第五十六話
曇天が空を覆い、闇を消していった空の下で、ツユは薄明かりに照らし出された兄の儚げな表情を見上げていた。
――一つの体に二つの魂を携えた二人は、誰よりも近くに居たのに、決して混じり合う事が出来なかった。互いの背に触れ合う事さえ、互いに声を交わせる事も出来はしない。出来る事と言えば、残された痕跡に相手の面影を思う事のみ。決して正面より互いが向き合える事は無いんだ。
だからこんなに近くに居るのに、二人はすれ違う。決して混じり合う事の無い太極図の様な表裏の関係。決して一つになれない、そんな宿命。
――なんて切ないのだろう、とツユは思った。
「愛とは無償のものである。それが、お前の不可解な言動を解釈させる唯一の結論であった」
鈍い灯りに照らされたメザメの切れ長の瞳は僅かにも綻ぶ事無く、冷ややかに魃の脳天へと差し向いていった。
「愛……?」
俯いたまま紡がれたその声は、女神としての魃のものに他ならなかった。
「未だ解せぬか。生殖の必要の無い神にとって、恋の成就は一つになる事に他ならない」
「一つに。それで私は……滑稽なものだ。あれ程憎んだ人間に、私は……」
上げられた栗彦の相貌に重なって浮かんでいたのは、大きな瞳に涙を湛えた女神の姿であった。
「そうだ。これは神と人との恋愛譚に他ならぬのだ」
そうメザメは言った。
最後に――決して結ばれ得ぬ悲哀の物語だがな、と付け加えて。
意を決した面差しの魃は顔を上げた次の瞬間に、空にぽっかりと空いた雲の切れ間より陽光を浴びた。
周囲の空は低く垂れ込めた雲に覆われているというのに……まさに日照りの神――魃の最期に相応しい幕切れである。
空から注ぐ光の柱に照らされた魃。
皮肉っぽい表情でその空を見上げる。
すると……どうだ。
――――
――雨粒が蒼穹より注いで、天へと向いた魃の顔を濡らすのである。
「栗彦……?」
そう魃は囁く。
奇跡はもう一つ叶えられた。
晴天の空に、冷たい雨が降り注ぐ。
それは
決して混じり合わぬ筈の二人が巡り会う。
そんな怪奇を空に映し出しているかの様だ。
「メザメさん、これって」
「ああ、これは――
魃は嬉しそうに天上を見上げて、最後には可愛らしげに微笑んでいた。
いま胸の内の栗彦は何を思っているのだろう。
魃を恨んでいるだろうか、恐れているだろうか、それはわからないけれど。
――魃と栗彦は、奇妙な因果で巡り合わせた。
栗彦に出会わなければ、魃はこれ程までに胸を苦しくする必要など無かった。栗彦という人間を知る事さえなければ、魃は今生に、これだけの未練を残して逝く事も無かった。
されど魃は言った――。
「キミに逢えて良かった」
天を見上げ、その身より最後の光芒を発散する魃に、メザメは一歩踏み出して言った。
「“狐の嫁入り”。混じり合うはずの無いものが同居した怪奇の空……しかしお前は神であり、鬼であり、魃である。人とは決して相容れぬ存在。だからもう、その身を主に返して天へと昇れ、魃よ」
懐より取り出した白き呪符を一枚、メザメはその胸に構えて見据える。
「還れぬのなら送ってやる」
――魃はメザメに向かって頷いた。
呪符を挟んだその指で、四縦五横の
「栗彦が言っている。
メザメの瞳に汲み上げられた栗彦からの声を受けて、魃は見た――。
いま
「……キミなのか」
初めてこうして向かい合い、思いを伝え合えた気がした。
「
そして陰陽師により九字は切られる――。
彼女はその身を光の粒子へと変じていきながら、儚げにした瞳を深く瞬き。
「さようなら栗彦」
――そこに大粒の雨を降らせた。
「愛していた」
満天に注いだ太陽と雨。
満面の笑みと涙を残して――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます