第2話 血の雨が降る 1
涙が落ちる。
土砂降りの中、立ち尽くしたその人は涙を流していた。
降っているのは雨ではない。
赤い。
どろどろした粘性の血液だった。
それが、バケツをさかさまにしたかのような猛烈なスコールとなって降っているのだ。
足元には血だまり。
コンクリートの地面は赤い血で着色され、五メートル先は見えない
その人は、両拳を握り締め、スコールの中、俯いてただ泣いていた。
壮年男性だろうか。
背丈は分かるが、スコールがあまりに強すぎるため、ずぶ濡れになったシャツとジーンズしか判別できない。
顔は見えない。
ただ、子供のようにスン、スン、と泣く声が聞こえる。
汀は血の雨の中、体中ずぶ濡れになりながら、その男性の目の前に立っていた。
男性の泣き声以外、スコールがあまりにも強すぎて何も聞こえず、何も見えない。
汀は口を開いて何事かを言おうとした。
しかし、スコールにそれを遮られ、諦めて口をつぐんだ。
少しして彼女は、血まみれになりながらヘッドセットのスイッチを入れた。
そしてかすれた声で呟く。
「ダイブ続行不可能。目をさますよ」
◇
「今日はこれ以上は無理だ。汀ちゃんを家に帰してやれ」
そう言われ、圭介はしばらく考え込んだ後、苛立ったように部屋の中を歩き回り、ぴたりと足を止めた。
「患者の家族は何て言ってる?」
「相変わらず知らず存ぜずだよ」
「そうか……」
圭介の肩を叩いて、彼と同様に白衣を着た男性……大河内が続けた。
「この患者に入れ込むのは分かるが、少しは汀ちゃんのことも考えてやったらどうだ。肩の力を抜け」
「お前に言われなくても、それは分かってるよ」
柔和な顔立ちをした圭介とは違い、大河内は髭をもみ上げからアゴまで生やした、熊のようないでたちをしていた。
そこで、ガラスで覆われた部屋の向こう側……真っ白い壁と床、そして薄暗い蛍光灯の光に照らされた施術室の中で、車椅子の汀が、もぞもぞと動きにくそうに体を揺らすのが見えた。
圭介はため息をついて、彼女の方に足を向けながら呟いた。
「これで六回目のダイブ失敗か」
「元々無茶なダイブなんだ。特A級スイーパーでも難しいことは分かっていた」
大河内がフォローするように言う。
汀の前には、目を閉じて両指を胸の前で組んだ、白髪の壮年男性が眠っていた。
余所行きの服を着ている汀とは違い、こちらは病院服だ。
腕には栄養補給用の点滴がつけられていて、頭にはヘルメット型マスク、そして血圧や脳波を測定する器具が取り付けられている。
汀はそこで、強く咳き込むと、まるで溺れた人のように胸を抑えた。
急いで圭介が、施術室のドアを開けて駆け寄る。
「汀!」
呼ばれて、汀は動く右手でマスクをむしりとり、ゼェゼェと息を切らしながら、真っ青な顔で圭介を見た。
「圭介……吐く……」
「分かった。もう少しだけ我慢しろ」
備え付けられているバケツを大河内から受け取り、圭介は汀の顔の前に持ってきた。
そして背中をさすってやる。
何とも形容しがたい、くぐもった声を上げて、汀が弱弱しく胃の中のものを戻した。
しばらくしてやっと吐瀉感が収まった少女の頭をなで、圭介はその口をタオルで拭いた。
「限界か?」
問いかけられ、汀は落ち窪んだ目で言った。
「もう一回行けるよ。もう少しで見つかりそう」
「なら……」
「いや、今日のダイブはこれでお仕舞いだ」
圭介の声を打ち消すようにして声を上げ、そこで大河内が顔を出した。
彼の顔を見て、真っ青だった汀の顔色が少しだけ上気した。
「大河内せんせ!」
嬉しそうに彼女がそう言う。
大河内は朗らかに笑いながら、汀の小さな体を抱き上げた。
そしてその場をくるくると回ってやる。
「久しぶりだなぁ、汀ちゃん」
「せんせ、いつ頃来たの?」
「二回目のダイブの途中から見ていたよ」
「私が吐くとこも?」
圭介が呆れたように息をつき、水道に汀の吐瀉物を流している。
大河内は肩をすくめて、汀を車椅子に戻した。
「今日は、私も君達の病院に遊びに行こうかな」
「本当?」
汀が目を輝かせて、両手を膝の前で組んだ。
「圭介、大河内せんせが遊びに来てくれるって」
「ああ。で、患者はもういいのか?」
「どうでもいいよこんなの」
汀が端的にそう言って、左手で大河内の手を握る。
「せんせ、圭介がこの前、Wii買ってくれたの。一緒に毛糸のカービィやろ」
「うん、うんいいだろう。元気そうでとても安心したよ」
「汀、はしゃぐのはいいが、薬もまだ飲んでいないしダイブ直後だ。大河内も少しは考えてくれ」
「あ……ああ、すまない」
圭介は、はしゃいでいる汀とは対照的に、苦そうな顔をして彼女の車椅子の取っ手を持った。
「高畑、それじゃ今日は……」
「お前が顔を出しちまったから、汀の集中力が激減したよ。これ以上のダイブは無理だな」
「せんせ、手つなご」
汀がゆらゆらと細い、骨ばかりの右腕を伸ばす。
大河内は微笑むと、汀の手を掴んだ。
「私が下まで送っていこう。高畑は看護士を呼んで、患者の移動をさせてくれ」
圭介は一つため息をついて、ベッドに横になっている白髪の壮年男性を、横目で見た。
「分かった。汀、大河内先生に失礼のないようにな」
圭介から汀の車椅子を受け取り、大河内はゆっくりと動かし始めた。
汀は完全に圭介の事を無視し、大河内に、車椅子から取り出した3DSの画面を見せている。
「見て、せんせ。圭介に手伝ってもらって、今度のポケモンも全部集まったよ」
「おおそうか。早いなぁ。さすがは汀ちゃんだ」
「えへへ」
「お寿司でも頼もうか」
「本当? 私も食べる!」
二人を見送り、圭介は施術室の中の計器の一つを覗き込んだ。
そしてその数値を見て、苛立ったように頭をガシガシと掻く。
いつも柔和な表情は、極めて暗かった。
◇
大河内が頼んだ寿司の出前を前に、汀は、自分の部屋で、彼とゲームに熱中していた。
それを興味がなさそうに見ながら、圭介が寿司を一つつまんで口に入れる。
「汀ちゃんは上手いなぁ」
「ここを、こう飛び越えるんだよ」
「こうか? それっ!」
子供のように騒いでいる大河内を呆れ顔で見て、圭介は手元にあった資料に目を落とした。
先ほどの壮年男性の顔写真と、経歴などが書いてある。
しばらくして、リモコンを振り疲れたのか、汀が息をついて、パラマウントベッドに体を預けた。
大河内もリモコンをテーブルに置き、彼女の汗をタオルで拭う。
「汀、少しはしゃぎすぎだ。休んだ方がいいぞ」
圭介が資料から目を離さずに言う。
汀はむすっとして彼を見た。
「全然疲れてないもん」
「まぁまぁ。歳のせいか、私のほうが先に疲れてしまった。少し休憩といこうか」
大河内がそう言って、寿司を口に入れる。
「汀ちゃんも食べるかい?」
「せんせが食べさせてくれるなら食べる」
「どれがいい?」
「うに」
「やめておけよ」
圭介が資料をめくりながら言う。
「また吐くぞ。クスリ注射したばっかだろ」
「うるさい圭介。さっきからブツブツブツブツ。邪魔しないでよ」
「はいはい」
肩をすくめた圭介の前で、大河内が小さくまとめたシャリとウニを、箸で汀の口に運ぶ。
「おいしい」
やつれた少女は笑った。
しかしその顔が、すぐに青くなり、彼女は口元を手で押さえた。
「ほらな」
慌てて大河内が洗面器を彼女の前に持ってくる。
そこに胃の中のものを全て戻し、汀は苦しそうに息をついた。
その背中をさすって、大河内がおろおろと圭介を見る。
「す……すまない。少しくらいならいいかと思ったんだが……」
「全く……人の話を聞かないから」
呆れた声で圭介は資料を脇に挟み、汀の吐瀉物が入った洗面器を受け取った。
「とりあえず、大河内も少し汀を休ませてやってくれ。俺は診察室にいるから」
バタン、と音を立ててドアが閉まる。
少し沈黙した後、汀はため息をついた。
「……圭介、怒ってる」
そう呟いた彼女に、大河内は口元をタオルで拭いてやりながら首を振った。
「疲れてるのさ。汀ちゃんも、そういう時があるだろう?」
「違うの。私には分かるの」
汀はそう言って、Wiiのリモコンを握り締めた。
「私が、役に立たないから……」
大河内が、発しかけていた言葉を飲み込む。
そこで汀は、突然右手で頭を押さえた。
強烈な耳鳴りとともに、彼女の視界が暗転する。
体を丸めた汀を、慌てて大河内が抱きとめた。
「汀ちゃん!」
汀の視界に、先ほどダイブした男性の、脳内風景が蘇る。
血の雨。
立ち尽くす男。
泣き声。
血だまり。
コンクリートの地面。
先の見えないスコール。
土砂降り。
「あなたは何をなくしたの? 」
汀はそう問いかけた。
答えは返ってこなかった。
何をなくしたのか、汀はそれを知りたかった。
何をなくして、どうして泣いているのか。
しかしスコールは、彼女のことを拒むかのように、
強く、強く降り、身体を粘ついた血液まみれにしていく。
「何をなくしたの!」
汀は叫んだ。
何度も、何度も。
掴みかかって、男を揺さぶる。
そこで汀はハッとした。
聞こえるのは、泣き声。
しかし男の顔は。
ただ、笑っていた。
「…………っ」
頭を振り、汀が声にならない叫び声を上げる。
頭の奥の方に、抉りこむような頭痛が走ったのだ。
「高畑! 高畑、来てくれ!」
大河内が大声を上げる。
そこで、汀の意識はブラックアウトした。
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