第24話

 時は、少しだけ遡る。


『凛之助の臭いはこの先じゃ! 急ぐのじゃ!』


「ちぃ! 鍵がかかってやがる!」


「All right! 任せときなさい!」


 ビルヂングに突入した三人は、押し寄せてくる怪異たちを相手に大立ち回りを繰り広げていた。

 幸い通路が狭いため大型の怪異は出てこないが、中型から小型の怪異が大量に配置されていて進むのには苦労する。それでも並みいる怪異を撃ち倒し、撲り飛ばし、凛之助の臭いを辿って地下室の入り口まで進んできていた。


「おい、行くぞ!」


「Present for you!」


 アルが手榴弾を投げたのを皮切りに、古い木製の扉を蹴破って機関式ペンライトだけが頼りの螺旋階段を下る。

 爆発で地下室の入口が崩落するのを聞きながら駆け下りた先、最下層の古い石造りの地下牢には、剥き出しのパイプから噴き出す蒸気の音と腥い血の臭いが充満していた。


『凛之助! りんのす……っ!?』


「助けに来たぞ……?!」


「……feeling sick」


 鉄格子の向こう側に光を当てた時、凛之助の変わり果てた姿に三人は絶句した。

 奇麗だった瞳は抉り出されて黒い空洞だけを湛えており、両手に短剣を突き刺されて壁に拘束されている。何も握れぬように爪は剥がされ、足は歩けぬように腱を切られている。ほとんど死んでいるとしか思えない姿だった。


『凛之助、凛之助ぇ! ああ……なんと、なんと……うぅああああああッ!』


 真っ先に戌子が飛び出して、凛之助に抱き着いた。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして、血塗れの頭を震える手で撫で梳かす。いつも彼がしてくれたのと同じ、優しく、慈しみに満ちた手つきで。


「おい、おい! 生きてるか!? まだ死んでねえよな!」


「これでまだ、死んでないのね……」


 鉄格子の扉を八つ当たりめいて蹴り壊して、坂口が凛之助に駆け寄り心拍を確かめる。ほんの微かに息があった。しかし風前の灯火である、早く手当てをしなければ間を置かずに死んでしまうだろう。


「すみ、ま……せ……みな、を……まもれ、な……」


「喋るな! おいアル、手伝え! 早く!」


「この紙を使えばいいのね?」


「そうだ、それを傷口に当てて霊力を流せばいい!」


 両手に突き刺さった短剣を抜き取って慎重に身体を床へ寝かせると、事務所から持ってきた呪符を使い坂口とアルで傷口を塞いでいく。

 思っていた以上に出血が多い。このままでは傷を塞いでも助からないかもしれない。


『大丈夫じゃ……もう大丈夫じゃからな凛之助……わしがいっしょにいるのじゃ……』


「Not yet……Not yet……」


「おい、聞こえてるか!? 死ぬんじゃねえぞ、オイ!」


「Fuckin’ sick! ちょっと! これじゃあ治し切れないわよ!?」


「くっ……ええい、ままよ!」


 意識がないのか返事もない。このままでは埒が明かない、凛之助が死んでしまう。坂口は最後の手段に出た。


「What the hell are you going do?」


「最終手段だ。使いたくなかったんだがな……」


 胸ポケットから一枚の呪符を取り出して、凛乃助の胸に貼り付ける。複雑な紋様が施されたこの呪符は坂口が凛乃助のお目付役になった際、陰陽頭から渡された特別な呪符……凛乃助の封印を解くための呪符であった。


「封印を解放して、傷と霊力を無理やり回復させる。こいつの中に眠っている怨念を食わせるのさ」


「どういうことよ」


「……こいつはな、”人間から怪異になった”唯一の存在なんだよ」


 突然のことにアルが睨むと、坂口は赤城凛之助という少年に隠された秘密を、静かに話し始めた。



 おおよそ十年前のことだ。

 とある山奥にある因習めいた寒村で生まれた少年は、浄眼を理由に迫害され、口減らしのために村を追われ、戌子と名付けた雌の子犬と共に彼はたったひとりで深い森の中を彷徨うことになった。


「おなか、すいたね」


 くぅ、と情けない声を上げた腹を抑えて少年が戌子に話しかける。毛皮の上からでもわかるほど肋の浮き出た胸が、小さく上下した。

 ふたりと一匹。共に子供の身体ではろくに狩りもできず、冬のため食べられる木の実もなっていない。唯一食糧と呼べるのは泥で濁った冷たい川の水と、細々と生きている蟲たちだけ。そんな生活を続けて、すでにひと月近くも経過している。極限の飢餓状態を凌ぐために無自覚に使っていた霊力もすっかり枯渇して、幽霊との会話もできない。ひとりと一匹は、孤独と餓えという死神に殺されそうになっていた。


「このまま、しんじゃうのかな」


 枯れ枝の隙間から覗く灰色の空を見上げる。産まれた時からずっと淀んだ雲の群れで覆われた天蓋が無機質に蠢き流れて、彼の孤独と不安をむやみに煽った。死神の足音が、すぐ真後ろに迫っているのを幼心に自覚させた。

 これが死ぬということなのだろうか。怖い。死にたくない。怖い。おなかがすいた。怖い。死にたくない。おなかがすいた。おなかがすいた。おなかがすいた……。


「……あれ、戌子?」


 そんなことを考えていたら、ふと戌子の様子がおかしいことに気が付いた。

 手足がビクビクと痙攣している。呼吸が浅くなって、眼が虚ろになっている。

 死ぬのだなと直感した。唯一の友がもう長くないことを自覚した。


「戌子……」


 極端に痩せ細った身体を撫でる。

 ほんの一瞬だけ戌子の視線に、優しさと悲しさが、母親が子供に向けるような赦しと愛憐が宿った。


「ごめん……ごめんね……戌子……ごめんね……っ!」


 泣き叫びながら、戌子の細い首に手を掛けた。

 力を籠めると、ぱきり、と骨の折れる感触が腕に伝わった。ひとつの命が終わる音がした。それが彼の中にあった、決定的な何かを崩壊させた。

 誰もいない。愛してくれるものも、優しさをくれるものも、暖かさをくれるものも、もういない。


「でも、でも、ひとりにしないから……ずっと、いっしょだから……!」


 震える腕で、温かさが急速に失われつつあるほとんど骨と皮だけになった泥だらけの身体を抱き上げる。

 ああ、なんて。なんて。

 オイシソウナンダロウ。

 数刻後、少年の生まれ育った村は悲鳴と炎に包まれた地獄と化した。

 家屋の多くが酷く破壊されて潰されている。竈の火が移ったことにより森は火に包まれている。畑には抵抗を試みた村人たちの無残な死体が転がっている。逃げ惑う女子供は徐々にその数を減らし、鍬や鎌を手に抵抗する男たちもひとり、またひとりと死んでいく。

 極限の餓えと、眼の前に置かれた餌、そして首を折られて断たれる。

 意図せずに犬神と化す条件が揃い、犬神となってしまった戌子。彼女の死体を食べた少年は、犬神と同化して”人でありながら怪異になってしまった”特異な存在になった。

 そして、決して満たされぬ餓えと、自身の中に眠っていた底知れぬ怨嗟に身を堕とした彼は、もっとも近くにあった餌場……自身がかつて過ごしてた村を、欲望のままに喰らい尽くした。


「た、たすけてくれ! 悪かった、謝るから、どうかたすけ」


「お、お願い! おなかは、おなかだけはやぶらな」


 激しい物音と絶叫がこだまする。肉や骨を砕き咀嚼する音が無気味に響く。

 誰であろうと、何で在ろうと関係ない。老若男女問わず、一片の慈悲もなく、殺された。

 全身が黒く染まった、かつて少年だった何かに、跡形もなく食い殺された。


「殺せばよかった! 殺せば、産んだ時に殺しておけば!」


 最後に生き残った女が叫んだ。この惨状を引き起こした化け物に、怨嗟の籠った瞳を向けて。けれども、琥珀色の瞳は意に返すことなく。


「アア、オイシ、ソウ」


 少年はただそう云って、かつて母親だった誰かの首筋に鋭牙を突き立てると、血肉と共に身を焦がすほどの怨嗟を喰らった。

 村には草木の一本も残らなかった。怨恨も、怨嗟も、すべて喰らい尽くされた。村人、家畜、食糧のすべてを喰らい尽くされた村は、ここに滅びを迎えた。

 それからしばらく経って、雨が降り始めた頃。

 少年のもとにひとりの老いた陰陽師が訪れる。彼を拾った男は赤城と云った。陰陽五行の術を得意とする陰陽師で、特に封印術と結界術に長けた陰陽師であった。

 村ひとつを滅ぼした凛之助の身には、恐ろしいほどの怨嗟をその内に溜め込んでいた。彼自身と、喰らった村人の怨嗟である。これには村ひとつと云わず、小國ひとつを滅ぼせるだけの量と質があった。

 幼い身体に大きすぎる力を宿す少年を、赤城は恐れると同時に哀れに思った。ゆえに彼はその術を使って凛乃助の魂を、人の魂と、犬神の魂とのふたつに分割して管理できるようにした。そして陰陽師と式神という関係に落とし込み、犬神の力を安易に解放できぬように封じたのである。


「Fuckin’seriously?」


 信じられないと天井を仰いだアルに、さっきよりもいくらか顔色が良くなった凛之助を見ながら、坂口は吐き気を堪えて頷く。


「Oh……それ以降は、どうなったの」


「こっからが重要な話だ。凛乃助のお師匠様はこいつの人の部分と犬神の部分を分けて、外からでもある程度制御できるようにしたんだが、ちょっと無理があったらしくてな」


 術によって人間の魂と犬神の魂は分けられた。だがやはり一度同化してしまった魂は完全に分つこと叶わなず、凛乃助の中には多くの怨嗟が残ってしまった。師たる赤城はこれを封印するために、彼の身体の奥底に結界を作り邪悪なる怨嗟の力を封印した。その代償が彼の無限に近い食欲であり、封印し切れず残った力の一部がこの食事による回復能力だ。


「つまりだ。こいつの封印を解いちまえば、こいつはまた怪異になる。いや、戻っちまうって云うほうが正解か。そうなりゃあ霊力で無理矢理回復できるって寸法よ」


「Worst feeling ever……」


『凛之助!?』


 話してるうちに、凛之助の身体がピクリと跳ねた。坂口とアルの血を飲んだことで回復して、意識が戻ったようだった。


『凛之助! 凛之助ぇ! よかったのじゃ、よかったのじゃあ……!』


「いぬこ……こ、こは……」


「気が付いたか、凛之助」


「さか……ぐち、しょちょう……? まっくら、で……なにも……」


「説明してる暇はねえ。今からお前の中に戌子を戻す。言葉幸子を助けるためにな」


「ゆきこ、さんを」


「そうだ。辛いだろうが我慢して耐えろ。自分をしっかり持って、力に飲まれるなよ。……戌子、頼むぞ」


『わかっておる。もう安心するのじゃぞ凛之助、わしが一緒じゃからな……』


「成功の確率は?」


「こいつ次第だが、五分五分だろうな。犬神の力……飢餓と怨嗟に負ければ、俺たちが食われて死ぬ」


「分の悪い賭けってワケね。いいわ、いざとなったら貴方だけでも逃がしてあげる」


「馬鹿云え」


 強気に笑ったアルに、坂口はまた毒気を抜かれた。女傑ってのはきっとこういう女を指して云うんだろうなと思って、こっちまで安心してしまった。彼女の内心がどうであれ、どんな逆境でも変わらずに堂々としてくれているのはありがたかった。


「封印を解くぞ」


 ごくりと唾を飲み込んで、呪符に手を当てる。必要なのは霊力ではなく覚悟、凛之助の精神力を信じる勇気だ。


「九千九星八門八神封縛召──解転(かいてん)」


 祝詞が紡がれる。戌子が凛之助の中に溶け込んでいく。

 赤黒い霊力の奔流が地下牢に吹き荒れた。

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