𓄲 緑 𓄴


 杉天井へ手を翻せば、翡翠カワセミに成れる。掠めて飛ぶ柏尾川かしおがわは、気高い妊婦の横顔になり、髪筋に溺れる人魚の男になり、醜い木目めだまを剥いた。今昼こんひるも夜着に甘え、鼓動に乗せた金朱の櫛を返せぬまま。口笛でさえずれば、餌付けした白鶺鴒ハクセキレイが飛来する。指を甘噛みされ、衝動に耐えた。


「もうそらへ、誰も逃がしたくない」


「鳥をこいねがうのは、置いて逝かれたからですか」


 障子が怒気に開き、檀弓に夜着を奪われた。白緑の陽光を、翼と袖が舞い透かす。泣き腫らした目尻と肩を露わにされ、割座した私は衿ごと櫛に縋った。


「鳥を教えてくれた源進師匠は、孤児だった私を拾ってくれましたから。紀州藩主から八代将軍に成られた吉宗様のめいで御鷹場へ移るまで、私達は紀伊山地を刺鳥刺として駆けていました」


 檀弓は、白緑を映した瞳を見張る。 


「蒿雀様は、国境付近の『天野山 金剛寺こんごうじ』にも踏み入った事がありますか?」


「ええ。鑑札を手に、餌鳥を殺生に追って寺領にも踏み込める刺鳥刺は良い顔をされませんが、師匠は匿われていた貴人を見たそうで……」


 小首を傾げた時、櫛を攫われてしまう。凍えた鼓動が、切を解いた微笑みで焚かれる。赤銅色の髪筋は、檀弓の染る頬を撫でた。


「蒿雀様は、源進様からの鳥の名しか聞いていないのですね。さぁ、空の鏡台を観て。櫛を使いましょう」


 窓格子を覗けば、碧緑首の真鴨がゆく。山吹茶に和らぐ松並木としろ冠る霊峰に息を吐くと、山葵色の髪を掬われていた。項が、華奢な指の愛撫を畏れる。白鶺鴒の尾が上下し、早鐘を熱く煽った。香が絡む罪悪感に溶けそうだ!

 

「御手と櫛を穢してしまいます! 」


「初心な蒿雀様は清いのです。貴方に好かれても、今は不思議と……心地いい。金朱の色を纏うのは最後だからかな」 


 本当に柔い髪、と結び囁かれたのも幻聴か?


「女々しい蒿雀様にはがいるのですね」


 はて、と見下ろす眼下。窓から飛翔した白鶺鴒を睨むのは、若衆髷の十五の少年。黒漆のような呂色ろいろの横髪は一途に切り揃えられている。


「古巣からの追っ手です! に、逃げなくては! 」


「お前の隠などバレてるぞ、蒿雀! 」


 階段を駆け上り現れた少年は、私を苛烈に睨む。


「どなたです? 蒿雀様」


「師匠の兄……鷹狩りの餌鶴を飼い慣らす網差つなさしである加納かのう甚内じんない殿の息子、晴志郎 せいしろうです」 


「忙殺の秋に西小松川村から探し回ったのに、兄貴分のお前は女と懇ろかよ! 表へ出ろ!」


 刃風に、肌が覚醒する。角帯に潜ませた小型鳥銃剣で弾き返せば、苦無クナイは晴志郎の横髪を掠め柱に突立つ。我に返れば血の気が引きゆく。御鳥見衆は隠密業も兼ねると、背後の檀弓に知られてしまった……。


「網差から刺鳥刺へ転じた師匠と同じく、私は晴志郎とは家督を争いません! 加納家の養子にはならないのだから! 」

 

「果たし合いもせず、千歳緑の餌鳥札とお前を逃せるか! ……というか、例の女じゃないか」


 晴志郎は嗤い、呆然とする檀弓の手を取る。二人の手が重なった刹那、はらわたに焼きごてが焦げ付いた気がした。

 

「蒿雀は執着したのか。代わりに任を果たしてやる! 」


「駄目です、晴志郎! 」

 

「離しなさい、青二才! 」


 吠える嵐は檀弓を攫っていく! 不在の番頭を恨みながら疾走し、黄金のあしが靡く湿地にて睨み合う。根付鉄砲の鋒を、逆手に構える自分が信じられない。檀弓と枯木に手鎖を掛けた、あの骨ばった手を削ぎ落としたいだなんて。無垢な雛鳥のように、私の後を歩いた晴志郎なのに。


「夜道に禍を鳴く【送り雀】の異名が泣くぞ、蒿雀。密猟者の偽刺鳥刺に堕ちれば極門だ」


 鍵を弄ぶ晴志郎は、樹上へ跳躍する!


「それ以上言わないで下さい、はらわたが焼け付いているのです! 」 


  鋒で軌跡を追えば、眼前の霞網を切り裂いていた! ここは鳥の狩猟場か!


「鷹が狩った黒鶴を甚内ちちうえが網で捕らえた褒美として、吉宗様から一族が『加納姓』を授かった二年前の冬。鳥達の静寂に気付いた蒿雀おまえと源進殿が、曲者から吉宗様を御守りし賜った『千歳緑の餌鳥札』を裏切る気か。その許しがあれば、どんな鳥でも殺せるというのに。だろう! 」 

 

 こがらしが解いた赤銅色の髪は、翼のように広がった! 睫毛を伏せた檀弓と、まだ夢を視ていたかった。

 

「餌鳥札を見た時から、勘づいていました。私の最期が、蒿雀様だと」


 網差は餌鶴と信頼を結び、鷹が狩る際に逃亡を遅らせる。裏切る為に壊れる愛情を敷くのだ。照準が揺らぐ私も、檀弓が羽合せてくれるのを待っていたのか?


「師匠が、吉宗様から『千歳緑の餌鳥札』と同時に賜ったのは『高貴なの鳥』を見極める任です。治世へ害成す時は、殺生も厭うなと。遺薫から逃げた私は……見極めるべき貴方の身分すらまだ知りません」


「知らなければ、蒿雀様も私も……囲炉裏を囲めるでしょう。けれど私は、『金朱の鷺』という輪廻を灰にしたい。清い蒿雀様に、私を裁いて欲しいのです」


 飴色の棗眼は、金色こんじきに潤う。溶けるような微笑で救いを乞う檀弓は、まるで据膳。弑逆心に爆ぜる鼓動は、彼女に齎された焔を玩弄がんろうした。

  

「私は清くなんかない。私の心臓と同化した餌鳥あなたを生かす為に逃げるのは、そんなにいけないことですか? 」


 後退した足が動かない。仕掛けられていたのは、水草の縄に塗った鳥黐トリモチの罠か! 口笛で呼べば、あの白鶺鴒が颯爽と飛来する!

 

「惻隠の情も、俺達の礎だ。だがお前は餌鳥あいつごと、俺達を輪がねる生を否定したんだ! 誰かを糧に生きない奴なんて居ないだろ! 」


 飛び降りる晴志郎は、檀弓を刃先で狙う! 餌を撒けば、怯んだ彼を白鶺鴒は撹乱したのに――飛咲花と鉤爪がいだ。私を爛々と睨む野生の鷹が、白鶺鴒を狩ったのだ。畏れと同時に、晴志郎の足元でしなる枝に気づく。


「遺薫は、俺達の魂に溶けるんだ。は、業を背負っているだろう!」

 

 弟分をくびちに掛けるには、私を捕らえる鳥黐を撃ち、銃声で脅かせばいい! 足を横枝に挟まれた晴志郎に駆け、割き布で盲目にする。共倒れ際に羽交い締めにした。頭を羽の下に突っ込まれた鴨の如く飛び立てまい。彼の懐から、手鎖の鍵は手に入れた。

 

「家督は継げずとも、いつか帰ります……晴志郎。生類憐みの世は去ったのだから」


「お前を案じる家族から逃げても、生業からは逃げんな……馬鹿兄貴 」


 解放した晴志郎は、顰め面で涙ぐんでいた。私には刺鳥刺の業が遺されていたのだ。手鎖を解き、玲瓏なる眼閃で檀弓を射抜く。怯えた上目遣いで応える色風に、動悸の甘痛が扇られた。


「弱い私を許して下さい、蒿雀様」


 引き腰は、。確信した私は、赤銅色の髪が広がる檀弓を青苔の地面へ押し倒していた。鳥を殺すのに、刃は要らない。鎖骨の間から指を胸腔内に突き、心臓に繋がる動脈を爪で切ればいい。されど、贄にされたのは私。稀有に玉光る貴方に、扼殺やくさつされる心臓だ。

 

「金朱の鷺を殺す事も逃がす事も、私には出来ません」

 

「若松葉先に、霧雨の涙ですか。情けないんですね」

 

 睫毛が、爪先に掬われる。檀弓は蛾眉を辛く寄せたのに、紅潮する頬を綻ばせた。真白へ滲む、朱色の光芒に溶ける。私は抱き寄せられ、唇に慰められていたから。この世ならざる温柔に、腹底から白焔に慄く! 華奢な身体を抱き締め、早鐘をとうとんだ。気が遠のく痺れには抗えずに、甘露を啄む。何故、色を嫌うはずの彼女が色を齎したのか。確かめなければ夢に酔えるのに、私は甘美な真実が欲しい。

 

「お代が必要な、色なのでしょうか」

 

「馬鹿じゃありません? 蒿雀様が哀れだったから……」


 飴色の瞳が揺らぐ檀弓は、私の早鐘に手を添えた。

 

「木の國を駆け抜けた、貴方に憧れたのよ。匿われていた私を知らなくても、蒿雀様は私と同じ緑を知っているの」 

 

 私はかつて、遠く霞む紺碧の山々を追い続けていた。黒樹は、により黄黒へ揺り動かされ、蒼色と柳緑へ明けゆく。薫風で疾走する私は、常磐緑の濡葉を弾いた。水飛沫は背鰭。龍のように、流るる小川に見惚れる。天鵞絨にした岩苔で滑る反転―――さざめく萌黄を仰げば、師匠は褐色肌が似合う強面で呵う。地の黄唐茶は、黄朽葉をも抜け、へ還るのだ。河原鶸カワラヒワの日廻り模様の翼を追う内にはぐれ、金剛寺で覗いた御翠簾の奥……私は烏合の緑に巡り逢っていた。


 日月四季山水図屏風じつげつしきさんすいずびょうぶを囲う、朱色の御翠簾の窠紋かもん。それは、地上に住む鳥の巣を表す証だと思い出した。

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