバステト神様からお告げがあります」

 礼拝堂の中が騒めいた。

「お静かに」

 大神官のひとことで堂内が静まると、タミットが祭壇の上から礼拝に訪れた人々を見つめた。

「タミット様、お願いします」

 大神官は祭壇の上のタミットを見上げながら、エジプトに古くから伝わる神々を讃える祝詞を上げはじめた。

 やがてすべてを唱え終わった大神官アメンナクテが、目を瞑り深々と頭を下げると、礼拝に訪れた全ての人々も大神官と同じように目を瞑り頭を下げた。

 礼拝堂が静まりかえる。

「ミャー」

 タミットが小さく声を上げた。

 その瞬間、大神官も人々も、魔法にでもかかったようにトランス状態に陥った。 

 空気がピンと張り詰める。

「よく聞くがいい」

 タミットが優しく澄んだ人間の女性の声で人々に話しかけた。

 不思議なことにタミットの声が人々の頭に響く。

「もうじき災いが東からやって来る。エジプトは大きな試練の時を向かえるのです」

 聴衆がざわめいた。

「試練は人々の心と魂を激しく揺さぶるであろう」

 礼拝堂に集まった全ての人がタミットの言葉に恐れ戦き固く目を瞑りひれ伏した。

「……」

 一瞬の沈黙の後、タミットは再び話し始めた。

「心して聴きなさい、疑惑には信仰を、怒りには赦しを、憎しみには愛をもって臨みなさい。然らばあなたがたは如何なる苦難の時にあっても平和と安らぎを得るでしょう」

 タミットが再び沈黙すると礼拝堂は清浄な空気で満たされた。

 しばらくしてタミットが初めと同じように、

「ミャー」

 と小さく声を上げるとタミットは沈黙し、人々は我に返った。

「ありがとうございました」

 大神官アメンナクテはひれ伏したまま、深々と頭を下げた。

 祭壇の上にタミットの姿はすでになかった。

「皆さん、バステト神様のお言葉を心に刻み、この先どんなことがあろうとも、愛をもって臨みましょう」

 大神官アメンナクテはそう言って静かに人々を見渡した。

 殆どの人は小さく声をあげて賛同したが、不安を感じ大神官に具体的なことを問いただす者も少なからずいた。

 ところが大神官アメンナクテはいかなる質問に対しても、

「具体的なことは一切わかりません。神様の御言葉を信じ愛に生きましょう」

 そう繰り返すばかりだった。

 こうしてタミットの神託を聞いた人々は複雑な面持ちで各々の家に帰った。

「今日のお告げは何を意味しているんだろう。ムクター、昨夜、タミット様をお見かけしたと言ってたが、おまえ何かお告げを受けたか?」

 ラモセはムクターの顔を覗き込んだ。

「白い猫が現れたのは、帰りが遅い娘を捜している最中だった。どこを捜しても見つからなくて、途方に暮れていると、この神殿の敷地内で偶然見かけたんだ」

 ムクターは昨夜の出来事の詳細を話すことは控えた。

「その白い猫はタミット様にちがいない」

「だが、なにもお告げはなかったよ」

「そうなのか……」

「珍しい猫だと思って白猫をじっと見ていたら、雲に月が隠れた瞬間、猫は姿を消したんだ」

「そうか……そう言えばレイラちゃんは帰ったのか?」

「学校の友達の家に居ることが後でわかったよ」

 ムクターは咄嗟に嘘をついた。

「よかったな」

「うん。ありがとう」

 しばらく一緒に歩いた二組の夫婦はラモセの農園の入り口付近まで来ると別れ、ラモセ夫婦は農園の事務所に行き、ムクター夫婦は自分たちの家に帰った。


「あなたどうしてラモセさんにあんな嘘をついたの?」

 帰宅してすぐにマブルーカが訊いた。

「マブルーカ、今日の白猫の言葉を憶えているかい」

「ええ、ほんとにびっくりしたわ。まさか猫が言葉を話すなんて。しかもとても恐ろしい予言だったわ」

「昨夜の白猫の話は嘘じゃない。きっとなにかとてつもないことが起きるんだ」

「そんな怖いこと憶測で話せないわね」

「うん、だから今のところはああ言うしかなかったんだ」

「夕方までに本当にレイラとネジム帰ってくるのかしら」

「タミット様の言葉を信じよう」

 ムクターとマブルーカはクッションに座ってお互いの手を握り見つめ合った。二人の胸はこれから起こるであろう恐ろしい出来事に不安で震えた。


 その日の夕方、レイラとネジムが無事に家に帰ってきた。

「レイラ、サイスまでいったい何をしに行ってたんだ?」

「父さんごめんなさい。とても急を要することがあって、アキレスさんに会いに行ったの」

 レイラは凄く申し訳なさそうに頭を下げ、それ以上は何も話そうとしない。

「今朝の礼拝で、タミットと呼ばれる白い猫から神様のお告げがあったんだ」

 ムクターは予言のことをレイラに話した。

「タミットから?」

「もうじきエジプトに試練がやってくるとね」

「エジプトの試練」

「レイラなにか知っているのなら話してくれないか?」

「……」

「実はおまえの帰りが遅いから、学校の担任の先生に会いに行ったんだ。その帰り、神殿の敷地内で途方に暮れていると、白い猫から突如声をかけられた。白い猫はタミットと名乗り、おまえとネジムがサイスに行ったと告げたんだ」

 そこまで聞くとレイラはあの恐ろしい暗殺計画のことを話しはじめた。

「近いうちにペルシアが侵略してくるの」

「ペルシアが!」

「うん。でもその前に王のイアフメス二世が暗殺されるわ」

「何だって!」

「危険だから誰にも言っちゃいけないってアキレスさんに言われたの」

 レイラは涙ぐんだ。

 マブルーカの顔から血の気が引いた。

「礼拝の時のメッセージはそういうことだったのか」

 ムクターは椅子に腰掛け腕を組んだ。

「今日の礼拝で神様からどんなお告げがあったの?」

 恐る恐るレイラが訊いた。

「災いが東からきて、エジプトに試練の時が来ると」

「タミットは人々を不安にさせないように、そういういい方をしたにゃ」

 それまで黙って聞いていたネジムがはじめて家族全員の前で口を開いた。

「ネジムがしゃべった……」

 ムクターもマブルーカも目を丸くしてネジムを見つめた。

「だから前にも言ったでしょ。ネジムは人間の言葉を話せるって!」

「たしかに、レイラがそういっていたのは憶えているが」

 ネジムをじっと見つめるムクター。

「タミットからネジムも人間の言葉が話せるようにしてもらったの」

 レイラはそう言ってネジムを腕に抱きかかえた。

「タミットもネジムも神様からなにか特別な使命を与えられて生まれてきたのね」

 マブルーカはレイラの腕の中で寛いでいるネジムの頭を優しく撫でる。

「ネジムが人間の言葉を話せることは隠しておいたほうが良いと思います」

 マブルーカが心配そうにムクターを見詰めた。

「そうだな。善良な人ばかりではないから、さらわれて金儲けに利用されるかもしれない」

「おいらも信用できる人間の前でしか話さないようにしているにゃ」

「ネジム、おりこうさんだね」

 レイラは指先でネジムの顎をコチョコチョと撫でてやる。

「イアフメス二世の暗殺計画も人々に知れたらパニックになるかもしれない」

 ムクターの顔がひどく険しくなる。

「そうなの。だから密かに暗殺を止めなきゃ。そのためにアキレスさんを頼ったの」

 レイラも負けないくらい真剣な顔をした。

「たしかにアキレスさんは強いが、どうして彼に頼むんだ?」

 なおもムクターは問いただした。

「暗殺者は神官に買収された二人のギリシア人傭兵だから」

 レイラの口から恐るべき返事がかえってきた。聞くべきではない、絶対に知ってはいけないほどの。

「神官やギリシア傭兵の中にもペルシアに通じる奴らがいたのか」

 ムクターは絶望的になってきた。

「しかもその神官はバステト神殿にいるの」

 レイラの答えはムクターやマブルーカに追い打ちをかけるようなものだった。

「何だって!」

 ムクターはレイラとネジムをマジマジと見た。

「恐ろしいわ」

 マブルーカが身震いした。

「とにかくこの事は黙っていよう。危険すぎる」

 ムクターは家族を両腕で強く抱きしめた。

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