第2話 血の雨が降る 1

涙が落ちる。

土砂降りの中、立ち尽くしたその人は涙を流していた。


降っているのは雨ではない。

赤い。

どろどろした粘性の血液だった。


それが、バケツをさかさまにしたかのような猛烈なスコールとなって降っているのだ。

足元には血だまり。

コンクリートの地面は赤い血で着色され、五メートル先は見えない


その人は、両拳を握り締め、スコールの中、俯いてただ泣いていた。

壮年男性だろうか。

背丈は分かるが、スコールがあまりに強すぎるため、ずぶ濡れになったシャツとジーンズしか判別できない。


顔は見えない。

ただ、子供のようにスン、スン、と泣く声が聞こえる。

汀は血の雨の中、体中ずぶ濡れになりながら、その男性の目の前に立っていた。


男性の泣き声以外、スコールがあまりにも強すぎて何も聞こえず、何も見えない。

汀は口を開いて何事かを言おうとした。

しかし、スコールにそれを遮られ、諦めて口をつぐんだ。


少しして彼女は、血まみれになりながらヘッドセットのスイッチを入れた。

そしてかすれた声で呟く。


「ダイブ続行不可能。目をさますよ」



「今日はこれ以上は無理だ。汀ちゃんを家に帰してやれ」


そう言われ、圭介はしばらく考え込んだ後、苛立ったように部屋の中を歩き回り、ぴたりと足を止めた。


「患者の家族は何て言ってる?」

「相変わらず知らず存ぜずだよ」

「そうか……」


圭介の肩を叩いて、彼と同様に白衣を着た男性……大河内が続けた。


「この患者に入れ込むのは分かるが、少しは汀ちゃんのことも考えてやったらどうだ。肩の力を抜け」

「お前に言われなくても、それは分かってるよ」


柔和な顔立ちをした圭介とは違い、大河内は髭をもみ上げからアゴまで生やした、熊のようないでたちをしていた。


そこで、ガラスで覆われた部屋の向こう側……真っ白い壁と床、そして薄暗い蛍光灯の光に照らされた施術室の中で、車椅子の汀が、もぞもぞと動きにくそうに体を揺らすのが見えた。

圭介はため息をついて、彼女の方に足を向けながら呟いた。


「これで六回目のダイブ失敗か」

「元々無茶なダイブなんだ。特A級スイーパーでも難しいことは分かっていた」


大河内がフォローするように言う。

汀の前には、目を閉じて両指を胸の前で組んだ、白髪の壮年男性が眠っていた。

余所行きの服を着ている汀とは違い、こちらは病院服だ。


腕には栄養補給用の点滴がつけられていて、頭にはヘルメット型マスク、そして血圧や脳波を測定する器具が取り付けられている。

汀はそこで、強く咳き込むと、まるで溺れた人のように胸を抑えた。

急いで圭介が、施術室のドアを開けて駆け寄る。


「汀!」


呼ばれて、汀は動く右手でマスクをむしりとり、ゼェゼェと息を切らしながら、真っ青な顔で圭介を見た。


「圭介……吐く……」

「分かった。もう少しだけ我慢しろ」


備え付けられているバケツを大河内から受け取り、圭介は汀の顔の前に持ってきた。

そして背中をさすってやる。


何とも形容しがたい、くぐもった声を上げて、汀が弱弱しく胃の中のものを戻した。

しばらくしてやっと吐瀉感が収まった少女の頭をなで、圭介はその口をタオルで拭いた。


「限界か?」


問いかけられ、汀は落ち窪んだ目で言った。


「もう一回行けるよ。もう少しで見つかりそう」

「なら……」

「いや、今日のダイブはこれでお仕舞いだ」


圭介の声を打ち消すようにして声を上げ、そこで大河内が顔を出した。

彼の顔を見て、真っ青だった汀の顔色が少しだけ上気した。


「大河内せんせ!」


嬉しそうに彼女がそう言う。

大河内は朗らかに笑いながら、汀の小さな体を抱き上げた。

そしてその場をくるくると回ってやる。


「久しぶりだなぁ、汀ちゃん」

「せんせ、いつ頃来たの?」

「二回目のダイブの途中から見ていたよ」

「私が吐くとこも?」


圭介が呆れたように息をつき、水道に汀の吐瀉物を流している。

大河内は肩をすくめて、汀を車椅子に戻した。


「今日は、私も君達の病院に遊びに行こうかな」

「本当?」


汀が目を輝かせて、両手を膝の前で組んだ。


「圭介、大河内せんせが遊びに来てくれるって」

「ああ。で、患者はもういいのか?」

「どうでもいいよこんなの」


汀が端的にそう言って、左手で大河内の手を握る。


「せんせ、圭介がこの前、Wii買ってくれたの。一緒に毛糸のカービィやろ」

「うん、うんいいだろう。元気そうでとても安心したよ」

「汀、はしゃぐのはいいが、薬もまだ飲んでいないしダイブ直後だ。大河内も少しは考えてくれ」

「あ……ああ、すまない」


圭介は、はしゃいでいる汀とは対照的に、苦そうな顔をして彼女の車椅子の取っ手を持った。


「高畑、それじゃ今日は……」

「お前が顔を出しちまったから、汀の集中力が激減したよ。これ以上のダイブは無理だな」

「せんせ、手つなご」


汀がゆらゆらと細い、骨ばかりの右腕を伸ばす。

大河内は微笑むと、汀の手を掴んだ。


「私が下まで送っていこう。高畑は看護士を呼んで、患者の移動をさせてくれ」


圭介は一つため息をついて、ベッドに横になっている白髪の壮年男性を、横目で見た。


「分かった。汀、大河内先生に失礼のないようにな」


圭介から汀の車椅子を受け取り、大河内はゆっくりと動かし始めた。

汀は完全に圭介の事を無視し、大河内に、車椅子から取り出した3DSの画面を見せている。


「見て、せんせ。圭介に手伝ってもらって、今度のポケモンも全部集まったよ」

「おおそうか。早いなぁ。さすがは汀ちゃんだ」

「えへへ」

「お寿司でも頼もうか」

「本当? 私も食べる!」


二人を見送り、圭介は施術室の中の計器の一つを覗き込んだ。

そしてその数値を見て、苛立ったように頭をガシガシと掻く。

いつも柔和な表情は、極めて暗かった。



大河内が頼んだ寿司の出前を前に、汀は、自分の部屋で、彼とゲームに熱中していた。

それを興味がなさそうに見ながら、圭介が寿司を一つつまんで口に入れる。


「汀ちゃんは上手いなぁ」

「ここを、こう飛び越えるんだよ」

「こうか? それっ!」


子供のように騒いでいる大河内を呆れ顔で見て、圭介は手元にあった資料に目を落とした。

先ほどの壮年男性の顔写真と、経歴などが書いてある。


しばらくして、リモコンを振り疲れたのか、汀が息をついて、パラマウントベッドに体を預けた。

大河内もリモコンをテーブルに置き、彼女の汗をタオルで拭う。


「汀、少しはしゃぎすぎだ。休んだ方がいいぞ」


圭介が資料から目を離さずに言う。

汀はむすっとして彼を見た。


「全然疲れてないもん」

「まぁまぁ。歳のせいか、私のほうが先に疲れてしまった。少し休憩といこうか」


大河内がそう言って、寿司を口に入れる。


「汀ちゃんも食べるかい?」

「せんせが食べさせてくれるなら食べる」

「どれがいい?」

「うに」

「やめておけよ」


圭介が資料をめくりながら言う。


「また吐くぞ。クスリ注射したばっかだろ」

「うるさい圭介。さっきからブツブツブツブツ。邪魔しないでよ」

「はいはい」


肩をすくめた圭介の前で、大河内が小さくまとめたシャリとウニを、箸で汀の口に運ぶ。


「おいしい」


やつれた少女は笑った。

しかしその顔が、すぐに青くなり、彼女は口元を手で押さえた。


「ほらな」


慌てて大河内が洗面器を彼女の前に持ってくる。

そこに胃の中のものを全て戻し、汀は苦しそうに息をついた。

その背中をさすって、大河内がおろおろと圭介を見る。


「す……すまない。少しくらいならいいかと思ったんだが……」

「全く……人の話を聞かないから」


呆れた声で圭介は資料を脇に挟み、汀の吐瀉物が入った洗面器を受け取った。


「とりあえず、大河内も少し汀を休ませてやってくれ。俺は診察室にいるから」


バタン、と音を立ててドアが閉まる。

少し沈黙した後、汀はため息をついた。


「……圭介、怒ってる」


そう呟いた彼女に、大河内は口元をタオルで拭いてやりながら首を振った。


「疲れてるのさ。汀ちゃんも、そういう時があるだろう?」

「違うの。私には分かるの」


汀はそう言って、Wiiのリモコンを握り締めた。


「私が、役に立たないから……」


大河内が、発しかけていた言葉を飲み込む。

そこで汀は、突然右手で頭を押さえた。


強烈な耳鳴りとともに、彼女の視界が暗転する。

体を丸めた汀を、慌てて大河内が抱きとめた。


「汀ちゃん!」


汀の視界に、先ほどダイブした男性の、脳内風景が蘇る。


血の雨。

立ち尽くす男。

泣き声。

血だまり。

コンクリートの地面。

先の見えないスコール。

土砂降り。


「あなたは何をなくしたの? 」


汀はそう問いかけた。

答えは返ってこなかった。


何をなくしたのか、汀はそれを知りたかった。

何をなくして、どうして泣いているのか。

しかしスコールは、彼女のことを拒むかのように、

強く、強く降り、身体を粘ついた血液まみれにしていく。


「何をなくしたの!」


汀は叫んだ。

何度も、何度も。

掴みかかって、男を揺さぶる。


そこで汀はハッとした。

聞こえるのは、泣き声。

しかし男の顔は。

ただ、笑っていた。


「…………っ」


頭を振り、汀が声にならない叫び声を上げる。

頭の奥の方に、抉りこむような頭痛が走ったのだ。


「高畑! 高畑、来てくれ!」


大河内が大声を上げる。

そこで、汀の意識はブラックアウトした。

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