妻が亡くなって十年が経った。


 もう私も若くはない。たまたま受けた検診で病気が見つかった。免疫系の疾患で、回復の見込みはないと告知された。


 妻の身体が病魔にむしばまれていたことが、悔しく悲しかった。もちろん、自分事として、死は純粋に恐ろしかった。死ぬ瞬間のことや、そのあとのことがやはり気になる。眠れない日が続き、薬をつかって何とか落ち着かせた。


 死を悟ったからだろうか、あれこれと考えるようになった。


 死因にもよるが、融合した妻夫は死を共有できるケースが多い。死の間際に同時に目覚め、短く語りあったあと、命を閉じる。それは素直に幸せなことだと思う。しかし、私は妻に先立たれ、一人になってしまった。


 死ぬと心は肉体を離れ、旅立つといわれているが、いろんな解釈がある。


 私の死をもって、二人の死が完結するなら、妻の心はどこにも旅立ってはいない気がする。それはまだこの身体のどこかにあって、私のことを待ってくれていると信じたかった。


 そんな根拠のない論理の繰り返しと、肉体の衰弱が、私に最後の夢を見させてくれたようだった。


 その夢は不思議な感覚から始まる……。


 身体の隅々に行き渡っていた意識というか、心そのものが、頭の中心へ集まっていくような感じを受けた。ぎゅっと縮まっていく。それは粒子のように小さくなり、居場所を求めるかのごとく、複雑に絡んだ管の中を流れ始めた。


 もう元には戻れない、不思議な予感があった。


 微細な私の心は自分の領域を外れ、身体の隅々を巡ったあとに、とうとう妻の頭の中へ流れ着いた。妻の匂いが色濃く感じられる。その芳しい匂いに包まれると、私は本来の大きさや形を取り戻していった。それにつれて、周囲の情景が様変わりしていく……。


 顔を上げたその先に、ぼんやりと懐かしい扉が見えてきた。辿り着いたその場所は、かつての妻の部屋だった。


「ずっとそこで、立ってるつもり?」


 扉が薄く開き、若かりし妻が顔を覗かせた。


「入って」


 妻の部屋にはふっくらとしたベッドがあった。妻はその上に座り、膝を抱えた。

 目の前に妻がいる。胸が熱くなり、言葉に詰まる。


「どうしたいの? 言ってみて」


 見透かすような視線に射抜かれる。


「もう離れたくない……」


 敬語も忘れ、私は心のままを訴えた。


 妻は唇を緩め、ゆっくりと両手を広げた。


「おいで」


 夢中でしがみつくと、妻は私の背中にその手足を絡めてきた。


「わたしも、離れたくない」


 妻は私の頬に手を添え、そっとキスをした。


「今までわたしをありがとう……」


 その言葉だけで涙が滲み、心の輪郭がほどけていった。様々な苦痛や不安がことごとく消えていく。どろどろと妻の中へ沈み込みながら、私はほっと息を漏らした。

 それが人生最後の吐息になればいいと、そう願いながら……。


 〈了〉

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その星のいとなみ ピーター・モリソン @peter_morrison

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