第23話

 幸子が目を覚ますと、そこは蒸気飛行船の上だった。

 分厚い灰色の雲が間近を漂い、蒸気飛行船から吐き出される煤と排煙が鼻孔を刺激する。甲板の冷たさと吹き荒ぶ風が身体を震わせた。


(ここは、どこ? 私、いったいどうして……)


 頭が重い、思考が鈍って回らない。視界が澱んで、耳鳴りがする。なんとか身体を捩って動かすと、後手に縛られているのがわかった。


(また、誘拐されたのね……でも私、どこで……)


 軽く頭を振って、深呼吸をする。腐臭が鼻に染みたが、耐えられないほどではない。

 脳に酸素が回って、徐々に意識がはっきりとしてくる。ぼんやりとしていた視界が定まってきて、聴覚が鋭敏に周囲の音を拾い始める。手を動かすと鎖と南京錠がぶつかる音がした。脚にも鎖が巻かれていて動かせそうにない。


(なに、この人たち……)


 なんとか頭を動かして辺りを見回すと、微動だにせずこちらを見つめる黒い仮面の者たちがいた。


「ご機嫌いかがかですかな?」


 男の声が響いた。視線を向けると、黒い仮面の集団の列が割れて、男がひとり、わざとらしく革靴の底を鳴らして近付いてくるのが見えた。

 そして、その男とは。


「そんな、どうして……」


「どうも、幸子お嬢様」


 付き人である狩ヶ瀬であった。


「なんで……貴方が……」


 幼い頃からずっと隣にいたこの男が、どうして自分を攫ったのか。しかも口振りからして、前回の誘拐にも関わっていた様子である。信じられない状況に、幸子は頭が真っ白になっていくのを自覚した。


「どうして、こんなことを……いったいなんのために……?」


「ふむ。どうして、ですか」


 惑乱に息を荒くしながらも問いかけると、狩ヶ瀬は気取った仕草で顎に手を当てた。付き人の頃とは違う、明らかに幸子を見下して小馬鹿にした態度だ。


「答えてあげましょう。新しい世界を、創造するためです」


「……何を、何を云っているの……貴方は……」


 意味がわからなかった。新しい世界を創造する? あまりに馬鹿々々しい。こんな頭の悪い理由で誘拐されるなんて、冗談を云っているのだろうかとさえ思った。だが、狩ヶ瀬は至って真剣だった。


「この世界は誤った歴史を歩んできた。蒸気機関という文明の利器によって空は雲り、川は濁り、海は汚濁に塗れ、自然は破壊された……人の欲望は際限がない。人間とは放っておけば地球を滅ぼす悪であり、寄生虫なのです。誰かが管理しなければならない。ゆえにマガツノマロカレを召喚、し、この世界を正しき姿に戻すのですよ。我々の手で」


「マガツノ、マロカレ?」


「これから死ぬ貴女にはこれ以上……いえ、冥途の土産に種明かしをしましょう」


 彼はそう云って幸子の前にしゃがみこむと、まるで犯人が自身の犯行を探偵に自慢するみたいな口調で、上機嫌に話し始めた。


「まず、最初に貴女を攫った理由ですが。貴女の身体にアーティファクトを埋め込んで計画に利用するため。そしてその次に、言葉家を強請って当面の活動資金を得ることです」


「アーティファクト……」


「ええ、銀の鍵と呼ばれる代物です。今現在、貴女の心臓に埋め込まれているそれは、貴女の中に眠る霊力を吸い取り、窮極の門を開くための力を蓄えているのですよ。つい先日に十分な量を蓄え、星辰が揃う日が近づいたことで安定状態になったから、我々がこうして行動を起こしたと、そういうわけです」


(何よ、それ……わ、私の身体に、勝手になにをして……)


 思わず幸子が自身の胸を見下ろす。どくどくと早鐘を打つこの心臓にそんな得体のしれないものが埋め込まれているのだと思うと、自分の身体が急に自分のものではない感覚に襲われて急に気分が悪くなってきた。


「貴女の身体は、特別性でしてね」


 狩ヶ瀬はさも嬉しそうに云うと、幸子の髪を撫でながら話を始めた。


「貴女の母方のご先祖様は、安倍晴明の一族に連なる者でして。潜在的に膨大な霊力を秘めていたのです。我々はそこへ眼を付けました。母親のほうは生贄には年齢を重ねすぎていて不向き、ならば星辰が揃うまでに新たに生贄を”作ってもらえば良い”と」


「何を、勝手に……」


「ずっと前から、貴女の一族に目をつけていました。是非とも利用しようと思っていたわけなんですが……いやはや、存外苦労もなくすんなりことが運んで大助かりしたよ」 


 楽しそうに笑って、狩ヶ瀬は右手の指を順々に折り畳んで数えていく。


「貴方の父と母を引き合わせ、言葉家に執事として侵入して、貴女が産まれれば用済みになったあの女を呪殺し、残った貴女を誘拐しやすいようにそれとなく不仲になるよう誘導して、家出した時には我々の隠れ家にて銀の鍵を埋め込み、ついでに大金をせしめる。当時はうまくいきすぎて怖いくらいでした。ただ……」


 不意に言葉を切って顔を影らせると狩々瀬はひぞく残念そうに呟いた。


「肺病に倒れた我が父を助けられなかったのは、少し心残りですね」


「馬鹿なことを……そんな大それたことが、貴方にできますか!?」


「できますとも。考えてみてください。どうして最近になって急に我々の式神が認識できるようになったのか。どうして知識がないにもかかわらず、初見で帝都守護任の式神を犬神と即座に断定できたのか。そもそも何故、膨大な霊力を有しながら今の今まで誰にも認知されなかったのか!」


 狩ヶ瀬が含み笑いをしながら云う。

 すべては仕組まれた事件だった。窮極の門たるヨグ=ソトホート降臨のため、ひいてはマガツノマロカレ降臨のためだったと、証拠は最初から示されていたのだ。幸子は自分がこんな悪漢に人生を操られていた事実に身震いし、同時に腹の奥底から悲しみと怒りが湧き上がって来た。


「星辰が近付き、銀の鍵は十分に力を蓄えた……頃合いだったのですよ、さながら収穫時期の果実のように、貴女が生贄として十分に熟したから、起こったのです」


「貴方、私を何だと思って!」


「生贄以外の何と思う?」


 食ってかかるが、手足を縛られていては何もできない。狩ヶ瀬が無造作に幸子の髪を掴み上げて、仰向けに転がすと天を仰がせる。慣れない痛みと悔しさに幸子の顔が歪んだ。


「フフフ、ついにこの時が来た」


 晴れることのない暗雲に覆われた空を見上げて、狩ヶ瀬は恍惚と呟く。わざわざ膨大な霊力を持つ一族を探し出し、やりたくもない子供の世話をして、帝都守護任の介入で少し危ないところもあったが、無事にここまで辿り着いた。もう邪魔するものは何もない、あとはそう、銀の鍵を使って窮極の門を開き、マガツノマロカレを召喚するのみである。


「同士諸君、時は満ちた! この暗闇の世界にて響めく諸君らの嘆きは、文明が誇る鋼鉄の軋みよって掻き消された。だが今ここに、欺瞞、虚栄、頽廃に彩られた世界は、ついに終わりを告げるだろう。さあ謳え、我らの主の名を! さあ謳え、我らが王の名を! 神秘力を忘れた偽りの宇宙を、諸君らの怒りの火によって焼き尽くすのだ!」


 大号令が空を満たす。空を貫けと天を高く打ち上げられた神秘力を信ずる者たちの声は、やがてひとつの呪文となって帝都を駆け抜けた。

 いあ! いあ! いぐああ いいがい がい! んがい ん・やあ しょごぐ ふたぐん!いあ いあ い・はあ! い・にやあ いい・にやあ んがあ! んんがい わふるう ふたぐん!よぐ・そとほおす! よぐ・そとほおす! いあ!  いあ! よぐ・そとほおす!

 大地が揺れる。暗雲が蠢く。霧が不浄を齎す。風が死臭を孕んで吹く。稲妻が悪徳を解き放つ。魔法陣が邪に満ちて輝き、ビルヂング全体を大きく揺らす。


(身体が、熱い……胸が苦しい……!)


 背筋を怖気が駆け上がり、全身が痛みに包まれる。眼の奥が熱くなって、胸が苦しくなって息ができない。手足の末端がチリチリと痺れて、口の中が乾いていく。視界が明滅して、思考が混濁して、平衡が失われて、世界が真っ黒く染まる。メリメリと胸が裂けて何かが飛び出そうとしている感覚が、幸子の痛覚を揺さ振る。体内をぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような痛みが全身を苛み、耐えきれずに胃液を吐瀉してしまう。


「さあ、現れよ! 窮極の門よ!」


 狩ヶ瀬の呼び声に応じて天井が禍々しく雲が裂ける。十種の色を同じ桶の中で混ぜたような、形容しがたい悍ましい光芒が天に満ちる。

 窮極の門の扉が、最後の扉が開かれる。マガツノマロカレが、降臨する。


「主は来ませり! 主は来ませり! 終わりが始まるぞ!」


 宇宙神秘教の教徒たちが鬨を上げた。狩ヶ瀬が幸子の心臓を贄とするため、刃を突き立てんと腕を振り上げた。

 異様な雰囲気に幸子がやおらと目覚め、鈍色の輝きが瞳を貫く。


「たす、け……」


 彼女の唇が小さく動いた。

 だがもう遅い。その切っ先は、すでに狙いを定めている。

 そして、短剣が振り下ろされる直前。

 突如として真っ赤な蒸気飛行機が現れ、ひとつの影が飛行船の甲板に飛び降りた。


「そこまでだ」


「おや……」


 凛然と佇むは、傷だらけの少年。瑠璃色に輝く双眸と、靡く黒い外套を纏ったその姿はまさしく。


「りん、のすけ……さん……?」


 帝都守護任陰陽師、赤城凛乃助と式神の戌子であった。

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