第8話
その日声を掛けたのは、ほんの気まぐれのようなものだった。
正義感に駆られたわけでもなく、ただ勝ち誇ったようにくだらない言いがかりをつける女達への不快さが上回っただけのこと。
恥ずべき行為だという自覚だけはあったらしく、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。残った女の顔に見覚えはなかったが、漏れ聞こえた言葉から判断すれば、今年入学してきた平民の特待生のようだ。
形ばかりに頭を下げ立ち去ろうとした彼女に不満を告げたのは、優秀であっても所詮女かと失望めいた気持ちが僅かにあったからだろう。
だが、帰ってきた言葉は予想外のもので、自分の行為が周囲にどう受け取られるかまで考えていなかったことに気づかされた。淡々とした口調は媚びることもなく、ただ事実だけを口にしており、そんな態度が不快ではない。
「他の女たちから何か言われたら俺に言え」
らしくもない言葉を告げながら、恐らく彼女は何も言ってこないだろうなと確信していた。
調べ物の一環で図書室を訪れたシストは、そこにジーナがいると気づいても話しかけるつもりはなかった。食い入るように本に没頭する姿は、先日とは別人のようでどんな本を読んでいるのかと思えば、女には難解なはずの経済学の本だったことから、すっかりに気になってしまったのだ。
問いかけてみれば、しっかりとした回答が返ってきただけでなく、自分の考えをすらすらと答える様子に、ジーナが本の内容を理解しているのだと分かった。
思わず自分の意見を告げれば、ジーナも別の視点から意見を出してきて、気づけば議論を交わしていた。同年代でこのような会話をする機会がほとんどなかったシストは、ジーナとの会話に惹きつけられていく。
振り返ってみればこの時がジーナとの思い出の中で最も楽しく、彩りに満ちていた時間だ。
いつしか王子が加わるようになり、ジーナを独占できないことを少し残念に思ったが、それでも彼女との時間は心躍るものだった。
だがそう思っていたのは自分だけだと他ならぬジーナ自身からの言葉で思い知る羽目になる。
他の女たちからの嫌がらせは、王子の興味を引いたことに端を発していて、自分との関わりにおいては特に問題ないように見えた。
それでもあのように一線を引いたことから、知らないところで嫌がらせを受けていたということなのだろう。
(……どうして言ってくれなかったのだ!)
ジーナを責めたくなる気持ちすら湧いて、何とか出来ないものかと思案してみたものの、結局は身分や立場の違いからどうにもならないことだと自分を慰めることしか出来ない。それでもと望んでしまったことが、あのような行為に結びついてしまったのだ。
重い溜息を吐いている自分に気づいて、ぎくりとする。
(俺は、何をしているのだろう……)
迷惑だと言外に告げられたにもかかわらず、気づけば図書室に足を向けている。免罪符のように以前ジーナが興味を持った本を鞄に入れた状態が、何とも言い訳がましい。
興味のない相手に時間を割かれる煩わしさは身をもって知っていたが、自分はジーナに嫌われたわけではないのだ。
あくまでも女達の的外れな嫉妬を厭って、距離を置かれただけである。
入口の扉が開くたびに、反射的に顔を向けてしまうのだが、今回は当たりを引いた。目が合うとジーナは小さく一礼したが、その後はこちらに顔を向けようとしない。昼休みに図書室を利用する者はほとんどおらず、人目を気にする必要はないはずだ。
椅子とが話しかけようと席を立ったところで、ジーナは素早く本を選び貸出手続きを終えるなりさっさといなくなってしまう。
シストの存在など欠片も気にする気配を見せず立ち去ったジーナに、シストは呆然とし、それから怒りが込み上げてきた。
(あの女、何様のつもりだ!)
こちらが譲歩してやったのに無視するなど、傲慢にも程があるだろう。
思わず手元にある本を払いのければ嫌な音を立てて床に落ちた。ページがぐしゃりと折れ曲がり、書架の角に当たったのか堅表紙の中心辺りは僅かに抉れている。それはシストの苛立ちに拍車を掛けたが、落ちつかなければと考える余裕はまだ残っていたのだ。
だが頭を冷やして図書室に戻ってきたシストは予想外の光景に目を瞠った。
「……何をしている」
一人の男子生徒が手にしているシストの本は、先程よりも酷い状態で誰かが故意に破損させたのは明らかだ。
「あの平民の仕業ですわ。学園の財産である書物をこのように乱暴に扱うなんて、本当に野蛮ですこと。この件は学園長にも報告いたしますわ」
高らかと宣言するブリュンヒルトだが、ジーナが本を傷付けることなどあり得ない。彼女が本を扱う手つきはいつも丁寧で、著者に敬意を払っているからこそ大切にしなければ失礼に当たると聞いたことがある。
そもそもそれはシストの本であり、図書室の蔵書と思い込んでいるのは何故なのか。
だからシストはブリュンヒルトの間違いを正すべく声を上げるべきだった。何より最初に本を乱雑に扱ったのはシスト自身なのだから。
(だが、もしも彼女が厄介な状況に陥ったのなら……)
自分ではどうしようもないほどの窮地に立たされたのなら、彼女は自分を頼ってくるのではないか。
そんな考えが浮かび躊躇っているうちに、ブリュンヒルトは図書室を後にしてしまい――シストは沈黙することを選んだ。
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