第9話

(あ……)


ジーナが気づいたと同時にバケツの中身がぶちまけられる。

濁った色の液体は嫌な臭いがするものの、濡れた素肌に異常はなくただの汚水のようだ。流石に怪我などさせられようものなら、両親に心配を掛けてしまう。


内心胸を撫で下ろしたジーナにくすくすと悪意に満ちた笑いと、わざとらしい謝罪の言葉が掛けられる。


「まあ、気づかなくてごめんなさいね。お花の水やりをしていただけなのよ」

「貴族のご令嬢の水やりは随分と豪快なのですね」


無視すれば無礼だと難癖を付けられるとはいえ、許容するつもりもないので嫌味で返す。


「っ、平民のくせに生意気ね!片付けておきなさい!」


空になったバケツを投げつけて、令嬢たちは甲高い声で囀りながら去っていく。


制服の替えなどないため、保健室でタオルを借りる。保険教諭は同情の色を浮かべながらも何も言わないし、ジーナも話すつもりはない。


もうじき夏なので風邪をひく心配はなかったが、同級生からは臭いと文句を付けられた。授業を休むつもりもなかったし、ジーナのせいでもないので当然無視したが。


授業が終わり、さっさと帰り支度を済ませたジーナは背後から背中を押されて地面に倒れ込む。咄嗟のことで踏みとどまることが出来ず、受け身を取るのが精一杯だったのだ。

苛立たし気な舌打ちが頭上から聞こえ、ジーナはうんざりしながらも溜息を押し殺して振りむいた。


「何だ、その目つきは。勝手に転んだくせに被害者ぶるな。大体そんな汚い恰好で学園にくるなど我が家に恥をかかせるつもりか」


汚れていた制服がますます汚れたのはガウディに押されたせいだったが、ジーナは無言で砂を払い立ち上がる。

ガウディの言葉を聞き流しつつ、周囲を窺えば少し離れた場所にブリュンヒルトやクラウディアの姿があった。

さらに視線を上に向ければ、窓の側にいた人影はすぐに見えなくなったが相手が誰か認識するには十分だった。


「おい、聞いているのか!」

「……聞こえております。以前勝手に話しかけるなと言われたので黙っていただけですわ。失礼いたします」


ずきりと膝のあたりが痛んだが、これ以上この場に留まっても良いことなど一つもない。背後から悪態を吐く声が聞こえたものの、追いかけて来る気配はなくジーナは足早にその場を立ち去った。



スカルバ男爵邸に立ち寄って予備の制服に着替えたジーナは、帰宅するなり部屋へと籠った。汚れた制服は洗ってもらえることになったし、擦りむいた膝も手当てをしてもらったので、両親にバレる心配はない。


(マーサ・ブリート子爵令嬢、一緒にいたのはリリー・モーガン男爵令嬢、セイラ・ゴドラム子爵令嬢……)


本日の出来事を詳細に書き連ねていく。報復のための手段で最適だと思われる方法は、まだ時間が掛かることが予想されるため、日々の記録を欠かさずに残すようにしている。

最大の目的は本を読めるようになることだが、やられた分はしっかりやり返さなければ同じことが繰り返される可能性があるのだ。


最初は遠巻きに見ていた生徒たちも、お咎めがないと分かると面白半分でジーナに嫌がらせをするようになった。高位貴族へ阿る意味もあるのだろうが、被害者であるジーナからすれば堪ったものではない。


(直接的な加害者だけじゃない。高みの見物をしている人たちのほうがより質が悪いし卑怯だわ)


ブリュンヒルトやクラウディアのように優越感に満ちた表情で見物している令嬢たちもそうだが、ヴィルヘルムやシストもまた感情が見えない表情でジーナを観察している。彼らに関してはジーナがどういう行動を取るかということに関心を持っているような気がして、ジーナは不快感を募らせていた。


「ああいう奴らが一番嫌いだわ……」


勝手に関わってきて、勝手に失望するだけならまだいい。だが絡まれる理由の発端は彼らであるにも関わらずそんな態度はいかがなものかと思うのだ。


特にヴィルヘルムに関しては、周囲をそれとなく誘導しているような節がある。絡んでくる令嬢令息たちの言動を振り返りながら、ジーナはそんな風に思うようになった。

それを裏付けるように嫌がらせの場にはヴィルヘルムの従者であるエリゼオをよく目にしていたし、ガウディに突き飛ばされた時に、生徒会の窓からこちらを窺っていたのはヴィルヘルム本人だ。


最初の頃に平等を口にしていたものの、いじめを放置するのはジーナが平民だからなのか。


(提案を断ったから不興を買ったというのが一番妥当なんだろうけど、やり方が陰険だし器が小さいんじゃないかしら)


心の中で文句を言いながら、計画の素案に再び目を通していく。来月から始まる夏季休暇が勝負の鍵になる。もしそれが上手くいかなければ別の手段を取らなければならないだろう。

来たるべき日に備えて、ジーナはもう一冊のノートを手に取ると、前世の記憶を辿りながらページを埋めていくのだった。

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